徳川和子

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徳川 和子(とくがわ まさこ・かずこ、慶長12年10月4日1607年11月23日) - 延宝6年6月15日1678年8月2日))は、江戸時代前期の女性。徳川秀忠の娘(五女)で、徳川家康の内孫。後水尾天皇中宮明正天皇の生母。また女院として東福門院(とうふくもんいん)。

略歴

慶長12年(1607年)10月4日、徳川家康より将軍職を譲られた徳川秀忠と正室江(崇源院)夫妻の間に7番目の子(5女)として江戸城大奥で誕生する。最初の名は松姫(まつひめ)(和姫(かずひめ)とする説もある)。慶長17年(1612年)には後水尾天皇即位するが、大御所・家康は和子の入内を申し入れ、慶長19年(1614年)4月に入内宣旨が出される。入内は大坂の陣元和2年(1616年)の家康の死去、後陽成院崩御などが続いたため延期された。

元和4年(1618年)には女御御殿の造営が開始されるが、後水尾天皇の寵愛する女官四辻与津子(お与津御寮人)が皇子賀茂宮を出産していたことが判明すると入内は問題視される。翌元和5年には秀忠自身が上洛して参内し、与津子の兄弟である四辻季継高倉嗣良を含む近臣らを配流し、与津子と所生の皇女梅宮らを宮中より追放することなどで合意した(およつ御寮人事件[1]

元和6年(1620年)入内に先立ち、6月2日に従三位に除せられ、同月18日に後水尾天皇の女御として入内する。入内にあたっては主上百と銀千枚、中和門院に袷五十と銀五百枚、近衛信尋一条昭良(どちらも後水尾天皇の同母弟で、近衛家一条家に養子に入っている)に、それぞれ帷子及び単物二十と銀百枚ずつの幕府からの献上があったが、土御門泰重はその量が少ないと日記に記している[2]。入内の様子は二条城から盛大な行列を伴い、『東福門院入内図屏風』に描かれている。元和9年(1623年)には懐妊し、同年6月には秀忠と嫡男家光将軍宣下のため上洛し、禁裏御領1万石を寄進される。同年11月19日には皇女 女一宮興子内親王(後の明正天皇)が誕生する。

寛永元年(1624年)11月28日には冊立され中宮となり、同2年(1625年)9月には女二宮が誕生する。寛永3年(1626年)には秀忠・家光が上洛し後水尾天皇の二条城行幸が行われ、和子は同年11月13日には高仁親王を出産した。

しかし寛永4年(1627年)、高仁親王は夭折。この年生まれた男二宮も誕生直後に没した[3]。寛永6年(1629年)には朝幕間で紫衣事件が発生し、同年10月8日に後水尾天皇は突然譲位し、女一宮に内親王宣下が下され、践祚する。同年11月9日には院号宣下があり、東福門院の号を賜る[4]

翌寛永7年(1630年)9月12日、女一宮は即位し、明正天皇となる。

寛永11年(1634年)には新将軍となった兄の家光が上洛し、にあたる明正天皇に拝謁し東福門院の御所も訪れている。延宝6年(1678年)6月15日、崩御、72歳。京都泉涌寺月輪陵域に葬られた。

人物

  • 諱の訓は始め「かずこ」であったが、入内に際し濁音を忌み嫌う宮中の慣習にしたがい、「まさこ」に改めた。
  • 家康は徳川家天皇外戚とするべく皇子誕生の期待を持って和子を宮中に送り込んだ意図があったと考えられているが、出生した2男5女のうち、2皇子はすべて早世している。そのため、夫と別の女性との間に生まれた後光明天皇を養子として実娘・明正天皇の後継者とし、夫と徳川家双方の面目を立てた。
  • 気が強い夫・後水尾天皇と天皇家を押さえつけようとする幕府の間を取り持つことに奔走する気苦労の多い生涯であった。
  • 夫・後水尾天皇は後に寛永文化といわれる様々な文芸芸術の振興に尽くしたことで知られるが、妻の和子自身もかなりのセンスの持ち主であった。
    • 茶道を好み、千利休の孫である千宗旦を御所に招き茶事を行い、茶道具に好み物も多く、野々村仁清に焼かせた長耳付水指(三井記念美術館所蔵)が現存する。
    • 宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだのは和子といわれ、尾形光琳乾山兄弟の実家である雁金屋を取り立てたとされる[5]。和子の注文した小袖のデザインは後に年号から“寛文小袖”と言われるようになった。
  • 手先が非常に器用な女性であり、特に押絵を得意とした。現在日本現存最古の押絵は和子の作成の物と言われる。また、京の文化人にとっては和子の押絵を拝領することは一種のステータスであり、現在千家では和子作の押絵を多数所蔵しているという[6]

参考文献

関連文献

小説
ノンフィクション
  • 柿花仄『養源院の華 東福門院和子』(木耳社1997年)ISBN 978-4839376857

脚注

テンプレート:Reflist

テンプレート:歴代皇后一覧
  1. なお上杉景勝側室四辻氏は、与津子・季継・嗣良らの姉妹である。
  2. 熊倉功夫 『後水尾天皇』中公文庫 ISBN 978-4122054042、73p
  3. この男二宮は誕生直後に江戸幕府の意向によって八条宮家に養子に出されて皇位継承から除かれ、八条宮家の皇子として葬られた。当時、紫衣事件を巡って後水尾天皇の譲位がささやかれ、幕府としては徳川の血を引く天皇の即位を断念してでも、天皇の譲位による朝幕関係の悪化を防止する必要に迫られていた。だが、最終的に天皇は内親王への譲位という強硬策に出ることになる(野村玄『日本近世国家の確立と天皇』(清文堂、2006年) ISBN 978-4-7924-0610-3 P156-167)。
  4. 中宮源和子の東福門院院号宣旨(「孝亮宿禰記」)
    左中辨藤原朝臣俊克傳宣
    權大納言藤原朝臣公益宣
    奉 勅以母中宮宜爲東福門院者
    寛永六年十一月九日 主殿頭兼左大史小槻宿禰孝亮奉
    (訓読文) 左中弁藤原朝臣俊克(坊城俊克)伝へ宣(の)り、権大納言藤原朝臣公益(西園寺公益)宣(の)る、勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、母中宮(徳川和子)を以て、宜しく東福門院に為すべし者(てへり)、寛永6年11月9日 主殿頭兼左大史小槻宿禰孝亮(壬生孝亮)奉る
  5. 雁金屋の代々当主である尾形家はもとは浅井家の縁戚であり、崇源院の乳母・民部卿局の実家とされる。和子は自分や娘、女官達の着物を自ら図案を考案した上、雁金屋に大量に注文した。その注文書は『雁金屋関係史料』といわれ、現在大阪市立美術館川島織物が所蔵している。費用は1着:500とされ、当時の大奥で定められた最高額(1着:銀300匁)を遙かに越える物であった。年間5千両以上に及ぶその費用は、和子の入内に引け目のあった幕府が負担した。この出費は上方町人を豊かにし、後の元禄文化の流行の元となったとされるが、江戸時代中期以降、幕府が困窮するきっかけともなった。京都国立博物館 編『花洛のモード きものの時代 Kyoto style Trends in 16th‐19th century kimono』(思文閣出版2001年) ISBN 4-7842-1072-5 を参照。
  6. 淡交社『名物裂』(淡交別冊35号)を参照。