大田原資清

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大田原 資清(おおたわら すけきよ、文明18年(1486年) - 永禄3年1月17日1560年2月13日))は、戦国時代武将那須七騎大田原氏の当主。大俵胤清(大田原胤清)の子。麟道(光真寺開祖)の弟。大関高増福原資孝大田原綱清那須政資妻・佐久山義隆妻の父。那須資胤の外祖父。備前守。号は詠存。

父胤清とともに永正11年(1514年上那須家の相続争いで、幼主那須資久を擁し、那須資永を攻め滅ぼしたが、その際不慮の事故で資久をも失い、上那須家は断絶、下那須家から那須資房を当主として迎えることになる(統一那須氏)。

資清は智勇に優れ、上記の上那須家のお家騒動の際にも活躍し、資房からは名の一字を与えられるほど信任された。しかし、その優れていた智勇を周囲に危険視され、永正15年(1518年)、同僚の大関宗増の讒言を受けて失脚、出家した。僧になっていた兄の縁をたよって永平寺に潜み越前朝倉氏の保護を受けたともいう。

天文11年(1542年)に復帰し、宗増の嫡男・大関増次を謀殺し、長男・高増を大関氏へ養嗣子として送り込んだ。さらに福原氏にも次男・資孝を養嗣子として送り込み、資清は那須七騎の内の大田原・大関・福原の三家を支配し、那須家中でも最有力の実力者となった。資房の子那須政資に自分の娘を娶わせるなど、主家との繋がりも深めた。外孫資胤の家督相続を図って、政資の子那須高資と対立し、天文20年(1551年)、芳賀高定の調略に加担した千本資俊により高資が誘殺されると、孫である資胤を当主に据え権力をふるった。永禄3年(1560年)、死去。

また、天文14年(1545年)までに水口城から大田原城へと居城を移し、姓を「大俵氏」から「大田原氏」へと改めている。また、同年には光真寺を開基し、下野国塩谷の長興寺の三代目住職であった実兄の麟道和尚を迎えて300石(のち500石)という破格の寺領を与えて保護し、以後光真寺は大田原氏代々の菩提寺となった。