六角高頼

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六角 高頼(ろっかく たかより)は、室町時代から戦国時代武将守護大名近江守護、南近江の戦国大名六角久頼の子(異説では六角政頼の子)。氏綱定頼大原高保和田高盛梅戸高実真玄らの父。名の「高頼」は室町幕府第11代将軍足利義高(のちの義澄)より1字を賜って以降のであり、初めの名は六角行高(- ゆきたか)という(但し、書物等では、第9代将軍足利義尚による親征を受けた当時でも「高頼」と表記されることが多い)。

生涯

応仁元年(1467年)からの応仁の乱では西軍に属し、東軍の京極持清らと京都で戦っていたが、持清の嫡男勝秀及び家臣の多賀高忠と従兄の六角政堯が高頼の本拠地観音寺城を攻めると近江に戻り政堯や京極氏と交戦した(但し、応仁の乱の際に活動した亀寿丸は高頼とは別人で高頼の父とする立場もある)。やがて政堯を討ち取り、京極氏も持清・勝秀父子の相次ぐ急死でお家騒動を起こして弱体化(京極騒乱)、行高(高頼)は南近江の確保に努め、文明4年(1472年)、文明7年(1475年)の京極政経・多賀高忠との合戦で京極高清多賀清直宗直父子や土岐成頼斎藤妙椿斯波義廉らの援軍で勝利、応仁の乱終結後の文明10年(1478年)に幕府から近江守護に補任された。

応仁の乱後、六角氏の戦国大名化と権力強化を目指して公家・寺社勢力の統御を行なおうとしたが、公家領寺社領奉公衆の領地を横領して配下の国人衆に分け与えたため、9代将軍足利義尚らの反発を受け長享元年(1487年)に義尚の親征を受けて甲賀山中に逃亡した。延徳元年(1489年)に義尚が没したため親征は中止、10代将軍足利義材(のちの義尹、義稙)に赦免され近江守護に復帰したが、国人衆が横領した所領を返還しなかったため延徳3年(1491年)に義材による再度の追討(長享・延徳の乱)を受ける羽目になってしまった。そして、再び領地を捨てて甲賀山中に逃亡した。

だが、明応2年(1493年)の明応の政変で義稙が廃立、第11代将軍として足利義高(後の義澄)が将軍に立てられる。この頃行高は2度目の追討を受け、守護になった山内就綱と戦っていたが、2年後の明応4年(1495年)、将軍・義高によって近江守護に復帰、同時に義高の偏諱を賜り高頼と改名した。直後に起こった船田合戦では石丸利光に与した為、勝者の斎藤妙純の近江遠征を招くが、延暦寺北畠政郷らの支援を受けて結果的に危機を回避できた(妙純は土一揆に囲まれて戦死)。やがて足利将軍家との関係修復に努め、京都の騒乱から逃れた義澄(義高改め)を保護している。一方で、前将軍・義尹(のちの義稙)が大内義興細川高国らの支援で義澄を追放して将軍に復帰すると、永正8年(1511年)に義澄を匿った水茎岡山城九里信隆を討ち取って義尹(義稙)支持を表明している。

永正3年(1506年)、嫡男の氏綱に家督を譲って隠居した。氏綱は自身に先立って死去したが、僧籍にあった次男の定頼を還俗させて家督を継がせている。また、他の息子達は近江の奉公衆の養子に入れ、奉公衆を被官・組下に入れたりしている。息子の1人真玄は出家、聖衆来迎寺の中興に務めた。

晩年には筆頭家臣の伊庭貞隆との抗争に明け暮れた。貞隆は文亀2年(1502年)に細川政元、永正11年(1514年)に浅井亮政の支援を受けて反乱を起こしたが、永正17年(1520年)に没落、直後に高頼自身も死去した。貞隆の没落と国人衆の組織化により六角氏の領国支配は固まり、定頼の代で全盛期を迎えることになる。

墓所

栗東市岡([[[:テンプレート:座標URL]]35_00_36.46_N_135_59_7.65_E_scale:10000 位置]、キョーラク工場敷地内)に「佐々木高頼塚跡」として石塔が残る。高頼は青地城主のもとで隠居生活を送り、当地で死去した。翌年には朝廷から「甲賀大明神」の神号が贈られている。死後塚が立てられたが、昭和初期の開墾で失われた[1]

脚注

  1. 塚の案内板より。

参考文献

関連項目

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