島津忠久

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島津 忠久(しまづ ただひさ)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての武将鎌倉幕府御家人島津氏の祖。正式には惟宗忠久という。出自・生年については諸説ある。

生涯

治承3年(1179年)2月8日、春日祭使の行列に供奉している記録が史料上の初見である(『山槐記』)[1]。忠久は元々摂関家に仕える都の武者であったが、治承・寿永の乱において源頼朝が台頭してくると、母が頼朝の乳母子だった縁で頼朝に重用されるようになってくる。

鎌倉の御家人

文治元年(1185年)3月、比企能員の手勢として平家追討に加わっていたとみられ、恩賞として元暦2年(1185年)6月に頼朝より伊勢国波出御厨、須可荘地頭職に任命される。「島津家文書」では、この時の名は「左兵衛尉惟宗忠久」と記されている。同年8月、摂関家領日向国島津荘下司に任命される[2]。これが忠久と南九州との関係の始まりとなる。

島津荘地頭となった忠久は、文治2年(1186年)に薩摩国山門院(現・鹿児島県出水市)の木牟礼城に入り、2年後にいったん戻る。建久7年(1196年)に再び山門院に入り、まもなくして日向国島津院の祝吉に館(祝吉御所)を造って移り住んだと伝えられている。この他に、現・宮崎県都城市安久町の堀之内御所に居住し、後に祝吉御所に移ったという伝承もある。

また、文治元年(1185年)には信濃国塩田荘地頭職にも任命される。文治5年(1189年)の奥州合戦に頼朝配下の御家人として参陣し、建久元年(1190年)の頼朝の上洛の際にも行列に供奉している。建久8年(1197年)、大隅国薩摩国守護に任じられ、この後まもなく、日向国守護職を補任される。建久9年(1198年)、左衛門尉に任官される。これ以降、忠久は島津荘を名字の地として島津(嶋津)左衛門尉と称する。

比企の乱

ところが、頼朝死後の建仁3年(1203年)9月、比企の乱(比企能員の変)が起こり、この乱で忠久は北条氏によって滅ぼされた比企能員の縁者として大隅、薩摩、日向の守護職を没収された。この時、忠久は台明寺の紛争解決のため、守護として初めて任地の大隅国に下向しており、鎌倉には不在であった。同年10月19日、務めを終えて戻る上洛の無事を祈り、台明寺に願文を収めている。

比企の乱後は在京していたとみられ、建暦3年(1213年)2月に3代将軍・源実朝の学問所番となり、御家人としての復帰がみられる。同年6月の和田合戦においては勝者の側に立ち、乱に荷担した甲斐国都留郡古郡氏の所領である波加利荘(新荘)を拝領した(本荘は甲斐源氏の棟梁武田氏が伝領)。同年7月に薩摩国地頭職に還補され、同国守護も同年再任されたとみられるが、大隅・日向守護職は北条氏の手に渡ったまま、その2国の復権がなされるのは南北朝時代以降のこととされている。

承久3年(1221年)の承久の乱後は、信濃国太田荘地頭職と越前国守護職を獲得した。この頃には、惟宗姓に代えて藤原姓を称している(母方とされる比企氏は藤原氏の系統)。元仁元年(1224年)に八十島使の随兵を務め、嘉禄元年(1225年)には検非違使に任じられ、嘉禄2年(1226年)には豊後守となった。

安貞元年(1227年)6月18日の辰の刻脚気赤痢により死去(『吾妻鏡』)。墓は現在鎌倉市西御門の源頼朝の墓の右隣に寄り添うように建てられている。

出自

島津家に伝わる史料では、忠久は母が源頼朝の側室で比企能員の妹・丹後局(丹後内侍)で頼朝の落胤(隠し子)であり、そのため厚遇されたとされる。ただし、この言い伝えはいわゆる「偽源氏説」の一種とされ、現在、学会でこれを史実としている人はほぼいない[3]

また、以前は「惟宗広言の実子説」が定説であったが、惟宗氏は文官で「言」を通字としているにも関わらず、広言の子として(「忠」を通字とする)忠久や弟・忠季がいるのは不自然と思われるとの理由から、現在では同じ惟宗氏でも「惟宗忠康の子」とする説が有力である。母に関しては忠久は建仁3年(1203年)の比企能員の変に連座して処分を受けているので、比企氏縁者(能員義姉妹の子)であるとみなされ、『吉見系図』に記されている通り比企尼長女の丹後内侍であるのが正しいとされている。将軍学問所番務めや陰陽道に関わる行事の差配を任されている事から、忠久が公家文化に深い理解を持っていたと考えられる。

生年については『島津系図』などによると治承3年(1179年)とされているが、治承3年時点で『山槐記』や『玉葉』に「左兵衛尉忠久」として記載されていることから、1179年には任官されるに足りる成人男子であったと思われるので、生年は治承3年より十数年以上遡っているものと推定される。

島津荘地頭職任命の背景

忠久は鎌倉時代以前は京都の公家を警護をする武士であり、親戚は大隅・日向国の国司を務めていた。

出身である惟宗家近衛家家司を代々務めた家で、忠久は近衛家に仕える一方で、源頼朝の御家人であった。東国武士の比企氏や畠山氏に関係があり、儀礼に通じ、頼朝の信任を得ていたという。

惟宗家が元々仕えていた近衛家は、平季基から島津荘の寄進を受けた藤原頼通の子孫である関白藤原忠通の長男・基実を祖とする家であり、鎌倉時代から島津荘の荘園領主となっていた。

こうした源頼朝・近衛家を巡る関係から、島津忠久は地頭職・守護職を得たのではないかと考えられる。 

以後、島津家は島津荘を巡って近衛家と長い関係を持つにいたった。

脚注

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参考文献

  • 朝河貫一 「島津忠久の生ひ立ち ━中低等批評の一例━」ISBN 9784905849742
  • 江平望 『拾遺 島津忠久とその周辺 中世史料散策』 高城書房2008年
  • 野口実 『惟宗忠久を巡って』「中世東国武士団の研究」所収
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  1. 山槐記』には「左兵衛尉忠久」と記されている。元暦2年(1185年)の地頭補任状に「左兵衛尉忠久」と記されていることから『山槐記』の「左兵衛尉忠久」は惟宗忠久を差すものであると推測される。
  2. 父方と考えられる惟宗氏には平安末期「薩摩」「大隅」「日向」などの国司に任じられた者が数名がおり、忠久はこの延長線上にたって領家ならびに頼朝から島津荘下司に任じられたとの見解もある(野口実『惟宗忠久をめぐって』)
  3. この落胤説に関わって大阪住吉大社境内で誕生したとされ、同大社境内に史跡として島津忠久公誕生の地とする「誕生石」がある。