大碇紋太郎

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大碇 紋太郎(おおいかり もんたろう、1869年(明治2年)2月22日-没年未詳)は、大相撲大関


来歴

出生地は尾張国知多郡(現在の愛知県半田市乙川殿町)出身。生年月日は1869年(明治2年)2月22日説と1871年(明治4年)3月20日説があり、苗字も「吉田」と「竹内」の2説あったが、大碇の生年月日は1869年(明治2年)2月22日で苗字は「竹内」であることが外国旅券下付表や除籍謄本などで確認された[1]。その後、「吉田嘉平」に一旦、養子縁組し、1871年(明治4年)3月20日に愛知県知多郡南知多町内海の「日比長三郎」の養嗣子となり同家に入籍した。

1884年(明治17年)、山分萬吉の山分部屋に入門、大相撲力士となってゆく。

1885年(明治18年)5月の番付序ノ口に記載される。1893年(明治26年)1月新入幕。その後負け越すことなく、1894年(明治27年)5月に小結で7勝1敗1預、1895年(明治28年)1月に関脇で7勝2敗、大関になった。ところが大関2場所はいずれも勝ち越しているのに降格、怒った大碇は1896年(明治29年)5月場所番付に張出関脇としてその名を残しながら脱走して京都相撲に加入、大関として迎え入れられる。1898年(明治31年)1月には雷親方の世話により前頭筆頭格番付外で帰参するが大負けして再度脱走した。

その後は京都の大関として活躍、1899年(明治32年)4月には五条家から横綱免許を授与された。1910年(明治43年)2月にある英国人に誘われ海外公演の開催が決定すると大碇は横綱としてその先頭に立ち土俵入りも披露、その後も海外巡業を続けたが大半は帰国しており横綱大碇の帰りを待っていた[2]。ある時帰って来るとの噂が流れると、京都はそれを信用して番付も発表したが結局帰ってくることはなく、大碇は南米での巡業を続けていた。昭和初期にベネズエラから知人に連絡したそうだが、それを最後に消息を絶ち、最期については知られていないといわれてきた。

しかし、最近、大碇の同郷のノンフックション作家の西まさるが、マルクス経済学者の河上肇の自叙伝で大碇と思われる老人を見たという内容が書かれていた事を発見した。河上によると当時、治安維持法違反で実刑判決を受け、1933年(昭和8年)、収容先の東京・小菅刑務所(現在は廃止。跡地に東京拘置所が建つ。)で大碇に出会ったという。以前から知られていた1913年(大正2年)[3]に消息を絶ってから約20年が経っていた[4][5]。その証拠に河上はその老人が元力士らしき体格もきちんと記録していた。その後、老人は1936年(昭和11年)に獄中死するが河上はその最期を見送った。結局大碇が海外巡業に出かけた後で京都相撲は解散してしまったが、海外に相撲を披露するという点では先見の明があったといえるかもしれない。

ある時名古屋相撲との合併興行で名古屋大関の常陸山との割が組まれたのを知ると、「何が名古屋の大関じゃ、儂が東京で大関やってた頃あいつは同じ東京で三段目じゃないか」と対戦を断わった。これを聞いた常陸山は強くなって見返そうと考え、それ以後大坂で稽古に励んだ。1899年(明治32年)に再度割が組まれた時は流石に大碇も断れず、周囲からは引分にしないかと言われた。しかし引分嫌いの常陸山がこれを断り大碇を投げ飛ばした。その後常陸山は「大碇関のあの発言があるから強くなろうと思いました、もしそれがなければ今でも名古屋大関に満足していたに違いありません」と発言、大碇は自己の不明を詫びたという。

脚注

  1. 出所は『悲しき横綱の生涯 大碇紋太郎伝』(西まさる著)で、同書によれば生誕地は今の愛知県半田市乙川殿町3番地で、苗字は「竹内」
  2. ちなみに1913年(大正2年)にアルゼンチンからスペイン経由で神戸港に着いたときに仲間の力士がいなくなっていた事に気づいたという
  3. 一部ではベネズエラから知人に連絡を最期に受けた昭和初期説もある。
  4. しかし、西によると、大碇と河上の自叙伝の老人と年齢差が10歳があるため、河上の取り違いの可能性があるという。また、この老人が大碇であれば帰国刑務所入りの詳細は不明である
  5. 平成16年に郷土研究誌「みなみ」に発表された「横綱大碇の最期」によると大碇の戸籍の死亡年月日は(獄中死したなら当然本籍地の役場に連絡があるはずにも関わらず)空欄のままであり、また河上の自叙伝に登場する人物はすべて仮名であることからこの老人が大碇である可能性は極めて低いと考えられる

参考文献

関連項目