芳賀高定

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芳賀 高定(はが たかさだ、大永元年(1521年) - 天正16年(1588年))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将宇都宮氏家臣益子勝宗の三男。

高定は益子氏の生まれで益子勝宗の三男。宇都宮氏に反抗的だった芳賀高経が討ち果されると、主君の宇都宮尚綱からの命で芳賀氏を継いだ。

天文18年(1549年)、尚綱が那須高資と戦って敗死すると、尚綱の子で幼年であった伊勢寿丸(後の宇都宮広綱)を連れて宇都宮城を脱出、居城の真岡城へと戻り幼い当主・広綱を補佐して主家の再興を図る。1551年には先君の仇である那須高資を千本城にて謀殺し、天文20年(1551年)には宇都宮氏に対して反抗を続ける芳賀高照(高経の子)を殺害した。弘治2年(1556年)、高定は芳賀氏出自の母を持つ江戸忠通や、古河公方足利義氏、関東一円を勢力下に置いていた北条氏康を通して常陸国の大名佐竹義昭に宇都宮城奪還のための出兵を要請し、これを受けた佐竹軍が飛山城へと進軍、宇都宮城を占拠していた壬生綱雄を追放し、名実共に広綱を擁して宇都宮に帰還を果たした。

その後は佐竹氏との婚姻同盟を成立させ、また後北条氏とも結び、益子家宗(高定の兄)に匿われていた芳賀高継(高照の弟)に家督を譲って隠棲した。

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