戸田忠昌

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戸田 忠昌(とだ ただまさ)は、江戸時代前期の大名奏者番寺社奉行京都所司代老中を務めた。三河田原藩第3代藩主、肥後富岡藩主、武蔵岩槻藩主、下総佐倉藩初代藩主。父は旗本小姓組番士戸田忠次、母は伴忠好の娘。『土芥寇讎記』における人物評価、特に「謳歌評説」などでは忠昌やその他大久保忠朝阿部正武ら同僚を「善人の良将」と評している。

生涯

家系は戸田氏の一門、田原戸田家の嫡流である。寛永16年(1639年)9月、子供の無い伯父の田原藩主戸田忠能の養子となった(実父の跡は弟忠時が継ぎ、のちに加増を受けて足利藩主となる)。

正保4年(1647年)8月21日、忠能の死により家督を継いだ。万治元年(1658年)閏12月27日、従五位下伊賀守に叙任して翌年、はじめて城地に赴いた。

寛文4年(1664年)5月、肥後富岡藩(天草藩)に転封となり1万石を加増、富岡城に赴任したが、寛文10年(1670年)、城の必要性を疑問視し三の丸を陣屋として残し、本丸・二の丸を破却した。寛文11年(1671年)には奏者番となり、寺社奉行を兼ねた。同年に転封を命ぜられ、相模下総武蔵常陸に領地を移された。延宝4年(1676年)、京都所司代に補任し、従四位下侍従に進み、越前守に改めた。

さらに1万石の加増を受け、領地を畿内に移される。天和元年(1681年)7月、河内にて1万石の加増があった。同年11月15日、老中に列し、武蔵岩槻藩主に転封された。岩槻藩主時代は領内笹山村(蓮田市笹山)に溜井落し堀を造ったといい、忠昌の受領名・山城守からとって「山城堀」と呼ばれる様になったという。天和3年(1683年)正月、下総佐倉藩に転じて1万石の加増を受けた。

貞享元年(1684年8月28日大老堀田正俊が従叔父で若年寄だった稲葉正休に声をかけられ、不意に殺害された。この時、「石見(稲葉の官名)乱心」の声を聞いた老中達が駆けつけ、大久保忠朝阿部正武、次いで忠昌が正休を斬った。元禄7年(1694年)、河内志紀、若江、丹北三郡の内にて1万石の加増を受けて7万1,000石を領した。清廉潔白にして才智仁愛に富んでいたという。

元禄12年(1699年)9月10日、老中在職のうちに没した。享年68。江戸牛込松源寺に葬られ、以後同寺を以って田原戸田家の菩提寺となったという。長男の喬知は妻の父・秋元富朝の養子となり甲斐谷村藩を継承、家督は次男の忠真が継いだ。2人は後に老中に就任した。

元禄赤穂事件に関与した高田郡兵衛は元々小笠原長重の家臣であったが、その後浪人し、忠昌の口利きで播磨赤穂藩浅野長矩に仕えたという。

『名将言行録』にある逸話

名将言行録』には次のような記録がある。

忠昌は若年の折は豪放にして、節度正しくないことも多かった。寵愛の妾より事起こり、老臣の彦坂与次右衛門の諫言により、妾を追放せんことにはこの場を退出しないと2日間、昼夜座り続けたまま眠らず、忠昌は大いに感悟してついに妾を追放した。以後、万事行い正しく、ついに幕府老中として重きをなす名臣となったという。

ある年、江戸に大火があり、紀州藩徳川頼宣が江戸城の将軍を気遣い登城せんとしたが、17歳であった忠昌は江戸城の勤番として城内に詰めていたが、門を通さず、非常の固めであれば、お通しし難く、老中に掛け合って頂きたいと述べた。頼宣は早速、酒井忠清と対面したが、城内に別条なければ御登城に及ばずと伝え、頼宣はその場を退いたという。酒井忠清はこの折の忠昌の対応を感じ入ったといい、その模様が次の様に記録されている。「若年にて警固の心得丈夫なるを称して、背中をほとほと打ければ、著込みを著用して居たり。忠清手を拍て、益々感じ、格別の器量驚入りぬとて帰りけり」とある。忠清はこのことを同僚に述べ、賛辞を止めなかったという。それ以前は忠清は忠昌と特段親しいわけではなかったが、この形容に感じて、常に賞賛したという。よって、肥後国天草藩主に欠員が出た折は、幕閣の間にて天草に置くべき人は忠昌を越える者なしと決せられ、忠昌は天草藩主に転ずることになったという。

忠昌老年の折、孫婿に酒井忠真なる者がいた。忠真が幼年の為、親族の松平信興(原文では誤って「信奥」となっている)が後見し、藩の重要事項は忠昌が携わった。貞享の折、ある時酒井家に1,000石を領す家臣がいたが、その嫡男は不出来の人で家督とするには心もとなく、廃嫡してもその他に息子もいなかった。しかし、親族のうちに優秀なる甥がいるのでこの者を養子としたいと思ったが、その家臣は特段養子縁組の手続きもなすことなく、急に亡くなったという。酒井家ではその者の相続の儀如何にしようかと考えあぐねて、故人の嫡男とその甥に500石ずつ分知してはどうかと相計り、後見の松平信興に相談した。信興もまた、その嫡男が不出来であれば皆々が申す通りその案は尤もであるが、重い決定であれば忠昌に相談した方が良いと申したといった。

これにより、この酒井家では、家臣の家督相続の儀を忠昌に相談したが、忠昌は酒井家代々の作法もあろうこと故に何事も申しがたい。幕府のことであれば何事でも申し述べようがと言ったという。酒井家の者は、重ねてかつてこの様なことで知行を減じたことはないが嫡男と甥で分けてはどうかと相談したく、酒井家の家臣はご相談せんと罷り越した次第であると伝えたものの、忠昌は小身の者でも家督のことは重きことなれば善悪とも申し難いと述べたという。酒井家の者はこれを信興に伝えると、忠昌がその様に申すのは意味があってのことだろうから、伺って仔細を尋ねてみようと言った。

信興と酒井家の家臣は再び忠昌の下に参じてこの談を議したところ、重ねてたずねられることではあるので忠昌も見解を述べたという。忠昌が申すには、故人は藩主の忠真が幼い折より使えた大功の老臣であるが、故人の嫡子不出来である故、甥であれば藩のお役に立つとのことで、それぞれ500石ずつ与えるというのは尤もとは言い難い。父の知行をすべて子に与えてこそ、その功労に報いることにはならないだろうか。故人が甥に継がせたいというのは、まこと以って忠臣というべきではある。しかし、生前に子を廃嫡し、甥に家督相続の儀を届け出ているのであれば、故人の意思を尊重するのに何の躊躇もないが、そうした手続きもなくすべては死後のことであれば、実子に俸禄のすべてを相続させて、その甥には小知でも与えたらどうかという沙汰を伝えた。これを聞いた者は皆感心し、その通りの沙汰を下したという。


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