坂井保之

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坂井 保之(さかい やすゆき、1933年 - )は、日本山口県出身の元プロ野球球団経営者。ロッテオリオンズ西武ライオンズ福岡ダイエーホークスで球団代表を歴任。また、その間、日本野球機構においても要職を務めた。1994年限りで退職し、以後プロ野球経営評論家として活動中。現在、神奈川県鎌倉市に在住しており、同市観光協会の専務理事も務める[1][2]

来歴・人物

早稲田大学第二文学部を中退し、外資系企業のPR会社に勤務。その傍ら政治家の岸信介と岸の部下である中村長芳の薫陶を受ける。

1970年ロッテオリオンズ(当時は経営面では大映がリードし、ロッテが球団名の冠スポンサーだった)に入団(入社)。渉外部長につく。

当時オリオンズのオーナーだった永田雅一が同郷の岸と懇意にしており(永田は河野一郎とも昵懇の間柄だった)、永田は度々岸に「球団経営が苦しい」と訴えていた。そこで岸はプロ野球好きの坂井にオリオンズの経営を手伝わせる形で、入団した。

1972年にオリオンズを退団し、同年オフに西日本鉄道から旧西鉄ライオンズの球団経営を受け継いだ福岡野球株式会社にオーナーとなる中村長芳ともども移籍。西鉄ライオンズ改め太平洋クラブライオンズの球団社長と球団代表を兼任した。太平洋はスポンサーをチーム名につけ、その宣伝料を球団運営に当てる「ネーミングライツ」を導入していた。しかし球団の経営は総じて苦しく、坂井が金策に奔走するために社長業に専念しなければならなくなった。1977年からはクラウンガスライターが新たなスポンサーとなって、同年から1978年までの2年間は「クラウンライター・ライオンズ」と冠した。1978年には監督として根本陸夫を招聘。

1978年10月12日、クラウンライターは身売りを決断し、堤義明率いる国土計画に身売りされて西武ライオンズとなり、福岡から所沢へ移転した。坂井と根本も引き続いて新生西武に残った。監督兼任管理部長となった根本、国土計画から球団社長として出向した戸田博之とともに球団改革を進め、大リーグスタイルを取り入れた球団経営で西武は注目の的となった。しかし、チームが2度目の3連覇を果たした1987年オフに東尾修が賭博に関与した疑いで減俸と謹慎(東尾は麻雀賭博がきっかけで1988年に引退)、1989年にコーチの土井正博が賭博容疑で逮捕(土井は後に解雇されるも1996年に復帰)という不祥事が相次ぎ、代表職を退任した。

1990年から福岡ダイエーホークスの球団代表として復帰し(当時の監督は西武の主力選手だった田淵幸一)、1994年で退任。以後「プロ野球経営評論家」という名前で評論、講演活動する。

現在は、プロ野球経営のアドバイザーとして野球界の改革への助言を行っている。

エピソード

  • 福岡野球(太平洋・クラウン)時代、球団は経費削減のために当時の本拠地・平和台野球場に球団事務所を構えたが、法人届出に必要な登記上本店所在地を同球場に定めたとき、福岡市から球場内の事務所移転許可が出ていないとクレームが付いた。その為実質的な事務所は平和台球場内のままとしつつ、登記上本店所在地を坂井の当時住んでいた福岡市内の自宅とする処置を講じたことがあった。
  • 西武球団代表時代の1983年オフ、読売ジャイアンツと争った日本シリーズ第7戦を振り返り、総力戦となった試合を決めた勝因をジャイアンツにあと1人左投手がいなかったためと分析し、当時最も評価が高かった江夏豊がジャイアンツに移籍することを阻止するため獲得を決めた[3]
  • 1988年11月に当時の南海ホークスが南海電気鉄道からダイエーへ身売りされたが、堤は坂井に命じてダイエーの社内で新たに球団経営に携わるであろう人々へ球団経営のレクチャーを施した。

著書

  • 『「ニッポン・プロ野球」考』(海鳥社)
  • 『波瀾興亡の球譜―失われたライオンズ史を求めて』(ベースボールマガジン社)
  • 『激動!ニッポンプロ野球―2004年 熱い日々の記録から』(生活情報センター)
  • 『深層「空白の一日」』(ベースボール・マガジン社)

出演番組

イチバン知りたがり! のコーナーで清武の乱についての解説を行った

脚注

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  1. [1]
  2. [2]
  3. 雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号134ページ巻末コラム「期間延長、トレードの効能」

関連項目

外部リンク