小松宮

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テンプレート:日本の氏族 小松宮こまつのみや)は、明治時代初期に、伏見宮邦家親王の第8王子、彰仁(あきひと)親王によって創設された宮家

宮家の祭祀は、彰仁親王の薨去後、北白川宮能久親王の王子輝久王臣籍降下して小松侯爵家を名乗り継承した。



小松宮彰仁親王

彰仁親王(あきひとしんのう)は、伏見宮邦家親王の第8王子として弘化3年(1846年)に誕生。1848年(弘化5年)仁和寺御室を継ぎ、仁孝天皇猶子となる。まもなく、出家して、楞厳定院御室・純仁と称し、一品に叙せられる。1864年元治元年)、一身阿闍梨、勅会伝法潅頂を受けた。仁和寺門跡30世となったが、1867年慶応2年)、勅命により復飾(還俗)した。明治16年(1883年)には、仁和寺の復興のために仁和会を創立して総裁となった。また、日本赤十字社大日本水産会大日本武徳会、高野山興隆会などの総裁に就任した。

久邇宮朝彦親王は兄、北白川宮能久親王は弟にあたる。王政復古にあたっては、議定、軍事総裁に任じられた。戊辰戦争では、奥羽征討総督として官軍の指揮を執った。明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める。明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱においては征討総督として、また、明治10年(1877年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった。明治14年(1881年)に維新以来の功労を顕彰され、家格を世襲親王家に改められる。翌明治15年(1882年)に、宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷にちなんで小松宮に改称した。

彰仁親王は、ヨーロッパ君主国の例にならって、皇族が率先して軍務につくことを奨励し、自らも率先垂範した。明治20年(1887年陸軍大将に昇進し、近衛師団長参謀総長を歴任、日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した。明治31年(1898年)に元帥府に列せられ元帥の称号を賜る。

彰仁親王の妃は、筑後久留米藩主有馬頼咸の長女頼子。頼子も日本赤十字社では夫にならい、婦人会を設立した。日露戦争では、篤志婦人会総裁として活躍した。

彰仁親王には子女がなく、当初、弟宮定麿王を養嗣子としていたが、明治36年(1903年)に定麿王が依仁親王として新たに東伏見宮家を創設。彰仁親王は明治36年2月に死去し、国葬とされた。明治45年3月、上野恩賜公園内に銅像が建てられた。

小松輝久(北白川宮輝久王)

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小松輝久(こまつてるひさ)は北白川宮能久親王の第4王子。北白川宮輝久王。明治21年生れ。

爵位は侯爵、位階は正三位、勲位は勲一等侯爵、貴族院議員。

海軍兵学校に進み21歳で海軍少尉候補生の時に臣籍降下し小松侯爵家を創設する。

参謀や教官職が長く、軽巡洋艦木曾艦長、重巡洋艦那智艦長等を経て、第6艦隊司令長官、佐世保鎮守府司令長官、海軍兵学校校長を歴任、最終階級は海軍中将。

昭和23年B級戦犯として実刑の判決を受け巣鴨拘置所に収監され服役した。

出所後は平安神宮宮司を務める。昭和45年死去、82歳没。


彰仁親王は生前から、依仁親王ではなく北白川宮輝久王を継嗣にと希望していたとされる。

しかし依仁親王との関係で調整がつかず、輝久王は小松侯爵家を創設して臣籍降下し、小松宮家の資産・祭祀を継承した。

これによって明治36年に小松宮彰仁親王が薨じて断絶していた小松宮家の祭祀を承継する。


輝久侯爵には彰久、豊久、舒子の三子があり、舒子は木戸侯爵家の長男で日銀・日本勧業角丸証券常務などを務めた木戸孝澄氏に嫁いだ。

長男彰久氏の子女は男子1人(現当主、揮世久氏)と女子3人。

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