春申君

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春申君(しゅんしんくん、? - 紀元前238年)は、中国戦国時代政治家(あつ)[1]戦国四君の一人。考烈王を擁立し、国勢の傾いた楚を立て直した。

略歴

秦の人質

黄歇(こうあつ)が国政に最初に登場したのが紀元前274年頃襄王の命を受けてに使いに行った時である。この頃、秦はを従えて、楚を攻めようとしていた。黄歇は秦の昭襄王に上書して「天下に秦と楚以上に強い国はありません。秦が楚を攻めることは両虎相打つようなものであり、共に傷ついて弱い犬(韓・魏のこと)を利するでしょう。」と説いた。昭襄王はこの言葉の理を認め楚と和平することにした。

翌年、楚は和平の証として太子の完(後の考烈王)を秦に人質として入れることになり、黄歇はその侍従として秦に入った。紀元前264年、国元で頃襄王が病に倒れた。このままでは国外にいる完を押しのけて公子の誰かが王となってしまう可能性が強いので、黄歇は秦の宰相・范雎に説いて完を帰国させるように願った。范雎からこれを聞いた昭襄王はまず黄歇を見舞いに返して様子を見ることにした。ここで黄歇は完を密かに楚へと帰国させ、自らは残ることとした。事が露見した後、昭襄王は怒って黄歇を殺そうとしたが、范雎のとりなしで楚へと帰国することが出来た。その3ヵ月後に完が即位して楚王となった。

黄歇はこの功績で考烈王より令尹に任じられ、淮北(淮河の北)の12を貰い、春申君と号した。

令尹として

紀元前258年の首都邯鄲が秦によって包囲され、平原君が救援を求める使者としてやって来た。春申君はこれに応えて兵を出し、秦は邯鄲の包囲を解いて撤退した。

紀元前248年、王に「淮北は斉に接する重要な土地であるから直轄のにした方が良いでしょう」と言上して、淮北の代わりに江東を貰い、かつてのの城を自らの居城とした。その後、軍を出してを滅ぼした。

春申君はその元に食客を3千人集めて、上客は全て珠で飾った履を履いていたという。客の中には荀子もおり、春申君は荀子を蘭陵県の令(長官)とした。

紀元前241年、諸侯の合従軍を率いて秦を攻めたが、失敗した。この失敗により考烈王は春申君を責めて疎んじるようになる。

同年、春申君の提言により楚は寿春へと遷都した。

最期

春申君の食客のひとりに李園がいた。李園の妹は美人でいずれ考烈王に差し出して出世しようと企んでいた。春申君はその妹を寵愛していた。その後、李園の妹は春申君の子を身篭る。これに対して李園は考烈王に子が無いこと[2]に付け込んで、春申君に「私の妹を王に献上し、腹の中の子を王の子として、次代の王にすれば、楚はあなたの思うままになります」と言った。春申君はこの策を真に受けてしまい、考烈王に進言し李園の妹を献上した。彼女は王后となり、李園は高位に登った。

その後、李園は事の露見を恐れて春申君の命を狙うようになり、危機感を覚えた春申君の食客の朱英は「この私に李園の殺害を命じてください」と言ったが、春申君は李園を軽く見ていたのでこれを相手にしなかった。身の危険を感じた朱英は間もなくそのまま逃亡した。

紀元前238年、考烈王は病死する。葬儀に向かう春申君は、棘門(城門の名前)で待ち伏せていた李園の刺客に従者もろとも殺害され、城外にその首を捨てられた。そして、一族郎党皆殺しとなった。

李園の妹が産んだ子が即位し、幽王となった。

死後

春申君と幽王に関しての話は『史記』に拠る。これと良く似た話が呂不韋始皇帝にもあり、この二つの話を史実ではないと考える歴史家もいる(また日本にも白河法皇平清盛土岐頼芸斎藤義龍などの似たような伝承がある)。

なお、幽王は在位10年目の紀元前228年に死に、幽王の同母弟の哀王が継ぐが在位2ヶ月目で庶兄の負芻に襲撃され殺された。

ちなみに史記で司馬遷は、春申君の最期について「春申君老いたり」と記している。

脚註

  1. 「歇」のアツという読みは『史記九 列伝二』(明治書院 新釈漢文大系、ISBN 4625570891)より。『漢語林』(大修館書店、ISBN 4-469-03116-X)によればケツ(漢音)・ケチ(呉音)。他にもカツコチ(呉音)という発音も見かけられるが、これらの用例等は不明。
  2. 史記索隠』によると、「楚君(考烈王)に子がなかったと述べているが、幽王以外にも子(楚の最後の王負芻など)を儲けているので、これは誤りである」と述べている。