市川團十郎 (9代目)

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テンプレート:歌舞伎役者 九代目 市川 團十郞(くだいめ いちかわ だんじゅうろう、新字体:団十郎天保9年10月13日1838年11月29日) - 1903年明治36年)9月13日)は明治時代に活躍した歌舞伎役者。屋号成田屋定紋三升(みます)、替紋は杏葉牡丹(ぎょよう ぼたん)。俳号に紫扇(しせん)・團州(だんしゅう)・壽海(じゅかい)・三升(さんしょう)、雅号には夜雨庵(ようあん)。本名は堀越 秀(ほりこし ひでし)。

五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次とともに、いわゆる「團菊左時代」を築いた。写実的な演出や史実に則した時代考証などで歌舞伎の近代化を図る一方、伝統的な江戸歌舞伎の荒事を整理して今日にまで伝わる多くの形を決定、歌舞伎を下世話な町人の娯楽から日本文化を代表する高尚な芸術の域にまで高めることに尽力した。

その数多い功績から「劇聖」(げきせい)と謳われた。また歌舞伎の世界で単に「九代目」(くだいめ)というと、通常はこの九代目 市川團十郎のことをさす。

修業時代

七代目 市川團十郎の五男で、生後まもなく河原崎座の座元・六代目 河原崎権之助の養子になり三代目河原崎長十郎を襲名する。義父母とも長十郎の将来のためにと、幼い時より踊りや三味線、さらに書道や絵画なども学ばせた。

朝早くから夕方まで休みなしで稽古をつけられ、夜は早いうちに寝るという手厳しいもので[1]、後に九代目自身がこの当時のことを、「体が自分のものになるのは便所に入っている時くらいのものだった」と語っている。丈夫な体が自慢だった実父の七代目 團十郎もさすがにこれを心配して意見したが、義母は平然と「他の子は砂糖漬けだが、うちは同じ砂糖漬けでも唐辛子が入ってあるよ」と答えたという。弘化2年正月(1845年2月)、8歳のとき河原崎座『魁源氏曾我手始』の小奴升平実ハ源太丸で初舞台を踏む。

雌伏の時代

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東海道四谷怪談』の神谷伊右衛門(河原崎権十郎時代)

嘉永5年9月(1852年10月)将軍家に男子が生まれ長吉郎と名付けられたので、「長」の字をはばかり初代河原崎権十郎を襲名する。その2年後、兄の八代目 市川團十郎が大坂で自殺、この頃から次弟の権十郎がゆくゆくは「市川團十郎」を襲名することが期待されるようになる。そのため養父母の教育はさらに厳しいものになり、ある日ひどい頭痛で舞台を休もうとしていたところ、養父が「貴様は何だ、役者ではないか。役者が舞台へ出るのは、武士が戦場へ行くのと同じことだ。舞台へ行って死んでこい」と叱責されて無理矢理舞台に出されたこともあった[2]

その後、父の高弟だった四代目 市川小團次が後見人となる。しかし『三人吉三廓初買』のお坊吉三や、『八幡祭小望月賑』(縮屋新助)の穂積新三郎などの大役を与えられても、立ち振る舞いが堅く科白廻しにも工夫がないので「大根」だの「お茶壺権ちゃん」だのと酷評された。当時将軍家に献上される茶壺を護衛する役人の空威張りは巷では笑いの種だったが、権十郎はその役人よりもなお空威張りに見えたことを皮肉ったものである。兄の当たり役『与話情浮名横櫛』(源氏店)の与三郎を勤めれば、外見は兄に似ていたが科白が重々しくて不評。『勧進帳』の弁慶を勤めれば、芝居が未熟だと小團次にこっぴどく叱られる。散々の酷評に次ぐ酷評で、本人も嫌気して芸が伸び悩んだ。

明治元年(1868年)秋には浪人の押し入り強盗によって養父が自宅で刺し殺され、自身も納戸に隠れて九死に一生を得るという惨事に遭遇。そのときに聞いた養父の呻き声は終世忘れる事ができなかったという。そんな不幸の中で相続した河原崎座の座元という重責をこなし、翌年三月に七代目河原崎権之助を襲名する。

しかし4年後には妻の甥にあたる河原崎蝠次郎に八代目を譲り、自らは河原崎三升を名乗る。翌 1874年(明治7年)には非業の死を遂げた養父の遺志を継いで、安政2年(1855年)の失火全焼以後20年来絶えていた河原崎座を芝新堀町に再興。これを養家への置き土産に実家の市川宗家に戻り、同年七月、37歳のとき、九代目 市川團十郎を襲名した。

飛躍の時代

市川宗家に戻って九代目團十郎を襲名した後も、團十郎はしばらくの間は河原崎座との縁が切れなかった。河原崎座はその名を改め新堀座となっていたが、義理の甥の八代目権之助に座元の任は重く、すぐに経営難に陥って團十郎に泣きついたのである。團十郎は結局新堀座の座元を兼ねて借財を背負わなければならなかった。だが、1876年(明治9年)に十二代目 守田勘彌に招かれて新富座に出勤した頃からようやく芸が伸び始める。

文明開化の時代にあって、従来の荒唐無稽な歌舞伎への反省から歌舞伎の革新を志し、明治10年代(1877年 - 1886年)には学術関係者や文化人と組んで時代考証を重視した演劇に取り組んだ。これがやがて「活歴」と呼ばれるようになる一連の演目を世に出すことになる演劇改良運動となった。しかし観客の支持は得られず、興行的には散々で、負債[3]の埋め合わせために地方回りをすることもたびたびあった。それ以降は古典作品の型の整備に取り組んだ。

1887年(明治20年)には明治天皇の御前で初の天覧歌舞伎を催すという栄誉に浴し、『勧進帳』の弁慶などを勤めた。この天覧歌舞伎は外務大臣井上馨邸で開催されたが、九代目は井上のほかにも伊藤博文松方正義などの元老とも交流を持ち、歌舞伎俳優の社会的地位の向上につとめた。

1889年(明治22年)、歌舞伎座が開場。この頃から九代目は五代目 尾上菊五郎初代 市川左團次らとともに東京の劇界を盛り上げ、「團菊左」と呼ばれる明治歌舞伎の黄金時代を築いた。またこの時期に作者・河竹黙阿弥を得て『北条九代名家功』(高時)、『極付幡随長兵衛』(湯殿の長兵衛)、『天衣紛上野初花』(河内山)、『船弁慶』、『大森彦七』などを完成し、また福地桜痴と組んで『春興鏡獅子』『侠客春雨傘』などを創り上げるなど、数多くの名作を残した。また父・七代目の撰した「歌舞伎十八番」18種を補足するかたちで、自らの得意芸を多く盛り込んだ「新歌舞伎十八番」32〜40種も撰している。

晩年は『娘道成寺』の白拍子花子をオルガンやバイオリンの伴奏で勤めたりして、最後まで新しい歌舞伎を追求していた。後進の指導にもあたり、十五代目 市村羽左衛門初代 中村鴈治郎七代目 松本幸四郎六代目 尾上菊五郎五代目 中村歌右衛門などの有望な若手を育てた。

江戸歌舞伎の宗家として

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『暫』の鎌倉権五郎。初代団十郎が考案した元禄見得を切った場面

九代目は、荒事から和事、立役から女形と、幅広い役柄をこなし、舞踊に秀で、その所作も口跡も優れたものだった。『仮名手本忠臣蔵』の大星由良助、『伽羅先代萩』の荒獅子男之助、『勧進帳』の弁慶、『博多小女郎浪枕』の毛剃、『』の鎌倉権五郎、『助六所縁江戸櫻』の花川戸助六、『天衣紛上野初花』の河内山宗俊、『侠客春雨傘』の大口屋暁雨、『菅原伝授手習鑑』の菅丞相や武部源蔵、『増補桃山譚』の加藤清正、『妹背山婦女庭訓』の大判事やお三輪、『鬼一法眼三略巻・菊畑』の鬼一。舞踊では『鏡獅子』『素襖落』など、当り役も数多い。これらの演目のほとんどで、九代目が完成した型が今日の演出の手本となっている。

見た目の派手さよりも内面性を重視した演技で、役になりきるばかりか、その精神までを押さえた写実的な巧さには 多くの逸話や証言がある。一例をあげれば、多くの舞台を同じくした中村鷺助の証言に、五代目菊五郎が殿様役で出ても、あくまで芝居流に頭を下げるが、團十郎が殿様に出て「『皆の者、毎日の出仕大儀ぢやなう』と言葉をかけられると、これは何だか、本当のご主君に礼を言って貰ったやうな心地がして、『ハゝア』と自然に頭が下がる。」というのが残されている。[4]

謹厳実直な性格だが、釣りを唯一の趣味とし、そのために別荘を茅ヶ崎に置いた程である。それでも釣りの服装は白木綿の手甲脚絆に目ばかり頭巾と定め、船中でも背筋を伸ばして釣りをするなど芸の修養として見ていた。船に乗り合わせた弟子たちが思い思いの姿勢で釣りをしていると「針一つ垂れるにも、端座しなければお前たちの姿勢を魚が侮るぜ。舞台に立つ時も同じだ。踊るにも釣りをするにも、その姿がきちんとしていなければ、その芸も魚も君たちの心のままにならないよ。気をつけなさい。」と説教した。

なお九代目が五代目菊五郎とつとめた『紅葉狩』は記録映画に残され、今日でもその芸を見ることができる。

九代目團十郎と五代目菊五郎はともに1903年(明治36年)に死去した。葬儀は川上音二郎が一切を取り仕切り、関係者に感謝された。墓所は青山墓地にある。

家族と後継者

九代目は、明治歌舞伎の頂点にあって「劇聖」とまで謳われ、その存在はそれ自体が歌舞伎を体現するほど神格化されたものだったが、自らの後継者となると最後まで恵まれず、そして悩まされた。

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九代目が務めた最後の『助六』、1896年(明治29年)5月歌舞伎座

子福者で男子だけでも5男を儲け、そのいずれもが成人した父・七代目とはうってかわって、九代目が授かったのは2女のみだった。そこで九代目は門人ながら早くから「天才」と呼ばれてその資質を見せていた五代目市川新蔵養子とし、これを手塩にかけて育成して成田屋お家芸を伝えていた。新蔵もその期待に応えて芸を伸ばし、自然周囲からも「いずれは十代目團十郎」と期待されるようになっていった。

九代目が二人の娘に結婚を急がさず、むしろ梨園の外の知識人と自由に恋愛することを推奨するという、当時としては仰天するほど進歩的な考え方を持っていたのも、この新蔵が控えていてくれたからに他ならなかった。

ところが1897年(明治30年)、その新蔵が37歳で急死するという痛恨事に見舞われる。眼病で片目を失明眼帯をかけながら舞台を勤めていたが、病状は快方に向かうことなく力尽きてしまったのである。九代目の落胆ぶりは並大抵ではなかった。

それでもあえて長女の二代目 市川翠扇には恋愛結婚を許した。日本橋の商家に生れ、慶應義塾に学び、日本通商銀行に就職した稲延福三郎というサラリーマンである。しかもこれを婿養子に取るとまでいう。福三郎は一介の銀行員だったが、その父はやがて東京市会議員になるほどの地元の名士で、福三郎の陽性な性格の中にもそうした育ちの良さが感じられた。しかもなかなかの勉強家で、書画骨董の素養もあり、話題に豊富な文化人だった。そしてなによりも、長女の良き伴侶として文句の付けようがない夫だった。

稲延福三郎が堀越福三郎として市川宗家に婿養子に入った2年後、團十郎はついに後継者の件についてはなんら手を打つことなく、静かにこの世を去った。

甦る團十郎

九代目の死から59年を経た1962年昭和37年)、七代目松本幸四郎の長男で市川宗家に養子に入っていた九代目市川海老蔵が十一代目市川團十郎を襲名、ここに團十郎の大名跡が復活するが、十一代目は襲名後わずか3年で癌に倒れてしまう。その長男・十代目市川海老蔵が十二代目市川團十郎を襲名したのは、それからさらに20年を経た1985年(昭和60年)のことだった。

一方、九代目の死から16年経った1919年大正8年)、浅草浅草寺境内に『暫』の鎌倉権五郎をつとめる九代目の銅像が建てられた。この銅像は第二次世界大戦中の昭和19年(1944年)に金属供出で失われたが、それから42年を経た1986年(昭和61年)、十二代目團十郎の襲名を機に復元され、旧地に建て直されている。

補注

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関連項目

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  1. ます夫人の述懐。
  2. 川尻清潭『九代目市川團十郎回想録』。
  3. 「団十郎大借金身代限願ひ出」東京さきがけ明治10年8月11日『新聞集成明治編年史. 第三卷』(国立国会図書館近代デジタルライブラリー)
  4. 食満南北『作者部屋から』1944年