寺田ヒロオ

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テンプレート:Infobox 漫画家 テンプレート:Sidebar with collapsible lists 寺田 ヒロオ(てらだ ヒロオ、本名:寺田博雄、1931年8月4日 - 1992年9月24日)は、日本漫画家新潟県西蒲原郡巻町(現:新潟市西蒲区)生まれ、新発田市出身。男性。新漫画党総裁。愛称は「寺さん」「テラさん」。

伝説的な「トキワ荘」でのリーダー格で、特に藤子不二雄の自伝的漫画『まんが道』で、頼もしくて理想的な先輩として描かれた。

妻は「上を向いて歩こう」の作曲家中村八大の妹。

略歴

新潟県立新発田高等学校時代に野球部に所属する。同時期に少年漫画雑誌『漫画少年』と出会い、漫画投稿を始める。卒業後は警察に就職するが、電電公社(現:NTT)に転職。社会人野球投手としても活躍し、都市対抗野球大会にも出場した。

その後、井上一雄福井英一の漫画『バットくん』に刺激され、22歳の時に漫画家になるために上京し、東京都豊島区トキワ荘に入居する。入居当初は、向かいの部屋に手塚治虫が暮らしていた。トキワ荘に次々と入居してくる漫画家らと『新漫画党』を結成。漫画誌に合作、競作を発表するなど、様々な活動をする。

トキワ荘のリーダーのような存在として知られ、後輩である安孫子素雄(藤子不二雄)らは家賃を貸してもらった思い出などを語っている。一方、生真面目な年下の後輩ばかりの前で、「頼もしい兄貴分」を演じるのは辛かったようで、投稿漫画で知り合って以来、交友関係となる一方、苦労人で寺田とは正反対の無頼漢を貫いた棚下照生には、唯一そうした悩みを打ち明けていたという[1][2]1950年代後半から1960年代前半にかけて人気漫画家となった。しかし、その後の劇画ブームの影響で、リアルで映像的な画調と刺激的なストーリーがもてはやされるようになり、一貫して正統派の児童漫画を書き続ける寺田の作風は、時流から取り残された存在になっていった。1957年6月、トキワ荘から転居[3]

寺田の劇画への憎悪は激しく、仲間内での集まりでも度々劇画の存在を批判していたという。また、それが昂じて、全く面識のない劇画作家に自分の描いた原稿を送り付け、「あなたはこんな物を描いていては駄目だ。漫画を描くならば、こういった物を描きなさい」と、一方的に諭した事もあったという。最後には、自分が執筆している雑誌の編集長に、そうした劇画作品の連載を打ち切るように進言したものの聞き入れられず、逆に自分の連載が打ち切られるといった顛末もあった。

これらの出来事が積み重なるうち、次第に寡作になり、1964年に週刊誌の連載から撤退。活動の場は小学館の学習雑誌などに限定されるようになり、1973年には絶筆。週刊誌連載から退く際には、手塚が思いとどまるように説得したが、寺田は耳を貸さなかった。この後にトキワ荘時代の仲間に送られた手紙に書かれてあったのは、漫画家時代からは想像もつかないほど弱気になった内容で、送られた方も驚いたという。

1981年、4月に『漫画少年』の歴史を記録した「『漫画少年』史」(湘南出版社刊、テンプレート:ASIN)を編纂している。

その後はトキワ荘時代の仲間とすら殆ど会わなくなる。トキワ荘が取り壊される際にメンバーが集うテレビ番組が企画がされたが、寺田は出演を拒否し欠席した。一方で助けを求める漫画家志望の若者には直接会ってアドバイスをする事もしばしばあったという。

他界する約2年前の1990年6月23日、突然トキワ荘の仲間(藤子不二雄藤子・F・不二雄石ノ森章太郎赤塚不二夫鈴木伸一)を自宅に呼んで宴会を催し、終了後、三々五々去ってゆく仲間たちにいつまでも手を振り続け「もう思い残すことは無い」と家族に話したという。翌日、藤子は礼を伝えるため寺田宅に電話をかけたが、寺田はもはや電話口に出ず、妻を通じて「今後一切世俗とは関わらない」との旨を伝えた[4][2]。なお、この宴会の模様は鈴木がホームビデオで撮影しており、後年ヒストリーチャンネル制作の番組『20世紀のファイルから-証言・あの時、あの人-』(第29話:マンガがすべてだった・「トキワ荘」の頃)[5]で一部が公開されている。鈴木はこの時に撮影したビデオのコピーを寺田に進呈しており、遺族の話では寺田は晩年、そのビデオを繰り返し観ていたという。

晩年は一人離れに住み、母屋に住む家族とも顔を合わせることはなかった。朝から酒を飲み、妻が食事を日に3度届ける生活を続けていたが、朝食が手つかずで置かれたままになっているのを不審に思い、部屋の中に入ったところ、既に息絶えているのが発見された。妻は晩年の寺田について「身体が悪くなって、病院に行ってくれと頼んでも、行こうとしないんです。色々手を尽くして、あきらめました。この人は、もう死にたいんだなって…」と、ただ見守るしかなかった状況を語っている[2]

週刊少年漫画雑誌週刊少年サンデー』に連載された『スポーツマン金太郎』、『背番号0』などの野球漫画は特に有名。試合の場面に中継アナウンサーのコメントを入れるようにした嚆矢であるとされる。又、不慮の事故で失明記憶喪失となった柔道家を主人公にした作品『暗闇五段』は1965年千葉真一主演で『くらやみ五段』としてテレビドラマ化された[6]

受賞歴

主な作品

単行本になっている作品がそもそも少なかった上に、単行本自体も久しく絶版になっていて、「トキワ荘」関連や『まんが道』で、その名前が比較的知られていたにも関わらず、作品自体を読む事が出来ないという幻の作家の一人であったが、2009年2月より、マンガショップから、「寺田ヒロオ全集」と銘打った復刻版が出され、ようやく簡単に読む事が出来るようになった。

  • 白黒物語(『漫画少年』1955年4月号 - 10月号)
  • 背番号0(『野球少年』1956年1月号 - 1960年4月号、『小学四年生』1961年4月号 - 1962年3月号、『小学五年生』1962年4月号 - 1963年3月号、1967年4月号 - 1968年3月号、『小学六年生』1963年4月号 - 1964年3月号、『ボーイズライフ』1964年4月号 - 11月号)
  • スポーツマン佐助(『野球少年』1957年9月号 - 1959年6月号)
  • ラッキーちゃん(『幼年クラブ』1957年)
  • もうれつ先生(『少年』1958年1月号 - 1961年2月号)
  • 五九郎さん(『おもしろブック』1958年新年号 - 1960年6月号)
  • ホープくん(『ぼくら』1958年 - 1959年)
  • スポーツマン金太郎(『週刊少年サンデー』1959年創刊号 - 1960年32号、1961年14号 - 1963年45号、『小学三年生』1962年4月号 - 1963年3月号、『小学五年生』1966年4月号 - 1967年3月号、『小学六年生』1967年4月号 - 1968年3月号、『小学一年生』1969年3月号、『小学二年生』1969年4月号 - 1970年3月号)
  • わんぱく記者(『少年画報』1959年新年号 - 1960年6月号)
  • ホームラン教室(『冒険王』1959年 - 1961年)※後半は赤塚不二夫作画
  • おやまの金ちゃん(『小学一年生』1960年4月号 - 1961年3月号)
  • タマちゃん野球日記(『こども家の光』1961年)
  • きんちゃん(『小学一年生』1961年4月号 - 1962年3月号)
  • カメラマン金太郎(『小学三年生』1962年1月号 - 3月号、『小学四年生』1962年4月号 - 1963年7月号)
  • 代打者(ピンチヒッター)(『少年』1962年4月号 - 1963年2月号)
  • 暗闇五段(『週刊少年サンデー』1963年46号 - 1964年31号)
  • ロボット兄弟(『小学四年生』1964年9月号 - 1965年3月号、『小学五年生』1965年4月号 - 12月号)
  • チビッ子選手金太郎(『小学四年生』1966年4月号 - 1967年3月号)
  • きんちゃんくろちゃん(『小学二年生』1966年9月号 - 1967年3月号)
  • ノンキ先生まんがノート(『週刊少年サンデー』1968年15号 - 22号)
  • その後の、スポーツマン金太郎(『ビッグコミック』1969年3月号)
  • きんたろう(『小学一年生』1969年4月号 - 1970年3月号)
  • カーブくんドロップくん(『小学二年生』1971年4月号 - 1972年3月号)
  • パー子ペー吉(『幼年クラブ』)
  • トキワ荘青春物語(競作)
  • 寺田ヒロオ編:「『漫画少年』史」,湘南出版社 (1981年04月).

関係者・交流のあった人物

寺田ヒロオを演じた人物

参考文献

脚注

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  1. 寺田の死後、棚下は「「寺田は自分を律してたから…そして、そこからはみ出してはいけない…っていう。かなり自分の中に重圧があって、苦しんで生きてたと思うんですね。自分で自分に規律を持って、そこからはみ出してはいけない…っていう。私なんか全く反対の人間だから、それが羨ましいって彼は言うんです。逆に私は、寺田の鉄のような部分が羨ましかったんですけど、だけど寺田は私のような八方破りな生き方が羨ましい…っていう。結局、彼は自分がそういう生き方をしたいと思うことを、漫画に描いてみたかったんじゃないでしょうか。寺田は、描いてる人間に自分を同化させようとしてたところがある」と振り返っている。
  2. 2.0 2.1 2.2 テンプレート:Cite web
  3. テンプレート:Cite book
  4. この時の寺田について藤子は「緩慢な自殺」と述べている。またこの時期、棚下によく電話をかけていたという。電話口で泣きながら「会いたい」という寺田に「今すぐ行く」と伝えると「いや、来ないでくれ」「会いたいけど、来ないでくれ」と訴える状況を振り返り、棚下もまた「結局ね、寺田は死にたかったんじゃないかな…。寺田は、ゆっくりゆっくり死んでいったんじゃないかな」と述べている。
  5. テンプレート:Cite web
  6. テンプレート:Cite web