梅ヶ谷藤太郎 (初代)

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梅ヶ谷 藤太郎(うめがたに とうたろう、1845年3月16日弘化2年2月9日) - 1928年昭和3年)6月15日)は、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷(現・福岡県朝倉市)出身の元大相撲力士。本名は小江 藤太郎(おえ とうたろう)。

経歴

1845年3月16日(弘化2年2月9日)に、筑前国上座郡志波村梅ヶ谷で生まれる。にわかには信じがたいが赤子の頃から石臼を引き摺るほどの怪童で、母乳や菓子より酒を欲しがったため、酒で育てられたという。7歳で大坂相撲に引き取られて「梅ヶ枝」を名乗るが、その後に湊部屋へ入門する。入門と同時に四股名を、故郷・志波村梅ヶ谷に因んで「梅ヶ谷」とする。明治維新後の1869年3月場所に大坂相撲で新入幕を果たし、いきなり小結となる。大関になったあと、1870年の暮れに東京相撲へ加入して玉垣部屋に所属するが、本中[1]に据えられてしまう。陣幕久五郎が大坂にいたことで、大坂から来た力士は誰とも構わず嫌われていたこともあるが、当然ながらこの地位では敵などおらず連戦連勝、1874年12月場所で新入幕を果たすと、8勝1分の優勝相当成績を挙げた。

1876年には福岡県で興行を行っていたところへ秋月の乱に遭遇、力士と反乱氏族の戦闘になったが、梅ヶ谷は動じずに平定に活躍して争いを収めた。1877年6月場所に小結、12月場所に関脇になると両方で全勝を挙げ、1879年1月場所の新大関昇進を挟んで、1880年5月場所でも全勝を挙げる。この間、1876年 - 1881年にかけて58連勝(分・預・休は除く)を記録し、若嶌久三郎に敗れて記録が一度止まるも、1884年5月場所まで35連勝を記録した。

同年2月には吉田司家五条家の両方から横綱免許を授与されたが、梅ヶ谷は吉田司家の免許を希望し、これが司家争いの結果を決めたと伝わる。3月に行われた明治天皇の天覧相撲では、伊藤博文が用意したまわし(自前のまわしが間に合わなかったという)で土俵入りを披露した。土俵入り後、明治天皇のリクエストで大達羽左エ門との割が組まれたが大熱戦の末に引き分けとなって天皇は大喜び、明治維新で低迷していた相撲人気も回復した。1885年5月場所を最後に引退し、年寄・を襲名した。

引退後は東京大角力協会の最高職だった取締を長く務め、1915年6月場所で弟子の梅ヶ谷藤太郎(2代)が引退すると部屋と年寄名跡を譲って廃業したが、協会は「大雷」の尊称を贈り、相談役待遇として接していた。

弟子である梅ヶ谷藤太郎が没してから9ヶ月後、1928年6月15日に死去。テンプレート:没年齢還暦が長生きの基準だった時代の力士としては非常な長命で、横綱の長寿記録として現在でもまだ破られていない。

人物

巨体とも伝わるが、実際には歴代横綱の中で小柄な方。右上手を浅く引きつけ、左は筈かのぞかせて寄る堅実な取り口だったとされている。

前述の通り58連勝を記録するなど、明治前期の相撲黄金時代を支えた第一人者である。2012年現在でも双葉山定次の69連勝、谷風梶之助白鵬翔の63連勝に次ぐ歴代4位の記録だが、当時は連勝記録への関心が薄く、ほとんど取り上げられなかった。赤子時代の逸話はこの強さから生み出された後世の創作かもしれない。

エピソード

  • 人望が非常に厚く、1904年に大相撲常設館建設が計画された際には、安田銀行本所支店長だった飯島保篤から自分の信用だけで40万円(現在なら100億円に相当するという)を無担保で借りることに成功した。協会は飯島に感謝し、毎場所初日に飯島家へ赤飯を届けるようになったという。
  • 一斗酒の酒豪で、4斗樽を片手で差し上げる無双の怪力、研究熱心で寝た間も二の腕を脇から離したことがなく、彼の下駄は親指に力を入れて歩くため、その辺がひどく窪んだという。
  • 1959年11月24日、出身地である朝倉市の原鶴温泉で「初代梅ヶ谷記念碑」の除幕式が行われた。2001年11月3日には、同じ原鶴温泉のサンライズ広場にブロンズ像が完成した。

主な成績

  • 幕内通算成績:116勝6敗18分2預78休 勝率.951(歴代横綱最高勝率)。
  • 優勝相当成績:9回

脚注

  1. 序ノ口より下、現在でいう前相撲に当たる。

関連項目

参考文献

  • 「第十五代横綱 梅ヶ谷 藤太郎詳伝」(小野重喜著 海鳥社 2009年) 

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