囲碁の歴史

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この項目では、囲碁の歴史(いごのれきし)について解説する。

中国の囲碁

棋待詔(囲碁を以って仕えた官職)も参考

起源・考古資料

「碁」という字は本来は「棋・棊」の異体字で、意味も発音も同じだった。現在も中国では「围棋(圍棋)」と書く。日本でも明治・大正のころまで「将棋」を「将碁」とも書いていた[1]。日本漢字音での「ゴ」と「キ」の音の違いは呉音漢音の違いに由来する。

囲碁の実際の起源ははっきりとは判っていないが、中国占星術の一法が変化・洗練されて今の形となったのではないかと言われている。

考古学的な考証を見ると、2002年に中国陝西省の考古学者が、前漢景帝陽陵で、前漢時代(206 BC - 24 AD)のものと思われる陶製碁盤を発見した。この碁盤は17路盤で、出土時に破損していて最長の部分で縦およそ28.5センチメートル、横19.7センチメートル、高さ3.6センチメートルだった。つまり、中国碁は前漢時代17路盤であったと考えられている。現在は様々な発掘から9路盤、17路盤、19路盤というように、盤のサイズが時代とともに変化してきたと考えられている。中国の考古学者の調査によれば、この碁盤は皇帝の陵墓から出土したとはいえ、皇族が使用したものではなく、陵墓の墓守達の遊戯のために使用されていたものと推定されている。このことから、中国では囲碁は2000年前には庶民の間にゲームとして一般的であったと考えられる。初期の碁石は、期のものが残っている。

先秦時代

伝説では、が息子のzh:丹朱が賢くないのを見て、囲碁を発明し、教えたという。晋代張華は「博物志」で、「堯造圍棋,以教子丹朱」と「以子商均愚,故作圍棋以教之」と記載する。“夏人烏曹作賭博圍棋。”(『潛確類書』)と、の時代に発明されたとする伝説もあった。もちろんこれは寓話であり事実ではない。

春秋時代、孔子は囲碁について触れ、「飽食終日,無所用心,難矣哉!不有博弈者乎,為之,猶賢乎已!」(一日中何もしないよりは六博や碁でもやっていた方がましだ)と述べている。(論語・陽貨)

春秋左氏伝』に、の君主・閔公(びんこう)が部下の南宮万と対局していたときに、閔公が負けそうになったときに悔し紛れで南宮万を侮辱し、怒った南宮万により碁盤で殴られて殺されたと言う[2]。しかし閔公と南宮万がしていた遊戯が碁だったかははっきりせず、別の博打のようなものだったとも考えられている。

孟子》にも“弈”(囲碁)に関する記載がある。

紀元前には囲碁のことを「弈」(エキ)と呼んでおり、「棋」は六博という別のゲームの駒を意味していた。後漢にはいると六博がすたれて、「棋」は弾棋を意味するようになったが、弾棋もすたれると、ようやく囲碁のことを「棋」というようになった。

初期の囲碁のルールは多様であった。白が先手で黒が後手であった。密芒(チベットの囲碁)は今でも白が先手で黒が後である。置き石の置き方も現代囲碁とは違うところがあった。例えば、『玄玄碁経』の有名な「天地覆載図」など。

前漢後漢

この期間、囲碁はサイコロを使ったゲームの「zh:六博」とともに「博弈」と称され、上層階級に広まった。ただし、前漢では運次第の「六博」の方が知力を競う囲碁よりも流行していた。後漢に至ってようやくこの状況は改善され、囲碁は兵法に類似しているとして、段々と重視されるようになってきた。班固の『弈旨』は世界初の囲碁の専門書とみなされる。馬融は『圍棋賦』のなかで最初に「三尺之局兮,為戰鬥場」との思想を表明した。曹操孫策王粲などの当時の著名人はみな囲碁をたしなんだ。関羽が矢傷を負った際、碁を打ちながら華陀に手術を受けたというエピソードはよく知られる。

中国に現存する最古の棋譜と言われているものは三国時代の「孫策詔呂范弈棋図」である[3]。しかし後漢の墓から出土した棋具と邯鄲淳の『芸経』[4]の記載から、この時代の碁盤は17路で、石も四角かったと考えられる。よって「孫策詔呂范弈棋図」は後人の仮託でないかという説がある。この時代は、黒と白が対角線のに石を置き(現代でいうタスキ星)、ここからスタートする形であった。

南北朝時代

この時期に囲碁は、南方の文人や雅士の間で流行した。碁盤は十九路盤に拡大した[5]が、碁石は四角のままだった。南朝では棋品制度と圍棋州邑制度が設けられ、専業の棋士をそれぞれ異なる級に分け、一定の待遇を与えた。武帝は自ら『圍棋賦』を作って、囲碁を唱導し、囲碁は黄金時代を迎えた。

武帝はまた全国的な囲碁の大会を開催した。これは証拠がある最初の全国大会である。参加者は夥しかった。大会後上品級とされた棋士は278人であった。

唐代

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王積薪(黒)驪山老媼(白)

代に入り、囲碁は急速に発展した。宮中には棋待詔という職が設けられ、皇帝と囲碁をする棋士を専門に養成した。王積薪開元年間の名人であり、圍棋十訣をまとめた。「不得貪勝,入界宜緩,攻彼顧我,棄子爭先,舍小就大,逢危須棄,慎勿輕速,動須相應,彼強自保,勢孤取和」というこの秘訣は囲碁の古典理論とされる。伝説では王積薪は夢のなかで青龍が棋経九部を吐いて己に授け、この時からその芸が進んだという。唐の天宝年間、安史の乱を避けて王積薪は四川に行き、驪山の老婆の嫁姑の対局を見たという伝説がある。宋代の「忘憂清楽集」には、王積薪の「一子解双征」の棋譜が載っている。(一説には顧師言と日本国王子の対局という)。

開元25年(西暦738年)、棋士の楊季鷹が特使とともに新羅に使者として赴いた。楊季鷹に新羅棋士で敵うものは居なかった。約百年後、長安で顧師言と日本王子高岳親王が対局した。初めての正式な日中対抗戦と言えよう。顧師言はこの対局で「神來之筆」と後に呼ばれた「三十三招鎮神頭」で、一挙に勝ちを決めた。

またこの時期に囲碁が日本に伝来した。

宋代

宋の張擬孫子の兵法を真似て《棋経十三篇》を書き、後世の囲碁理論と実践に深い影響を及ぼした。北宋時期の劉仲甫は囲碁に関する著作が多く、《忘憂清樂集》、《棋勢》、《造微》、《精理》、《棋訣》等がある。北宋時期の范仲淹欧陽脩司馬光王安石蘇軾黄庭堅といった文人や忠臣も高い囲碁の造詣を持っていた。

元代

元朝の嚴德甫晏天章は『玄玄碁経』を編集し、前人の大量の理論の著述や囲碁の死活や定石をあつめた。

明代

明末の名人の過百齢が『官子譜』を書き、各種の手を収録した。民間では囲碁を使った賭け事が盛んになり、朱元璋が「禁棋令」を出すほどだった。

清代

清朝の時代も、囲碁の名手は続々と出た。康熙年間、黄龍士徐星友に三子譲った対局の10番の棋譜「血泪篇」は著名である、。乾隆四年(1739年)、施定庵范西屏は浙江平湖で有名な「当湖十局」を打った。

公的な地位の低下は、明清時期の民間の棋士の経済収入を長く不安定な状態にした。棋士の収入は、囲碁の指導や弟子への伝授のほか、主に観客(主に顕官、富裕な商人、上層文人)の「賞金」や「賭け金」に依存していた。これは明らかに運まかせであった。もし太平の世であれば、貴顕たちにも余裕があって、民間の囲碁活動も盛んになり、棋士の生活も安定する。「諸子爭雄競霸,累局不啻千盤」,「海内国手幾十数輩,往來江淮之間」と、王燮は「弈墨·序」で清初の棋壇の盛况ぶりを描写した。しかしいったん民生が苦しくなると、棋士の生活も苦しくなった。囲碁のレベルも自然と段々下がり、後継者も減った。このような賞金にたよった生活方式は、棋士に独特の勝負観と社会的地位を形成した。囲碁は依然として高尚な芸術であったが、棋士は役者占い師のように低く見られた。

日本の囲碁

日本伝来

日本には遣唐使に加わった吉備真備が伝えたとされる。しかし大宝律令の中に碁に関する項目があることから、実際にはさらに以前から伝わっていたと思われる。奈良時代には盛んに打たれていた様で、正倉院碁盤「木画紫檀棊局」が収められている。平安時代には貴族のたしなみとして好まれ、「枕草子」「源氏物語」などこの時代の代表的な文学作品にもしばしば碁の描写が登場する。現在伝えられている日本最古の棋譜と呼ばれる物は1252年日蓮がその弟子吉祥丸(後の日朗)と打ったという棋譜であるが、おそらくは後世の偽作である。

愛好者の広まり

室町時代に入ると、それまで公家、僧侶階級に愛好されていた囲碁は武家や庶民にも広がり、同時に碁盤と碁石を使った様々な数とり遊びも生み出されて広まった。有力者は「碁打ち」「上手」と呼ばれる半専業の者を抱えて、競わせるようになり、その中には同朋衆や、出自不明の者も少なくなかった。戦国時代に入ると、戦のシミュレーションとして大いに好まれ、隆盛を迎える。武田信玄他、多くの戦国武将が碁を好んだという記録が残っている。

この時期に群を抜いた第一人者として登場したのが日海(後の本因坊算砂)である。この時代には、それまでは対局する両者が碁盤上にあらかじめいくつかの石を置いて対局していたものを、盤上にまったく石の無い状態から打ち始める方式への移行もあった[6]。このため布石の概念も算砂の時代から生まれたといえる。

算砂は織田信長豊臣秀吉徳川家康の囲碁の師であり、三人共に算砂に五子置いていたと言う。算砂を現在のトッププロとすれば、信長たちは現在のアマチュア4、5段ということになる。その腕を信長に認められた算砂は名人の称号を名乗ることを許され[7]、更に秀吉にも重用されて扶持を貰うようになり、家康が将軍となった後は名人碁所(めいじんごどころ)として碁界を統括することを命ぜられた。(算砂は将棋所も受けている)[8]

戦国から江戸にかけては日本の碁のレベルが飛躍した時代であり、来日していた朝鮮人の李礿(礿は示編に勺)に三子を置かせて勝利したという記録が残っている。三子という数字は現代でいえばトッププロとトップアマの差である。

江戸の黄金期

江戸時代には算砂の本因坊家井上家安井家林家の四家が碁の家元と呼ばれるようになり、優秀な棋士を育て、互いに切磋琢磨しあうこととなった。四家はそれぞれ幕府から扶持を受けており、それぞれの宗家は血筋ではなく、実力により決められる事となった(血筋も影響したようではある)。その技術の発揮の場が年に一回江戸城内、将軍御前にて行われる御城碁である。この勝負は四家がそれぞれ代表を数人選んで対局され、負けることは家の不名誉であり、弟子の集まり方にも影響があった。

また囲碁界の統括者である名人碁所の地位は、各家元いずれかの宗家であり、棋力が他を圧倒し、かつ人格的にも他の家元からも認められることが必要とされた。本因坊道策のように例外的に何の反対も無く名人となった者もいるが、名人の地位は他の棋士に対して段位を発行する権限を保有するなどの数々の特権と大きな名誉を有しており、多くの場合は名人の地位は争いとなった。争いの解決は対局で行われ、その対局を争碁(そうご、あらそいご)と呼ぶ。

史上初の争碁は二世本因坊算悦と安井家二世の算知との間で争われた。御城碁における手合割を不服としたもので、9年がかりで6戦して3勝3敗の打ち分けのまま、算悦の死によって終わりを告げた。

算知は算悦の死後10年目に名人碁所の座に就くが、算悦の弟子で三世本因坊となっていた道悦がこれに異を唱え、再び争碁が開始された。幕府の意にあえて逆らった道悦は、遠島あるいは死をも覚悟しての争碁であった。両者20戦して道悦の12勝4敗4ジゴとなったところで対戦は打ち切られ、名人算知は引退を表明した。また道悦も「公儀の決定に背いたのは畏れ多い」とし、弟子道策に後を譲って隠居した。道策の技量はこのときすでに道悦を上回っていたとされ、争碁後半で道悦が大きく勝ち越したのには道策との共同研究によるところが大きかったといわれる。

四世本因坊道策は当時の実力者たちを軒並みなぎ倒し、全て向先(ハンデの種類)以下にまで打ち込み、実力十三段と称揚された。もちろん名人にも文句なしに就位している。始祖算砂、棋聖道策と言う二人の不世出の棋士により、本因坊家は名実共に四家の筆頭となった。

時の最強者本因坊道策の下には天下の才能が集まったが、厳しい修行が仇となったのか次々と夭折した。このうち本因坊道的は19歳の時すでに師の道策と互角であったとされ、囲碁史上最大の神童といわれる。晩年、道策は道的に劣らぬ才能本因坊道知を見出し、これを後継者とした。道知もまた後に名人碁所となる。

道知以後は本因坊家の家元も三代にわたって六段止まりとなり、囲碁界自体も沈滞の時代を迎える。しかしここで現れた九世本因坊察元は他家を力でねじ伏せて久々の名人となり、本因坊家に中興をもたらした。また安井家七世安井仙知(大仙知)も華麗な棋風で活躍し、後世に大きな影響を与えた。

18世紀末から19世紀初頭は十一世本因坊元丈と安井家八世の知得の角逐時代を迎える。両者は80局以上に及ぶ対戦を重ねるが戦績はほぼ互角で、江戸期最高のライバルと謳われる。後の十一世井上幻庵因碩・十四世本因坊秀和と合わせ、名人の力を持ちながら名人になれなかった者として「囲碁四哲」と呼ばれる。

十二世本因坊丈和は棋力は第一級であったが、幻庵因碩と碁所の座を争い、策略を駆使して名人位に就いたために後世に悪評を残した[9]。ただしその腕力は史上でも随一とされ、幻庵因碩が刺客として送り込んだ愛弟子赤星因徹を「三妙手」で返り討ちにした松平家の碁会(1840年)は江戸囲碁史のハイライトとされる。

丈和隠退後、幻庵因碩は名人位を望むが、これに抵抗したのが本因坊一門の若き天才児本因坊秀和であった。秀和は本場所というべき御城碁で幻庵を撃破し、その野望を阻んだ。秀和は史上最強の棋士として名が挙がるほどの実力であったが、名人位を望んだ時には世は幕末の動乱期に突入しており、江戸幕府はすでに囲碁どころではない状況に陥っていた。

本因坊秀和の弟子である本因坊秀策は若い頃より才能を発揮して、御城碁に19戦19勝と言う大記録を作ったが、コレラにより夭折した。秀和と秀策と秀策の弟弟子である村瀬秀甫(後の本因坊秀甫)の三人を合わせて三秀と呼び、江戸時代の囲碁の精華とされる。

江戸時代には武士だけではなく、各地の商人・豪農が棋士を招聘して打ってもらうことが良くあり、落語の『碁打盗人』で有名なように、市井でも盛んに打たれていた。一方で地方によっては双六などとともに賭け事の一種と見られて、禁止令が発されることもあった。

日本棋院誕生

しかし明治維新により江戸幕府が崩壊すると、パトロンを失った家元制度もまた崩壊した。本因坊宗家の秀和は生活に苦しみ、一時は倉庫暮らしとなったほどである。更に西洋文明への傾斜、伝統文明の軽視と言う風潮から囲碁自体も軽く見られるようになった。

その中で囲碁の火を絶やすまいと1879年村瀬秀甫は囲碁結社「方円社」を設立(方は碁盤、円は碁石のことで囲碁の別名である)。新たに級位制度を採用するなど、底辺の開拓を試みた。それに対抗して秀和の息子である土屋秀栄(後の本因坊秀栄)は1892年に「囲碁奨励会」を設立した。こうして坊社対立時代が続くが、秀栄は秀甫に本因坊の座を譲って和解した。しかしその1ヶ月後に秀甫は死去、秀栄が本因坊に復帰する。

こうした対局の熱気を受けて新聞にも囲碁欄が登場するようになり、一般の囲碁界に対する興味が高まってきた。

一旦は秀栄が本因坊家を相続、名人位に就位して並み居る棋士をなぎ倒して囲碁界を統一した。しかし秀栄の死後は団体が乱立し、囲碁界は混乱の極みとなる。秀栄は後継者を決めないままに死去し、田村保寿(後の本因坊秀哉)と雁金準一が後継の座を争い、囲碁界は混沌とした時期を送った。結局秀栄の弟本因坊秀元がいったん二十世本因坊を襲名し、一年後に秀哉に本因坊位を譲ることでこの難局を収拾した。

この状況の中で関東大震災が起き、囲碁界も大ダメージを受けた。この苦境を乗り切るためには分裂は好ましくないという機運が生まれ、帝国ホテル創業者として有名な大倉喜七郎の呼びかけにより、1923年に東西の棋士が集まって日本棋院が設立された。

発足直後に一部の棋士が離脱し棋正社を結成、日本棋院との間で対抗戦が行われた(院社対抗戦)。この時の本因坊秀哉名人と雁金準一の対局は新聞上に記載されて大人気を呼んだ。これによって読売新聞は発行部数を一挙に3倍に伸ばしたといわれる。1927年には大手合(棋士の段位を決めるための対局)が始まり、これも新聞上で人気を博した。

本因坊秀哉名人は死期が近づいてくると本因坊の世襲制を取りやめることを宣言し、本因坊の名跡を日本棋院に譲り渡した。1936年、日本棋院は本因坊の座を争う棋戦を開催することを決定した。これが本因坊戦であり、囲碁のタイトル戦の始まりでもある。秀哉名人は引退するに当たり木谷実と数ヶ月に及ぶ引退碁を打ち(木谷先番5目勝)、終了後まもなく死去した。

秀哉名人に代わって第一人者の地位を勝ち取ったのが、天才棋士呉清源である。呉清源は1933年木谷実と共にそれまでの布石の概念を覆す「新布石」を発表し、本因坊戦の開催と前後して秀哉名人と対局を行い、その冒頭「三々天元」という極めて斬新な布石を披露し、世間をあっと驚かせた。この新布石は囲碁界のみならず一般社会をも巻き込んで囲碁のブームを巻き起こした。

戦後の囲碁

1941年には実力制による本因坊戦が開始され、関山利一(利仙と号す)が第一期本因坊の座に就いた。しかし太平洋戦争が勃発すると棋士たちは地方に疎開せざるを得なくなり、各地でどさ周りをするようになった。日本棋院の建物も空襲で全焼しており、棋士・岩本薫の自宅に一時事務所を移転した。

その中でも本因坊戦は続けられていた。1945年8月6日の第三期本因坊戦(橋本宇太郎岩本薫)の第2局は広島市郊外で行われ、対局中に原子爆弾の投下が行われ、対局場にも爆風が及び、碁石が飛び散ったが、対局は最後まで行われた。この対局は「原爆下の対局」と呼ばれる。

戦後しばらく日本棋院は都内各所の料亭などに場所を借りて対局を行っていたが、自前の対局所を持つべきだという声が強まり、1947年港区高輪に棋院会館が開設された。

呉清源は戦前より、当時の一流棋士たち相手に十番碁(十回対局をして優劣を決める)を何度も行い、その全てに勝利した。1950年には名人の別名である九段位(現在はそういった意味は無い)に推挙され、「昭和の棋聖」と呼ばれた。

1950年には不満を持った関西の棋士たちが当時の本因坊・橋本昭宇(橋本宇太郎)に率いられて日本棋院を離脱し、新たに関西棋院を設立した。1951年、その橋本から高川格が本因坊を奪取、以後9連覇という偉業を成し遂げた。また1953年には王座戦、1956年には十段戦、1962年には名人戦が新たなタイトルとして設立され、新聞碁でもタイトル戦が中心となる。

呉清源は1961年に交通事故に遭い、その後は精彩を欠いた。それに代わって碁界を制覇したのが坂田栄男である。坂田は高川格から本因坊位を奪い取った後に七連覇、また名人戦でも1963年の第二期では藤沢秀行からタイトルを奪った。この年は30勝2敗という驚異的な成績を残し、十段を除く当時のタイトルを独占した。

この坂田時代に待ったをかけたのが台湾から来日して日本のプロとなった林海峰である。1965年に名人を坂田から奪ったのを皮切りに、坂田の牙城を崩していった。更に林に対抗した木谷実門下の大竹英雄が登場し、竹林時代を作る。

またその他の木谷実の門下生たちも一気に活躍し出し、石田芳夫加藤正夫武宮正樹の三人は木谷三羽烏と呼ばれた。この後1990年代まで、木谷の弟子たちが互いにタイトルを奪い合う一門の黄金時代(木谷一門黄金時代)が続いた。この時期この中に割って入ったのが藤沢秀行で、50代になってから棋聖戦で6連覇を記録するなど一人気を吐いた。

1974年読売新聞が主催していた名人戦が朝日新聞に移籍するという名人戦事件が勃発。物価の上昇にも関わらず長年据え置かれていた各棋戦の契約金が見直されるきっかけとなった。これにより1975年天元戦1976年には棋聖戦・碁聖戦が設立、現在の七大タイトルが出揃うこととなった。

木谷三羽烏の後に時代を築いたのが、またしても木谷門下の趙治勲小林光一の二人である。先に趙が活躍をはじめ、1983年には棋聖・名人・本因坊の三大タイトルを一年に独占する大三冠(だいさんかん)を達成し、1987年には七大タイトル全てを一回以上獲得する(一年に独占ではない)グランドスラムを達成した。少し遅れて活躍を始めた小林は趙から棋聖・名人を奪い取り、それぞれ八連覇・七連覇を達成した。小林は本因坊を取れば大三冠というチャンスを幾度となくつかむが、その都度趙に阻まれる。趙は1989年から本因坊十連覇を成し遂げ、これは囲碁界のタイトル最長連覇記録となっている。

90年代後半に入ってからは、ようやく衰えを見せた木谷一門に代わり若手が活躍を始めた。依田紀基王立誠らが覇権を争い、21世紀に入ってからは張栩高尾紳路山下敬吾羽根直樹四天王がタイトル戦線を割拠した。しかし2009年、井山裕太が初の大タイトルとなる名人を戴冠すると、2012年には一挙に五冠王となり、23歳にして第一人者の地位に就いた。

現代の日本の囲碁

ただし90年代からは囲碁の世界戦が開始され、当初は武宮正樹らの活躍があったものの、近年は韓国中国の後塵を拝する時代が続いている。日本は若手の育成が遅れ、韓国・中国の急速な伸張に対抗しきれずに現在に至る。囲碁人口自体も老年の男性に偏り、若いうち(10歳前後)が大事といわれる棋士の育成が阻害されている。

このように競技人口の高齢化が深刻な問題となっていた日本囲碁界だったが、1998年から2003年まで週刊少年ジャンプにて漫画『ヒカルの碁』(後にテレビアニメとしても放送)により囲碁ブームとなり、多くの子供たちが囲碁を打つ姿が見られるようになった。しかし連載終了によって囲碁ブームも去り、移り気な子供たちをどう育成していくかが今後の課題である。

日本は国際大会でも連敗を続けており、世界戦では日本人がベスト16にも名を連ねられないことも珍しくない。この原因の一つとして、韓国・中国と日本の賞金の違いが考えられる。日本の棋聖戦の優勝賞金は4500万円(2010年現在)の賞金であり、国際戦最高額の富士通杯が2000万円であることから、日本は国内戦を優先に戦っている。ところが韓国・中国の国内戦は国際戦に比べるとはるかに安く、韓国の最高額であるKT杯マスターズプロ棋戦で5000万ウォン≒476万円である。また韓国人棋士は世界戦に優勝すると兵役を免除されるという大きな特典があり、これもモチベーションのひとつとされる。しかし両国の強さはこうした実利的な面ばかりでなく、囲碁熱の高さ、囲碁棋士に対する国民の注目度、それがもたらす若い世代の層の厚さが大きな要因といえる。また国内の主要な棋戦と持ち時間の長さが異なり、対応が遅れた部分もある(後述)。

現代の韓国・中国の囲碁

中国と韓国では長らく囲碁は余技としてあまり重視されておらず、江戸時代には日本とはっきりした実力差があった。たとえば1620年に朝鮮の第一人者が来日した際には、本因坊算砂は三子置かせて勝利を収めている。昭和に入っても中韓にはプロ棋士という制度がなかったため、囲碁を志す者は日本にやってきてプロを目指すのが通例であり、呉清源・林海峰・趙治勲・曺薫鉉らはその代表である。曺薫鉉は、日本で修業した後、韓国へ帰り囲碁の普及に尽力した。

しかし1955年韓国棋院が設立され、韓国内でプロを目指すものも増えてきた。中国でも1981年中国囲棋協会が創設され、棋士を目指す子供が急増し、国内で囲碁のリーグ戦が開かれるようになった。また1984年から開始された日中対抗戦・日中スーパー囲碁では聶衛平が日本のトッププロに対して11連勝を記録し、レベル向上を印象づける結果となった。

1988年に日中韓の棋士たちが集まる世界大会世界囲碁選手権富士通杯が創設され、世界大会が次々と創設されるようになった。その国際戦を曺薫鉉李昌鎬らの韓国棋士が勝利するようになると人気が爆発し、韓国内のそこここで囲碁教室が開かれるようになり、頭の良い子供たちは収入の良いプロ囲碁棋士になれと親から言われるようになった。特に李昌鎬の活躍は目覚ましく、16歳で世界大会初優勝を果たした後、世界の第一人者と呼ばれるようになった。

21世紀初頭に至り、韓国勢は世界の囲碁界を制した。李昌鎬と李世ドル(ドルの字は石の下に乙。韓国の国字)の二人が相争いながら世界タイトル戦線を席巻し、それに曺薫鉉劉昌赫の二人を加えた四人が世界の四強と言われた(全て韓国)。それを追いかける朴永訓ら新鋭の層も極めて厚く、その覇権は盤石と思われた。しかし2005年ころから国家レベルで若手棋士の育成に励む中国が急ピッチでこれを追い上げ、常昊古力ら若い棋士が世界のトップを争うようになっている。中国では周睿羊陳耀燁王檄ら、韓国では崔哲瀚朴永訓姜東潤ら10代から20代の若手がトップ戦線を走り、周俊勲ら、台湾勢も台頭し始めた。

その他の国の囲碁

事前置石の無い自由布石は、四百年前の日本に端を発するため、諸外国においては事前置石のルールが受け継がれている。中国韓国では、プロ組織の編制を機に自由布石が普及を開始した。これらの近代普及以前に囲碁が伝わった地域としては、中国韓国以外にはチベットが知られており、チベットの皇子が来日した際、17路式の囲碁の遊具を持参して日本のプロと打ったという記録がある(密芒)。

戦後になると、岩本薫らの努力によって、これらの国以外にも囲碁は世界に普及し始めた。さらにインターネットの出現によりネット碁を通じてどこにいても強い相手と戦える環境が整い、南米のアマチュアが日本のプロ九段を破るような事態もすでに発生している。日本棋院所属のマイケル・レドモンドアメリカ出身)など、欧米出身のプロ棋士も数人存在する。

アマチュアの世界では更に拡大の傾向を見せており、アメリカで20万人・ロシアで10万人・ドイツで5万人の競技人口がいると推定される。

持ち時間の歴史

江戸時代、明治時代には持ち時間という考え方がなく、対局時間は無制限であった。ただし全ての碁が極めて長かったというわけではなく、1日で2局打ち上げた記録も残るなど早打ちの棋士も多かったらしい。大正期以降、新聞碁が主流になってくると掲載時期の関係から無制限というわけにはいかなくなり、1926年の院社対抗戦、本因坊秀哉名人対雁金準一七段戦で初めて持ち時間が導入された。この時の持ち時間は両者16時間ずつという極めて長いもので、これは秀哉が極端な長考派であったことが影響しているとされる。またこの時は秒読みというものがなく、考慮中の雁金に突然時間切れ負けが宣告されるという幕切れを迎えた。秀哉名人引退碁では両者に持ち時間40時間が与えられている。

タイトル戦初期の頃には持ち時間も各10~13時間、三日制であったが、これは徐々に短縮されていった。現在は一般棋戦では持ち時間5時間、棋聖・名人・本因坊の三大タイトルの七番勝負のみ二日制、各8時間持ちとなっている。しかし韓国・中国では各3時間持ちというのが一般的であり、国際棋戦もこれに合わせて行われるものが多く、日本人棋士が国際戦で振るわない原因の一つに挙げられている。持ち時間の長い国内棋戦に対し、3時間が主流の国際棋戦では布石に持ち時間を使うよりも研究で突き詰める方が効率がよく、日本の棋士が布石の研究で遅れた部分もある。このため日本国内のタイトル戦も国際戦に合わせるべきという声が高まり、王座戦などで3時間制が導入されるようになっている。

「早碁」も当初は持ち時間が4時間というものであったが、近年テレビ放送に合わせて1手30秒、持ち時間10分というシステムが一般化した。

参考文献

日本の囲碁

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  • 現代囲碁大系
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  • 福井正明『碁界黄金の十九世紀―江戸後期から明治‐日本の碁を頂点に導いた名手たち』日本棋院 2007年
  • 『昭和の名局』(全5巻)日本棋院 1980年
  • 田村竜騎兵『物語り 囲碁英傑伝』毎日コミュニケーションズ 2005年(初版1972年)
  • 伊藤敬一『昭和囲碁名勝負物語』全2巻 三一書房 1994年
  • 中山典之『昭和囲碁風雲録』全2巻 岩波書店 2003年

脚注

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  1. 夏目漱石『こころ』などに見える
  2. 春秋左氏伝·襄公二十五年』「……大叔文子聞之曰:嗚呼……今寧子視君不如弈棋,其何以免乎?心不免矣!」,講到某重臣立君後又打算廢掉,正如圍棋的得而復棄。
  3. 南宋李逸民『忘憂清楽集』に見える
  4. 文選』巻52、韋昭「博弈論」の李善注が引用している
  5. 『孫子算経』(遅くとも5世紀に成立)巻下「今有棋局、方一十九道」
  6. 置石制の廃止は算砂によるという説もあるが、それを示す証拠は見つかっていない。
  7. 実際に「信長から名人の称号を受けた」かには異論もある。詳細は本因坊算砂を参照。
  8. 「碁所」「将棋所」という名称がこの時期に確立していたか、また幕府から与えられた役職かどうかは疑問視する説も提示されている。詳細は「碁所」「将棋所」を参照。
  9. ただし、名人就位前に幻庵と争碁を申し出ている文書が近年、発見されている。福井正明秋山賢司構成)「囲碁史探偵が行く」(日本棋院)より。