大倉喜七郎

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テンプレート:Infobox 人物 大倉 喜七郎(おおくら きしちろう、1882年6月16日 - 1963年2月2日)は、大倉財閥2代目総帥男爵。東京生まれ。長唄の名を聴松。

父は大倉財閥創始者の大倉喜八郎。異母弟の大倉雄二(1918年-)は父喜八郎・兄喜七郎の回想・評伝を3冊執筆している。

来歴

父喜八郎の事業を引き継いで財閥の発展につとめ、戦後の公職追放財閥解体などの難局に直面しながらも、特にホテルオークラ川奈ホテル赤倉観光ホテルをはじめとする、日本のホテル業に大きな足跡を残した。

気さくで気前がよく、派手好みなハイカラ男爵だったため、周囲からは「バロン・オークラ」と呼ばれて親しまれていた。

大倉集古館の理事長職を長年つとめるなど文化事業にも功績があり、日本屈指の趣味人として囲碁音楽舞踊ゴルフカーレースと多彩な才芸を発揮した。

慶應義塾幼稚舎慶應義塾普通部を経て慶應義塾大学を卒業[1]。その後1900年イギリスケンブリッジ大学に留学。間もなく自動車の操縦はもとより修理技術まで習得、サリーブルックランズ・サーキットで最初に開催されたカーレースにおいて、イタリア製フィアット120馬力レーシングカーを操縦して30マイルを争う「モンターギュ・カップ・レース」に平均速度80マイル以上を出して2位入賞(1907年7月6日)。[2]同年、お土産の自動車5台とともに帰国、日本初の自動車専門の輸入会社・日本自動車を設立した。その後も自動車通として知られ、オーナードライバー団体「日本自動車倶楽部」を設立、当局による自動車関連制度の策定にも協力、皇室御料車の選定や買い付けを任されたこともある。

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大倉山ジャンプ競技場に建立された「大倉喜七郎男爵顕彰碑」

1922年、父親に代わり帝国ホテル会長に就任。1931年、私財を投じて大倉山ジャンプ競技場を建設。1972年札幌オリンピック90m級ジャンプの会場として使用された。

1930年横山大観を始めとする日本画家たちを全面支援してイタリア・ローマで「日本美術展覧会」を開催、近代日本絵画のパトロンとして同時代の日本画を海外に紹介した。この時の出品作品はすべて喜七郎により買い上げられ、大戦後手元に残されていた主な作品は大倉集古館に寄贈されている。また、こうした縁から日伊協会の会長を長年に亘り務めた。

1922年帝国ホテルを本拠とするオーケストラ「東京シンフォニー管弦楽団」を結成、ほかに邦人作曲家による作曲オーディションへの出資やオペラ歌手・藤原義江の支援、バレエ団「川奈楽劇団」の結成など、日本における西洋音楽や舞踊の普及活動に尽力した。 1933年、伝統的な三味線音楽に西洋音楽の歌唱法などを取り入れた新邦楽大和楽(やまとがく)を創設、1935年尺八にフルートのキーシステムを取り入れた新楽器オークラウロを考案・制作するなど邦楽界にも足跡を残した。

1924年日本棋院設立時には経済面で多大な援助を行い、1946年まで日本棋院副総裁を務めて名誉総裁となる。日本棋院ではその功績をたたえ、囲碁の普及、発展の功労者に贈る大倉喜七郎賞1961年に創設。2006年には日本棋院囲碁殿堂入りした。

関連項目

注釈

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参考文献

  • 『別冊文芸春秋』 第181号 1987年 P92
  • 参戦のきっかけはドイツ人留学生から、「日本は戦争には強いかもしれないが野蛮国だから自動車なぞ無いんだろう」とからかわれたためと言う。また大倉は同じフィアットで日本でもアメリカの曲技飛行家・マースの「赤鬼号」と1911年5月3日に川崎競馬場で競走して勝利を収めている。ところがその帰途、メカニックが電柱にこのフィアットを衝突させて大破し、車は使用不能となったという。