南部晴政

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テンプレート:基礎情報 武士 南部 晴政(なんぶ はるまさ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将陸奥戦国大名本姓源氏家系清和源氏の一家系、河内源氏傍系甲斐源氏の流れを汲む。南部氏第24代当主[1]

生涯

家督相続

永正14年(1517年)、第23代当主・南部安信嫡男として生まれる。 将軍足利義晴の偏諱を受けて晴政と名乗る。

天文6年(1537年)、紫波郡で和賀義勝、斯波の軍勢と戦う。天文8年(1539年)に家臣の赤沼備中に背かれて三戸城を焼かれ、多くの文書を失った[1]。直後に上洛して、将軍足利義晴より1字を拝領して晴政と名乗る[1]。天文9年(1540年)、戸沢政安斯波経詮岩手郡侵攻に対して叔父・石川高信を向かわせ、戸沢政安を秋田に追放し、斯波経詮を撃退し、岩手郡を手中に収める。天文10年(1541年)、南部氏家督を継いで第24代当主となった。まずは謀反を起こした工藤氏を討ち、家臣により焼失された三戸城を再建して南部氏を統一する。

南部安信から晴政への家督相続に関しては疑問の点が多い。近年の説では、この頃の南部氏は根城(八戸)系と三戸系に分裂しており、本来は根城系が南部氏宗家であったが、三戸系の晴政がこれを討ち取ったという見方がある。またそもそも晴政と父・安信以前の系図に疑問点が多過ぎ、本当に三戸南部氏なのかどうかも疑わしい。しかし「戦国大名としての南部氏」の祖は晴政である、という点は疑う余地がない。

勢力拡大

晴政には男子が無かったため、永禄8年(1565年)石川高信の子・信直(晴政にとり従兄弟で、後の南部信直)を、永禄8年(1565年)長女の婿にして養嗣子として三戸城に迎えた。

永禄9年(1566年安東愛季は、比内浅利氏残党・阿仁地方の嘉成一族を中心とした5000の兵を遣わして南部領である鹿角郡を襲った。この際は長牛城(現在の秋田県鹿角市八幡平長牛)の城主一戸友義の奮戦と早い降雪により安東軍は退却する。

永禄10年(1567年)、安東愛季率いる6000の兵が長牛城を再度襲った。晴政は北氏南氏東氏らの軍勢を救援に送り、今度も安東軍は退却するが愛季は諦めず、同年またも長牛城を攻撃してついに落城させた。

永禄11年(1568年)、晴政は養子・信直と共に大湯に着陣し、南部一族の九戸政実三ヶ田城(現在の秋田県鹿角市八幡平三ヶ田)に入り南北から挟撃する形をとった。鹿角郡の安東軍は降伏し、奪回に成功したのである。

またこうした戦いの中で、八戸氏九戸氏など一族の親睦を含め、南部氏の最盛期を築いた。南部氏の領土版図は、北は現在の青森県下北半島から、南は岩手県北上川中央部までに広がり、「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われた。

信直との確執

元亀元年(1570年)、晴政に実子・晴継が誕生する。晴継誕生により晴政は信直を疎んじるようになる。

元亀2年(1571年)、同じ南部氏族の大浦為信が、突如、信直の実父・石川高信を討ち取ったのを皮切りに、周りの南部系の豪族を次々に滅ぼし、最終的には津軽、外ヶ浜、糠部の一部を占領している(為信は、同族の領土を全て自分の物にしようと目論んでいたという)。しかし、晴政は信直との争いにより自ら手を出すことをせず、差し向けた討伐軍も打ち破られてしまったという。

『八戸家伝記』では、信直が元亀3年(1572年)に川守田村の毘沙門堂へ参拝した際に、晴政が手兵を率いて毘沙門堂を襲ったとある。信直は鉄砲で晴政を落馬させ、またそれを介抱していた九戸実親にも撃ち当てたという。実親は、九戸家当主・政実の弟にして、晴政の次女が嫁いでいる。

天正4年(1576年)、信直の正室(晴政の長女)が早世すると、信直本人も身の危険を感じていたのか晴政の養嗣子の座を辞退し田子城に引き籠もるが、刺客の脅威から逃れるため北信愛剣吉城八戸政栄根城などに身を隠す。晴政は信直への不信を抱き続け、南部家内は晴政ならび九戸氏の連衡と、信直を盟主とする南長義、北信愛の連合の間で対立していく。

最期

天正10年(1582年)、病死した[1]享年66[1]。死後、家督は嫡男の南部晴継が継いだ。

人物

  • 若い頃から勇猛で知られており、家督を継いでから「三日月の 丸くなるまで 南部領」と謳われた南部氏の最盛期を築いたのは晴政の功績によるところが大きい。
  • 外交面においては天正6年(1578年)、織田信長に使者を派遣して駿馬と鷹を献上して誼を通じるなど優れた一面を見せた[1]。しかし、これは晴政ではなく、信直が行ったという説もある。

研究

三戸南部氏(盛岡藩主南部氏)大浦南部氏(弘前藩主津軽氏)の家伝には食い違いが多く、この時代の北奥羽の研究は進んでいない。

晴政の没年

明治36年(1903年)に旧南部藩士の手によって作られた『南部史要』は天正10年(1582年)死亡説を唱えている。 それに対して元亀3年(1572年)死亡説を採っているのは文久元年(1861年)に編纂された『三戸南部系図』であり、これは南部藩士・星川正甫が藩主に謹呈された緒家系譜を頼りに南部氏一門の系図を作成したものである。前述のように晴政と信直の不和は明確である。また、信直とその支持者によって三戸城を攻められて、晴継ともども殺害されたとの説がある。信直派が謀反を隠すために晴政没年を10年ずらしたと考えられる。

石川高信の没年と大浦為信の挙兵の年代

民間記録である『永禄日記』は、大浦為信挙兵により石川高信が討ち取られたのを元亀2年(1571年)と伝えている。

それに対し盛岡南部側は石川高信が津軽に入ったのを元亀3年(1572年)として、天正9年(1581年)に病死としている。高信の跡を継いで津軽郡代となった二男(信直にとり弟)・政信に仕えていた大浦為信は主君に取りいるため実妹・久を愛妾として政信に差し出し、そして政信と於久をともども宴席に招いて油断させ毒殺、その居城だった浪岡城を急襲占拠して津軽三郡押領したのを天正18年(1590年)としている。

しかし、これに関しては南部氏側の作意を示す証拠が存在する。民間記録『永禄日記』を初め、『南部晴政書状』や『南慶儀書状』も元亀2年の大浦為信の石川城攻略を物語っている。そして天正年間には既に津軽地方は大浦為信が完全に掌握しており、石川政信が津軽に入れる状況ではなかった。さらに南部氏側の主張が事実なら天正18年に挙兵した大浦為信は、同年の小田原征伐での豊臣秀吉の元へ参陣していないことになる。現在では南部家は豪族の連合体の域を脱しておらず、「郡代」を置けるほど三戸南部氏の勢力や統制は強固なものではなかったと考えられている(そもそも主従関係ではなかった)。

ちなみに津軽氏側資料では、石川政信は父・高信が死んだ翌元亀3年に大浦為信に討たれているが毒殺との記載はなく、また津軽氏系譜にも為信の妹は載っていない。浪岡城主は浪岡御所・北畠顕村北畠親房の後裔)であり、大浦為信はあらかじめ無類の徒輩を浪岡城内に潜入させておき天正6年(1578年)7月に放火、撹乱で落城させたとある。

脚注

注釈

引用元

  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 引用エラー: 無効な <ref> タグです。 「.E6.88.A6.E5.9B.BD.E4.BA.BA.E5.90.8D.E4.BA.8B.E5.85.B8591」という名前の引用句に対するテキストが指定されていません

参考文献

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