小山田信茂

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小山田 信茂(おやまだ のぶしげ)は、戦国時代武将甲斐武田氏の家臣で譜代家老衆。甲斐東部郡内領の国衆。

生涯

天文8年(1539年)、坂東八平氏の一流・秩父氏の血を引く小山田氏当主・小山田出羽守信有の次男として生まれる。幼名は藤乙丸。母は武田信虎の妹で、武田信玄の従弟に当たる。天文21年(1552年)に父が病死した後は異母兄(生母は地元家臣の娘?)と推定される弥三郎信有が家督を継ぐが、永禄8年(1565年)に弥三郎が病死したために家督を継いだ。ただし、弥三郎が病弱であったために当主の職務を早くから代行していたとされ、後世において両者が混同されている。

弘治2年(1557年)の第3次川中島の戦いで初陣を果たし、永禄4年の第4次川中島の戦いでは『勝山記』に「よこいれ(側面攻撃)を成され候ひて」という記述が残されており、妻女山に向かった春日虎綱率いる別働隊に従軍していたとされている。

永禄12年(1569年)の小田原北条氏攻めでは、小田原城の支城である滝山城攻城戦の前哨戦で北条氏照軍を打ち破った(廿里古戦場)。元亀3年(1572年)の信玄による西上作戦や、12月の三方ヶ原の戦いにおいても戦う。なお、三方ヶ原の戦いにおいて信茂は投石隊を率いたとする逸話が知られる。三方ヶ原において武田氏が投石隊を率いたとする逸話は『信長公記』や『三河物語』において記されているが信茂が率いたとする史料は見られず、近世・近代期の戦史資料において誤読され、信茂が投石隊を率いたとする俗説が成立したと考えられている[1]

元亀4年(1573年)に信玄が死去すると、武田勝頼に仕えた。勝頼の下でも多くの戦いに参加している。天正6年(1578年)に武田家と北条家の同盟が破棄されると、北条氏の抑えを務めている。天正3年5月に行われた長篠の戦いでは家中最大の3200人の兵員を動員し、約1000名が討ち死にしたと言われている。天正10年(1582年)2月、織田信長の信濃・甲斐への侵攻(甲州征伐。総大将織田信忠、副将滝川一益)が始まると、武田勝頼に新府城から自分の居城である岩殿山城に逃れるように勧めた。しかし途中で裏切り、勝頼や嫡男の武田信勝らを郡内に入れず、結果的に滅亡へ追い込んだとされている(天目山の戦い)。

甲斐が平定された後、嫡男を人質として差し出すために信長に拝謁しようとしたが、織田信忠から武田氏への不忠を咎められ、『甲乱記』に拠れば、天正10年3月27日頃、甲斐善光寺で嫡男とともに処刑された。享年44。

千鳥姫という信茂側室の伝説もある。千鳥姫は、織田家の大軍に包囲された岩殿山城から信茂の次男賢一郎と赤子の万生丸を連れ、護衛の小幡太郎らと共に落ち延びたが、万生丸が泣き出したため、小幡太郎は千鳥姫から万生丸を取り上げ、岩殿山城の断崖から投げ捨てたというものである。その場所は稚児落としと呼ばれて伝わっている。

娘の香具姫は、勝頼の娘、仁科盛信の娘らとともに、信玄の娘の松姫に連れられ、武州(現・八王子市)に落ち延び、松姫により育てられている。のちに磐城平藩内藤忠興の側室となり、嫡男内藤義概(よしむね)らをもうけている。

人物

  • 武田家において信玄の「弓矢の御談合七人衆」に両職の山県・馬場ら重臣と共に名を列ねている。
  • 武田の小男と恐れられた山県昌景に「若手では小山田信茂、文武相調ひたる人物はほかにいない」と評される。
  • 設楽ヶ原の戦いにおいては、早々に撤退して戦線を崩した武田信廉穴山信君ら一門衆とは反対に、山県昌景隊の後備として最前線で戦い続けている。

小説

  • 山元泰生『小山田信茂』(学陽書房人物文庫・2012年1月)ISBN978-4-313-75274-0

参考文献

  • 丸島和洋『中世武士選書19 郡内小山田氏 武田二十四将の系譜』戎光祥出版、2013年

脚注

  1. 丸島(2013)pp.210-211

関連項目

外部リンク