勧進帳

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七代目松本幸四郎の弁慶

勧進帳(かんじんちょう)は、如意の渡しでの出来事を基軸にしたの演目『安宅』をもとにした歌舞伎の演目。歌舞伎十八番の一つで、松羽目物の先駆けとなった作品である。

概要

原形は初代市川團十郎元禄15年(1702年)2月初演の『星合十二段』に取り入れたのが最初。作詞は三代目並木五瓶、作曲は四代目杵屋六三郎

現在の型が完成したのは天保11年(1840年)3月に江戸河原崎座で初演された『勧進帳』。初演時の配役は五代目市川海老蔵弁慶八代目市川團十郎義経二代目市川九蔵富樫左衛門

以後『勧進帳』の三役は歴代の看板役者が生涯に一度は演じる歌舞伎の代表作のひとつとなった。特に昭和初期の七代目松本幸四郎の弁慶・六代目尾上菊五郎の義経・十五代目市村羽左衛門の富樫による『勧進帳』は絶品で、1943年(昭和18年)歌舞伎座における三優の舞台は映画にも記録された。

あらすじ

源頼朝の怒りを買った源義経一行が、北陸を通って奥州へ逃げる際の加賀国の、安宅の関石川県小松市)での物語。義経一行は武蔵坊弁慶を先頭に山伏の姿で通り抜けようとする。関守の富樫左衛門の元には既に義経一行が山伏姿であるという情報が届いており、山伏は通行罷りならぬと厳命する。憤慨した弁慶は仲間と富樫調伏の呪文を唱え、疑いを晴らそうとする(ノット)。焼失した東大寺再建のための勧進を行っていると弁慶が言うと、感心した富樫は勧進帳を読んでみるよう命じる。弁慶はたまたま持っていた巻物を勧進帳であるかのように装い、朗々と読み上げる(勧進帳読上げ)。

なおも疑う富樫は山伏の心得や秘密の呪文について問い質(ただ)すが、弁慶は淀みなく答える(山伏問答)。富樫は通行を許すが、部下のひとりが義経に疑いをかけた。弁慶は主君の義経を金剛杖で叩き、疑いを晴らす。

危機を脱出した義経は弁慶の機転を褒めるが、弁慶はいかに主君の命を助けるためといえ無礼を働いたことを涙ながらに詫びる。義経は優しく弁慶の手を取りともに平家を追った戦の物語に思いをはせている処へ、富樫が現れ、失礼なことをした、と酒を勧め、弁慶は舞を披露する(延年の舞)。踊りながら義経らを逃がし、弁慶は富樫に目礼し後を急ぎ追いかける(飛び六方)。

初期の演出では、富樫は見事に欺かれた凡庸な男として描かれていたという。後にはこれが、弁慶の嘘を見破りながら、その心情を思い騙された振りをする好漢として演じられるようになった。

みどころ

二部構成で、前半部は義経主従を救う弁慶と訝しむ富樫との台詞劇で、俳優の力ある台詞回しや腹芸が主となる。後半部は、危機を脱した後、義経と弁慶との絆を見せる情感あふれる場面と屋島の合戦を追想する勇壮な舞、そして延年の舞を経て幕外の六法で華やかに終わる舞踊劇となる。

「読み上げ」と「山伏問答」における雄弁術。義経の正体が見破られそうになる戦慄感。義経と弁慶主従の絆の深さの感動。「延年の舞」の巧緻さと「飛び六方」の豪快さ。『勧進帳』は見どころが多く、観客を飽きさせない。それが常に最も人気が高い(=上演回数が多い)演目の一つとなっている所以である。その人気度は「またかの関」とも、必ず観客が入るため効き目ある薬湯に因み「独参湯」とも呼ばれている。

音楽的にも優れ、長唄の代表的作品で単独でも演奏される。特に義経が弁慶に謝意を示す「判官御手を取り給い」の件は全編中の聴きどころで、「唄うのでなく語るイキで」との口伝が伝わる。巨大な松の木をあしらった背景を前に、舞台正面の雛壇に長唄と囃方が揃いの裃で並ぶのは壮観で、錦上花を据えるの趣がある。米公演のとき、オーケストラが舞台下にあるという向こうの先入観から、「ミスター・トガシの大勢のボデイガードは楽器も演奏するのですか。」と間違われた。

弁慶・富樫・義経の「天地人の見得」、弁慶の「不動の見得」や「石投げの見得」など、美しい見得が次々と切られるのも見どころである。また役者が見得を切る時には必ずツケ打ちの効果音が入るが、初演に際して七代目團十郎は能を意識してツケを一切打たせなかった。この演出が定着して現在にいたっている。『勧進帳』では現在でもその演出が受け継がれており、弁慶の戦さ語りで「須磨明石」の件において石を投げたような型で決まる「石投げの見得」と、幕切れ引っ込みの「飛び六方」に入る直前にする見得の二つを例外として、それ以外の見得はすべて無音でこれを行っている。

名優たちの『勧進帳』

義経と知りつつ弁慶の胸中を察した富樫は、涙を隠す思い入れで目をつぶり顔をあげていったん退場する。この演出は、八代目市川團十郎が弁慶をつとめた際、富樫で舞台を共にした四代目市川小團次が編み出したといわれている。

明治期の團菊左による『勧進帳』は、歴史に残る名演であった。始め、九代目市川團十郎の弁慶に対する富樫役には初代市川左團次が演じた。左團次の朗々たる台詞回しとその骨太な芸風は、團十郎の写実的な演技と見事な調和を見せて評価が高く、当代随一の演目として1887年(明治20)年の天覧歌舞伎四代目中村福助(のちの五代目中村歌右衛門)の義経を加えて演じられたほどであった。左團次が明治座の経営に重点を置くようになってからは共演が減り、團十郎は代わりに五代目尾上菊五郎を富樫役に選んだ。これには賛否が渦巻いたが、当の菊五郎は自信満々に「市川菊五郎の性根で演じて見せます。」と述べ、弁慶の心根を思いやる心理描写を強調した演出を行い、左團次の「勇の富樫」に対する「智の富樫」として評価を得た。この時團十郎は「今度のような富樫に出会ったのは初めてで、本当に心地よく毎日舞台を勤めています。」と最大級の賛辞を送っている。

團十郎亡きあとは高弟の七代目松本幸四郎が一番の弁慶役者として、1946年(昭和21年)までの間に「勧進帳」の弁慶を約1600回演じた。その演技の凄さは岡鬼太郎に、「幸四郎は柄で演じる。」、「風貌音声の堂々たる、先づ当代での随一。誰が何の件で立ち向はうと、此の金城鉄壁には矢も立たぬ。」などと絶賛され、記録映画に残されているが、作家の橋本治は映画を見て「これはまさしく格闘技だ。」と感じたという。

弁慶役は幸四郎の実子である初代松本白鸚十一代目市川團十郎二代目尾上松緑三兄弟に受け継がれ、さらに孫や多くの俳優に伝承された。特に1965年(昭和40年)3月歌舞伎座七代目幸四郎二十七回忌公演では白鸚、團十郎、松緑三兄弟が日替わりで弁慶を演じた。

十五代目市村羽左衛門の富樫は明晰な口跡と颯爽たる容姿もあって、七代目幸四郎の弁慶との組み合わせは團菊以降最高のものとして好劇家の評価が高かった。戦後まもなく日比谷劇場で映画が公開されたが、羽左衛門が没した直後もあって多くの観客が詰めかけ、富樫が出ると「お久しぶり!」の声がかかった。

歌舞伎十八番の代表的演目として市川宗家は「勧進帳」には強いこだわりを持っている。明治期に、團十郎の高弟の一人である初代市川猿之助(のちの二代目市川段四郎)が師に無断で弁慶を演じて破門されたり、戦後、1964年1月の日生劇場武智鉄二演出による能楽形式で演じられたときは、十一代目團十郎による抗議がおこるなどトラブルが発生した。

1955年(昭和30年)初代市川猿翁が訪中して弁慶を演じた。花道を飛び六法で退場したのち、客席は感動のあまり興奮して拍手が鳴りやまず、少女たちが花籠を提げて舞台に上がりカーテンコールを行った。その嬉しさに、猿翁は「もう一度飛び六法で退場したいと思った。」と述べている。

関連作品

『勧進帳』と同じ主題の脚本では、天明年間に初代桜田治助が書いた、大らかで古風な味わいのある『御摂勧進帳』(ごひいき かんじんちょう)と、大正年間に近代的解釈を施した『安宅の関』が有名。前者は弁慶が番卒の首を大きな樽に放り込んで芋洗いのように棒でかき回す幕切れから、俗に「芋洗い勧進帳」と呼ばれている。1968年(昭和43年)1月、国立劇場利倉幸一捕綴、二代目尾上松緑の弁慶で復活上演された。後者は舞踊が苦手だった七代目市川中車のために書き下ろされたものである。テンプレート:- 大戦末期の1945(昭和20)年製作、黒澤明監督『虎の尾を踏む男達』は『勧進帳』をミュージカル仕立てのパロデイとしたもので、大河内伝次郎の重厚な弁慶と榎本健一の軽妙洒脱な強力の組み合わせに加えて、歌舞伎を意識した演技が名高い。

文化的影響

弁慶が「読み上げ」で持ち合わせの巻物を朗々と読み上げる場面の連想から、あたかも原稿を読んでいるようで実は即興でものを言っているさまを、「勧進帳」という。 タモリ赤塚不二夫葬儀で8分にわたる弔辞を行ったが、この際手にしていたメモは白紙であり、「現代の勧進帳」とも言われた。[1]

『勧進帳』を原作とした作品

映画

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. テンプレート:Cite web

外部リンク


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