奉公衆

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奉公衆(ほうこうしゅう)は、室町幕府に整備された幕府官職の1つである。将軍直属の軍事力で、5ヶ番に編成された事から番衆、番方などと呼ばれた。番衆(小番衆)とも。

鎌倉時代の御所内番衆の制度を継承するもので、一般御家人地頭とは区別された将軍に近侍(御供衆)する御家人である。奉行衆が室町幕府の文官官僚であるとすれば、奉公衆は武官官僚とも呼ぶべき存在であった。後年、豊臣秀吉も奉公衆の制度を設けている。

概要

8代将軍足利義政時代の奉公衆の編成を記す『御番帳』が現存しており、それによると奉公衆は五番編成で、各番の兵力は50人から100人、総勢で300から400人ほどの人数で、各番が抱える若党や中間なども含めると平均して5000から10,000人規模の軍事力であったと考えられている。なお、鎌倉公方古河公方の下にも奉公衆が編成されていたといわれている。

成員は有力御家人や足利氏の一門、有力守護大名や地方の国人などから選ばれる。所属する番は世襲で強い連帯意識を持っていたとされ、応仁の乱などでは共同して行動している。ちなみに、足利氏にとって重要な拠点のひとつとされていた三河の奉公衆は40人を超えていたといい、国別で最多。

奉公衆は平時には御所内に設置された番内などに出仕し、有事には将軍の軍事力として機能した。地方の御料所(将軍直轄領)の管理を任されており、所領地の守護不入段銭(田畑に賦課される税)の徴収や京進(守護を介さない京都への直接納入)などの特権を与えられていた。奉公衆は守護から自立した存在であったために守護大名の領国形成の障害になる存在であったが、在国の奉公衆の中には現地の守護とも従属関係を有して家中の親幕府派として行動する事例もあった[1]

沿革

室町時代の初期には南朝や諸勢力の活動をはじめ、幕府内部でも有力守護の政争が絶えず、天授5年/康暦元年(1379年)には康暦の政変管領細川頼之が失脚している。そこで、3代将軍足利義満は守護勢力に対抗するため、御馬廻と呼ばれた親衛隊整備をはじめる。彼らは将軍直属の軍事力として山名氏が蜂起した明徳の乱大内義弘が蜂起した応永の乱などで活躍する。

それでも4代将軍足利義持の頃にはまだ畠山氏大内氏の軍事力などに依存しており、6代将軍足利義教は義満の政策を踏襲してさらに強権を目指した。9代将軍足利義尚は、文官である奉行衆と共に奉公衆を制度として確立し、長禄元年(1487年)に近江六角高頼討伐(長享・延徳の乱)を行った際には、奉公衆が将軍の親衛隊として活動している。大名と将軍の取次役の申次衆から取り立てられる例もあり、北条早雲も申次衆から義尚の奉公衆に加えられたとされている。

10代将軍足利義材(義稙)は、延徳3年(1491年)に奉公衆を率いて再度の六角氏討伐を行い、明応2年(1493年)には河内畠山義豊を討伐するために出陣するが、出陣中に管領の細川政元が将軍廃立を行い(明応の政変)、奉公衆の制度も事実上解体された。

しかし番の結束力は固く、明智光秀の中心的な家臣として石谷氏(斎藤利三)、肥田氏、進士氏など旧奉公衆が参加している。

構成員

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脚注

  1. 杉山一弥「室町幕府奉公衆葛山氏」『室町幕府の東国政策』(思文閣出版、2014年) ISBN 978-4-7842-1739-7(原論文は『国史学』172号(2000年))

関連項目

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