愛新覚羅溥傑

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ファイル:Gobulo Runqi and his wife and Aisin-Gioro Pujie.jpg
韞穎とその夫である郭布羅潤麒(皇后婉容の弟:中央)と溥傑(1934年3月)
ファイル:Aisin-Gioro Pǔjié and Lady Hiro Saga 1937 wedding photo.jpg
愛新覚羅溥傑と嵯峨浩の婚儀
昭和12(1937)年4月3日、軍人会館にて
ファイル:Aisin-Gioro Pujie and his family.jpg
慧生の写真を撮る溥傑と浩夫人(1938年)

愛新覚羅溥傑(あいしんかくら ふけつ、1907年4月16日 - 1994年2月28日)は、清朝における地位は醇親王継嗣満州国軍人としての階級陸軍中校(中佐に相当)。中華人民共和国では全人代常務委員会委員。立命館大学名誉法学博士書家でもあり、流水の如き独特の書体は流麗で人気が高かった。

2013年9月、愛新覚羅溥傑の次女である福永嫮生から関西学院博物館準備室に、愛新覚羅溥傑家関係資料(愛新覚羅溥傑・妻の浩・娘の慧生・嫮生の各氏に関係する貴重な写真、原稿、書、書簡、書籍や、溥傑並びに浩夫人の実家である嵯峨侯爵家(旧正親町三条家)に関係する資料など)が寄贈されている。

プロフィール

生い立ち

醇親王載灃と瓜爾佳氏の次男として生まれた溥傑は、兄である皇帝に仕え信頼を得ていた。また、醇親王家長男の溥儀が皇帝となったため、溥傑が醇親王家の継嗣となった。1929年日本学習院留学1933年3月、同高等科卒業。同年9月、陸軍士官学校入学、1935年7月、同校を卒業した。

結婚

1932年満州国が建国され、兄の溥儀が執政のちに皇帝となると、翌年満州国陸軍に入隊する。溥傑ははじめ、端康太妃の姪・唐石霞と結婚したが、価値観の違いからうまくいかず、唐石霞は実家に帰ってしまい、婚姻生活はその後の溥傑の日本留学とともに自然消滅した。

当初溥儀は、溥傑を日本の皇族女子と結婚させたいという意向をもっていた。しかし日本の皇室典範は、皇族女子の配偶者を日本の皇族、王公族、または特に認許された華族の男子に限定していたため、たとえ満州国の皇弟といえども溥傑との婚姻は制度上認められなかった。そこで、1937年侯爵嵯峨実勝の長女で、昭和天皇の遠縁(父親同士が母系のまたいとこ、八親等)にあたるとの縁談がまとめられた。当時溥傑は日本の陸軍歩兵学校に在籍していたため、ふたりは現在の千葉市稲毛区に新居を構えた[1]。明らかな政略結婚だったが、ふたりの仲は円満で、慧生嫮生の二女に恵まれた。当時、関東軍や満州国上層部は溥儀の実子生誕は半ば諦めており、溥傑夫妻に将来の満州国皇帝となる男子生誕を大きく期待していたと言われる。

            中山忠能
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       ┏━━━━━━┫                              荘順皇貴妃===道光帝===孝全成皇后
孝明天皇===慶子   中山忠光   嵯峨実愛                 ┏━━━━━━━━┛              ┗━━━━━━┓
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    明治天皇      仲子===嵯峨公勝  栄禄   側妃 劉佳氏===醇親王 奕譞===妃 葉赫那拉氏 桂祥 西太后===咸豊帝
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    大正天皇       嵯峨実勝       妃 幼蘭===  醇親王 載灃      光緒帝 ===== 孝定景皇后   同治帝
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    昭和天皇         浩 =====  溥傑   溥儀(宣統帝)━━━━━━━━━━━(養子)━━━━━━━━━(養子)
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     ┃             ┏━┻━┓
    今上天皇          慧生  嫮生

満洲国崩壊

その後の康徳8年(1941年)12月に日本がイギリスアメリカなどの連合国と交戦状態に入ったことを受け、満州国もこれらの国々と戦争状態に入ったものの、満州国はほとんど戦禍を受けなかったために、満州国陸軍の将校として前線に出ることはなかった。康徳10年(1943年)には日本陸軍大学校に入校したため、溥傑とその一家はしばらくの間東京に居を移すこととなった。

康徳11年(1944年)12月に学習院初等科に在学中の長女の慧生を残して満州に戻る。これが慧生と永遠の別れになる。康徳12年8月8日に、ヤルタ会議でのイギリスやアメリカなどのほかの連合国との密約により、突如ソ連政府はモスクワ佐藤尚武駐ソ連日本国特命全権大使に対して日ソ中立条約の破棄を通告し、まもなくソ連軍赤軍)が北西の外蒙古(現在のモンゴル国)及び北東の沿海州の2方向からソ満国境を越えて満州国に侵攻した。

主力を南方戦線にとられていた関東軍は一方的に敗走し、溥傑やその家族、満州国の閣僚や関東軍の上層部たちは、ソ連の進撃が進むと首都の新京を放棄して、朝鮮に程近い通化省臨江県大栗子に避難していた。しかし、8月15日太平洋戦争大東亜戦争)に日本が敗北したことにより、その2日後の8月17日国務院会議が満州国の解体を上奏、8月18日には大栗子で溥儀が満州国解体を自ら宣言するとともに皇帝を退位した。

戦犯

その後溥儀と溥傑は、ソ連軍に捕まることを避けて通化から日本軍機で日本へ逃亡する途中、経由地の奉天の飛行場でソ連軍空挺部隊に捕らえられた。その後ソ連領内に移送され、ソ連極東部のチタハバロフスクの収容所に収監された。

その後の1950年に中華人民共和国に送還され、戦犯とされて撫順ハルビンの戦犯収容所で中国共産党による「再教育」を受けた。1954年、長女の慧生が周恩来首相に「父に会いたい」という中国語で書いた手紙を出し、それに感動した周により日本にいる妻子との文通を許可される。しかし、1957年12月4日学習院大学に進学していた慧生が、交際していた同級生、大久保武道と伊豆天城山でピストル心中した(天城山心中)。

日中友好の架け橋

1960年に模範囚として釈放され、北京に帰る。翌年、妻との再会を果たし、文化大革命を乗り越え、全国人民代表大会常務委員会委員を務めるなど、社会への復帰を果たした。また、1972年日中国交正常化の後、7度の訪日[2]で日中友好の架け橋として活躍した。

死去

1987年6月には、長年連れ添った夫人浩が北京の病院で死去した。だがその後も日中友好の懸け橋として両国間で活躍し、1989年1月の昭和天皇崩御時には日本大使館に弔問に訪れた。1991年には立命館大学より名誉法学博士の名誉学位を贈呈される[3]

前年から療養中だったが1994年に北京で死去した。遺骨は溥傑の生前からの希望によって浩・慧生の遺骨と共に日中双方によって分骨され、日本側の遺骨は山口県下関市中山神社(浩の曾祖父である中山忠光が祀られている)境内にある摂社愛新覚羅社に、浩・慧生の遺骨とともに納められ、中国側の遺骨は三人共に中国妙峰山上空より散骨された。

人柄

陸士時代は小柄な体つきながら相当な精神力の持ち主であり真面目で、厳しい訓練にも耐え抜いたと言う。それと同時に心優しい性格であった事も知られており、非常な家族想いで、妻や娘はもちろん、兄弟愛も強かった。

軍歴

溥傑は日本に留学した後、日本陸軍でも学び、満州国の軍人としても活動している。下記はその軍歴である。

1933年昭和8年)
4月 陸軍士官学校に入学。
1935年康徳2年・昭和10年)
7月 陸軍士官学校卒業。見習士官として歩兵第59連隊へ入隊。
10月 (満州国)歩兵中尉任官
1937年(康徳4年・昭和12年)
9月 (満州国)禁衛歩兵連隊新京)大尉に任官。
1939年(康徳6年・昭和14年)
春 (満州国)駐日大使館付武官(東京)に任官。
11月 (満州国)歩兵将校軍官学校教官に任官。
1943年(康徳10年・昭和18年)
12月 陸軍大学校に入学。
1944年(康徳11年・ 昭和19年)
12月 陸軍大学校卒業。

関連文献

  • 『溥傑自伝―満州国最後の皇弟を生きて』 (1995年、河出書房新社)ISBN 4309222684
  • 愛新覚羅浩 『流転の王妃の昭和史』 (主婦と生活社 1984年、新潮文庫1992年) 妻の回想録
    • 愛新覚羅浩 『流転の王妃 満州宮廷の悲劇』(文藝春秋新社 1959年) 旧版-上記2冊はドラマ版の原作、旧版は映画の原作
  • 渡辺みどり 『愛新覚羅浩の生涯 昭和の貴婦人』(読売新聞社1992年、文春文庫1996年)  
  • 舩木繁 『皇弟溥傑の昭和史』(1989年、新潮社) ISBN 4103723017
     ※著者は、溥傑とは陸軍士官学校の同期生。溥傑夫妻の親族にも知り合いが多い。彼らや溥傑本人からの聞き取り、諸々の文献を参照し溥傑の生涯の大半を綴った伝記(生誕時から1988年1月までの時点)である。

脚注

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関連項目

溥傑夫妻を題材とした作品
  • 「千葉市ゆかりの家・いなげ」として現在一般公開されている。
  • 1974年1980年1981年1982年1987年1990年1992年の計7回。1993年にも訪日する予定であったが、直前に病に倒れ、翌年死去する。
  • 歴史地理探訪こぼれ話 「愛新覚羅溥傑氏と立命館大学」