成田文男

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テンプレート:Infobox baseball player 成田 文男(なりた ふみお、1946年10月2日 - 2011年4月21日)は、東京都足立区出身の元プロ野球選手投手)。

来歴・人物

幼少期は秋田県で過ごす。

修徳高校では3年生の夏、テンプレート:By夏の都大会決勝戦で荒川尭(旧姓出澤)、大矢明彦のいた早実高を破り、第46回全国高等学校野球選手権大会に出場。修徳を春夏通じて初の甲子園出場に導いた。2回戦で海南山下慶徳投手に抑えられ敗退。

テンプレート:By東京オリオンズに入団。速球と切れのいいスライダーを武器に、入団2年目のテンプレート:Byから主力投手として活躍する。

テンプレート:Byからテンプレート:Byにかけて3年連続20勝を達成。この間、テンプレート:By8月16日の対阪急ブレーブス戦でノーヒットノーランを達成。1970年には25勝を挙げて最多勝のタイトルを獲得し[1]、同年のロッテのリーグ優勝に大きく貢献した。

テンプレート:By2月23日からチームのアメリカアリゾナキャンプに参加し、オープン戦ながらサンフランシスコ・ジャイアンツを延長10回、1失点に抑える快投を披露した。成田のピッチングは当時メジャーリーグを代表する打者であったウィリー・メイズウィリー・マッコビーも驚かせ、メジャーの球団からも誘いを受けた。メイズとマッコビーを三振に仕留めたこの試合を、成田は「最も記憶に残っているゲーム」に上げている[2]

テンプレート:Byには21勝を挙げて2度目の最多勝に輝き、最多奪三振ベストナインなどのタイトルも獲得[3]

テンプレート:Byもローテーションの一角として日本一に貢献する。

当時の監督である金田正一の下、木樽正明金田留広村田兆治と共に投手陣4本柱を形成する。しかしながら、金田は速球主体で真っ向勝負する木樽や村田のような投手が好みで、どちらかといえば頭脳派のスマートな投球スタイルの成田はいつも叱られていたという。成田は「こっちは考えながら投げているのに『逃げてばかりいるな!』と叱られてばかりいた。逃げてばかりいたら8年連続で3ケタ三振取れますかいな」と述懐している。400試合登板という記念の試合でも4回2/3で交代を命じられている。ただ、金田も成田の頭の良さと何でもソツなくこなすセンスの良さは認めており、自分にないスタイルで結果を出す成田に対し敬意と邪道とする思いがないまぜになった結果、辛く当たっていたのが真相のようである。

テンプレート:By日本ハムファイターズに移籍。

テンプレート:Byのリーグ優勝には多彩な変化球を使いこなしてリリーフ投手として貢献した。

テンプレート:Byに現役引退。

引退後は埼玉県でスポーツ用品店を営んだが、後に建設会社に転職し、広報課長を務める。1990年代には趣味であるゴルフに没頭し、羽田空港周辺にあるゴルフ練習場にアシスタントプロとして勤務していたが、2000年頃に岐阜県に移住し、山県市で喫茶店を経営しながら少年野球のコーチなどを務め、野球普及活動に尽力していた[4]

ビートたけしと同じ足立区立第四中学校出身であり、たけしが野球部に所属していた時に主戦投手であったのが成田であった。そのつながりで、たけしが司会の番組ビートたけしのスポーツ大将テレビ朝日系列)に出演していたことがある。

2011年4月21日肝不全のため岐阜市の病院にて死去[5]テンプレート:没年齢

プレースタイル

成田は伊藤智仁宣銅烈と共に、最もキレの鋭いスライダーを投げた投手として知られている[6]。成田のスライダーは非常に球速の速い高速スライダーである(今で言うカット・ファスト・ボールの一種であるという説もある)。その投げ方は人差し指と中指を直球よりも揃えて握り、斜め上回転を加えることでスピードが落ちないようにするというものだった[7]。後に首位打者のタイトルを獲得する佐々木恭介は、新人の年の開幕戦1打席目に成田と対戦し、スライダーで3球三振に倒れている。そのスライダーの球速について佐々木は「140km/hをゆうに超えていた」と語っている。捕手として数多くのスライダーを受けた野村克也も「最高のスライダーを投げたのは成田。真っ直ぐのスピードでピュッと曲がる。魔球の一種や[8]」と評価している。

成田が20勝を挙げた1968年に開催された日米野球で来日したセントルイス・カージナルスの若手左腕投手だったスティーブ・カールトンは、対戦した成田のスライダーに衝撃を受けてこれを習得し、後にメジャーリーグを代表する大投手となり、サイ・ヤング賞など数々のタイトルに輝き、アメリカ野球殿堂入りを果たした。速球と同じスピードで鋭く変化する本来のスライダーよりも曲がりが大きく、カーブよりは変化が小さく球速があったカールトン独特のスライダーは「メイド・イン・ジャパン」とも呼ばれた[9]

スライダーを武器に活躍した西武ライオンズのエース東尾修は、木樽と成田のスライダーと体の使い方を手本にしていたと語っている。東尾によれば、成田のスライダーは下半身を巧みに使ったもので、ややぬかるんだマウンドで投げる時に特に参考になったと言う。

またコントロールにおいても優れており、成田は「ホームベースの角を1mmか2mm外れることはあっても、狙ってほぼ同じコースに投げることができた」と語っている。

打撃の良い投手としても知られ、満塁本塁打2本や3試合連続を含む通算15本塁打を打っている。

詳細情報

年度別投手成績

テンプレート:By2 東京
ロッテ
1 0 0 0 0 0 0 -- -- ---- 11 2.0 4 0 0 0 1 2 0 0 2 2 9.00 2.00
テンプレート:By2 45 18 5 1 0 8 7 -- -- .533 688 172.2 144 23 36 2 5 101 0 0 68 61 3.18 1.04
テンプレート:By2 55 35 10 3 5 14 16 -- -- .467 1072 272.2 208 23 52 6 2 179 5 0 82 64 2.11 0.95
テンプレート:By2 49 38 19 2 2 20 11 -- -- .645 1235 306.2 238 33 88 13 7 187 0 0 112 99 2.91 1.06
テンプレート:By2 48 43 21 9 4 22 13 -- -- .629 1276 317.0 276 29 70 5 9 185 2 0 115 96 2.73 1.09
テンプレート:By2 38 36 21 3 2 25 8 -- -- .758 1107 277.2 217 36 66 5 9 195 1 0 102 99 3.21 1.02
テンプレート:By2 35 23 7 2 1 11 9 -- -- .550 783 189.0 169 34 62 5 4 121 2 0 93 90 4.29 1.22
テンプレート:By2 41 33 13 2 2 11 14 -- -- .440 967 233.2 229 37 55 2 9 122 2 0 121 115 4.43 1.22
テンプレート:By2 52 32 16 7 3 21 10 -- -- .677 1097 273.2 203 27 89 7 10 178 2 4 89 80 2.63 1.07
テンプレート:By2 37 24 7 0 0 9 10 3 -- .474 723 178.0 139 21 58 3 5 96 5 0 75 65 3.29 1.11
テンプレート:By2 31 29 11 2 2 15 9 0 -- .625 836 203.0 186 28 53 1 6 107 2 0 83 75 3.33 1.18
テンプレート:By2 35 26 4 1 2 10 10 1 -- .500 693 165.2 164 17 39 4 6 98 5 0 78 63 3.42 1.23
テンプレート:By2 15 4 0 0 0 1 2 1 -- .333 194 43.0 47 5 19 1 2 21 1 0 27 26 5.44 1.53
テンプレート:By2 9 5 1 0 0 2 2 0 -- .500 157 35.0 40 3 10 0 4 18 0 0 16 16 4.11 1.43
テンプレート:By2 日本ハム 27 1 0 0 0 2 4 3 -- .333 230 58.1 43 6 11 1 3 31 2 0 18 16 2.47 0.92
テンプレート:By2 14 7 0 0 0 4 4 0 -- .500 207 50.2 49 4 16 1 1 16 0 0 18 14 2.49 1.28
テンプレート:By2 2 0 0 0 0 0 0 0 -- ---- 17 2.1 10 2 1 0 0 0 0 0 0 8 30.86 4.71
通算:17年 534 354 135 32 23 175 129 8 -- .576 11293 2781.0 2366 328 725 56 83 1657 29 4 1107 989 3.20 1.11
  • 各年度の太字はリーグ最高
  • 東京(東京オリオンズ)は、1969年にロッテ(ロッテオリオンズ)に球団名を変更

タイトル

  • 最多勝:2回 (1970年、1973年)
  • 最多奪三振(当時連盟表彰なし):1回 (1973年) ※パシフィック・リーグでは、1989年より表彰

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100勝:1971年9月19日、対阪急ブレーブス23回戦(阪急西宮球場)、9回完封勝利 ※史上54人目
  • 1000奪三振:1972年5月10日、対西鉄ライオンズ3回戦(東京スタジアム)、1回表に阿部良男から ※史上41人目
  • 150勝:1975年8月1日、対阪急ブレーブス後期3回戦(川崎球場)、9回1失点完投勝利 ※史上29人目
  • 1500奪三振:1976年5月22日、対阪急ブレーブス前期7回戦(後楽園球場)、3回表に中沢伸二から ※史上22人目
  • 500試合登板:1980年7月27日、対近鉄バファローズ後期2回戦(後楽園球場)、6回表に4番手で救援登板・完了、4回無失点 ※史上44人目
その他の記録

背番号

  • 46 (1965年 - 1971年)
  • 18 (1972年 - 1979年)
  • 13 (1980年 - 1982年)

脚注

テンプレート:Reflist

参考文献

関連項目

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  1. 年度別成績 1970年 パシフィック・リーグ
  2. 二宮(2014,179)
  3. 年度別成績 1973年 パシフィック・リーグ
  4. テンプレート:Cite news
  5. テンプレート:Cite news
  6. 二宮(2014,178)
  7. 二宮(2014,183)
  8. 二宮(2014,178-179)
  9. 小野(2013,284)