芳賀高継

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芳賀 高継(はが たかつぐ、大永6年(1526年)- 文禄元年(1592年))は戦国時代武将本姓清原氏家系清党棟梁 芳賀氏宇都宮氏の家臣。高経の三男で、高照の弟。初名は高規。

真岡城を領していた。兄の高照は、芳賀高定によって殺害された。父の死後、高定の実家である益子氏のもとで養育され、高定から家督を継ぐ宇都宮氏への忠誠心が篤い人物ではあったが、1589年(天正17年)勢力争いから自分を養育してくれた益子氏を攻め滅ぼしている。

1566年(永禄9年)、宇都宮広綱の名代として宇都宮軍を率いて小田氏治を攻撃する。翌年も、広綱の代わりに出陣した。広綱の死後は子の宇都宮国綱に仕え、後北条氏と巧みな外交をしながら独立を保ち、その一方で結城氏佐竹氏白河結城氏と手を結んで北条氏と対抗した。

1580年代年半ばには、宇都宮広綱の正室・南呂院らの要望で、国綱の弟・時綱(後の芳賀高武)に跡を譲り、宇都宮に近い芳賀家の飛山城に隠居した。

晩年はその親北条路線が、親佐竹路線を採る主君・国綱と反目し関係が悪化。1589年には、北条氏に寝返り、北条氏邦らと共に手勢を率いて、多気山城を攻撃したが 宇都宮家臣多功綱継の活躍によって退却している。小田原征伐後に許され、復帰したようだが、程なく奥州白河へ追放され、同地で没した。

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