大和村 (山梨県)

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テンプレート:Infobox 大和村(やまとむら)は、かつて山梨県に存在したである。

郡境合併で誕生し、「大いに和する」の願意を込めて大和村と名付けた。2005年11月1日、隣接する塩山市及び勝沼町と新設合併して甲州市となり消滅した。

地理・歴史

県中東部、郡南西端、甲府盆地の最東端に位置。日川流域の山村で、国中郡内の中間に位置する。

室町時代の応永23年(1416年)には、鎌倉で起こった上杉禅秀の乱に荷担した武田信満が、都留郡で上杉憲宗勢に敗退し、木賊山で自害している。また、戦国時代の天正3年(1575年)には織田・徳川連合軍の侵攻に備えた武田勝頼新府城韮崎市)から郡内領主小山田氏の居城である岩殿城へ退く途中の駒飼において小山田信茂の離反を知り、日川渓谷沿いに天目山へ逃れ田野郷で敗死(天目山の戦い)。後に甲斐を領した徳川家康による追福のため景徳院が建立され、初鹿野山が寄進され田野郷を寺領に与えられた。

江戸時代には日川両岸に村落が成立し、右岸に初鹿野、鶴瀬の2村が成立し山梨郡栗原筋に属し、左岸には日影、田野、木賊の3村が成立し八代郡石和筋に属した。山間部で水田は少ないため、生業は僅かな畑作のほか養蚕煙草など商品作物の栽培のほか、林業や製炭などの山稼ぎ、甲州道中沿いの駒飼宿や鶴瀬宿での駄賃稼ぎが行われた。

また、九州のキリシタン大名有馬晴信の配所としても知られる。

近代には中央本線の開通などで宿場が廃れたため出稼ぎが行われるようになり、戦後には過疎化が進む。近年は果樹栽培、灯篭飛石に使われる甲州鞍馬石の生産、日川渓谷や武田家終焉の地であることを活かした観光に力を入れている。

沿革

地理

名勝・旧跡

交通

鉄道

道路

その他

財政

  • 平成16年度決算
  • 人口 1514人 H17.3.31
  • 標準財政規模 9億2407万円
  • 財政力指数 0.19 (財政基盤が弱い)
  • 歳入総額 23億1014万円 歳出総額 22億3294万円
  • 実質単年度収支 9775万円(黒字)
  • 歳入にしめる地方税    8.6% 1億9936万円 (自主財源)
  • 歳入にしめる地方交付税 34.2% 7億9033万円 
  • 歳入にしめる地方債   18.5% 4億2650万円 
  • 歳出にしめる人件費 14.4% 3億2257万円 地方税収の1.6倍
  • 歳出にしめる公債費 17.1% 3億8192万円 地方税収の1.9倍
  • 積立金合計(財政+減債+特定目的)7億1633万円
  • 地方債現在高 30億8912万円 普通会計分のみ 地方税収(自主財源)の15.5倍
  • 職員数 32人(うち技能労務職4人)、消防職員0名(一部事務組合)
  • 職員一人あたり平均給料 33万2700円 すべての職員手当を含まない数字 民間のボーナスにあたる期末・勤勉手当も含まない
  • 職員一人あたり人件費 1008万円

出身者

関連項目

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