園山俊二

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:Infobox 漫画家 テンプレート:Sidebar with collapsible lists 園山 俊二(そのやま しゅんじ、1935年4月23日 - 1993年1月20日[1])は日本漫画家血液型B型[1]

経歴・人柄

島根県松江市外中原町生まれ[1]島根大学教育学部附属小学校から同附属中学校を経て島根県立松江北高等学校卒業。早稲田大学商学部在学中、早稲田大学漫画研究会を創設[1]。後輩の福地泡介東海林さだおと共に、「早大漫研三羽烏」と称され注目される。大学を卒業してからしとうきねおの世話で広告代理店に就職するも半日で辞職[2]。その後、寺田ヒロオの紹介で、新漫画党に加入。トキワ荘の漫画家たちと交流を深める。趣味プロ雀士顔負けの強さの麻雀

プロデビューは、「がんばれゴンベ」(1958年毎日小学生新聞)。その後、児童もの・大人もの等の作品を多数発表。1976年、「ギャートルズ」等で第22回文藝春秋漫画賞受賞。1977年、「がんばれゴンベ」で日本漫画家協会賞特別賞受賞。

連載通算9775回まで到達した「がんばれゴンベ」および、朝日新聞で「サザエさん」完結を受けて「フジ三太郎」とともに13年間連載が続いた「ペエスケ」を、1992年7月、ぎっくり腰による入院のため中断・終了する(入院中の近況報告で描写)。翌年1月、肝不全のため死去、テンプレート:没年齢。没後、勲四等瑞宝章受勲。

「メソメソシルナ 世の中グワンバレ」と遺書を残す。病床でペエスケ、ヒロコ、平太、ガタピシなど「ペエスケ」の主要キャラクターをひとりひとり描いて別れを告げたという。1993年1月21日付の朝日新聞朝刊に、園山の追悼特集が1ページ半で掲載された。内容は、園山が死の直前に書いた動物の絵と、大学時代から親交が深かった東海林さだおの追悼文であった。

シッカ(しっかりと握って離さない状況を示す)」など、ユーモラスな擬音を多く用いた。また、メスのカエルに乳房を描くなどの擬人化表現が見られる。

主な作品

漫画

絵本

  • 火星へシルクハットを(岩崎書店、1965年)
  • 大恐龍運動ピテカン作戦(講談社、1971年)

レコードジャケットイラスト

外部リンク

脚注

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「mangaseek」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません
  2. 入社当日の正午、食事に外出したまま会社に戻らなかった。「自分は勤め人にそぐわない性格だと判断した」という。福地泡介『あいつのカゲグチ』p.160(立風書房、1975年)を参照。