武田信満

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武田 信満(たけだ のぶみつ、?-応永24年2月6日1417年2月22日))は、室町時代前期の守護大名甲斐国安芸国守護甲斐武田氏の第13代当主。第12代当主・武田信春の嫡男。息子に14代当主武田信重武田信長上総武田氏祖)、武田信景今井信経。官位は安芸。通称は武田二郎。

経歴

応永20年(1413年)、父の死により家督を継いで当主となる。室町時代に甲斐国は関東8か国を支配する鎌倉府の管轄下に置かれていたが、1416年鎌倉で鎌倉公方と前関東管領の上杉氏憲(禅秀)の対立から禅秀による反乱が起こったとき(上杉禅秀の乱)、氏憲の縁者(小舅)に当たる信満は氏憲側に与した。しかし翌年、将軍・足利義持の命を受けた上杉房方今川氏を中心とする幕府軍が鎌倉に攻め入ると、信満は氏憲らと共に懸命に戦ったが敗れ、氏憲は自害して乱は鎮圧された。信満は本国に敗走したが、やがて上杉憲宗の追討を受け、都留郡(実際は山梨郡木賊山山梨県甲州市、旧東山梨郡大和村)で自害する(『鎌倉大草紙』)。なお、木賊山は後に織田信長の追討を受けた第20代当主武田勝頼が自害して、武田氏滅亡の地となる天目山の旧名であり、実は両者は同じ山中で自害した事になる。墓所は甲州市の棲雲寺

信満の滅亡により甲斐は守護不在状況に陥り、鎌倉府と室町将軍の争いと連動して国人による騒乱に悩まされることとなった。

信満期の発給文書は皆無であるが、わずかに応永7年(1400年)に窪八幡神社山梨市)を再建したことや、応永19年(1412年)に大八幡山宮天神宮(北杜市)に鰐口を寄進した記録が残る。

テンプレート:甲斐武田氏当主