入江九一

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入江 九一(いりえ くいち、天保8年4月5日1837年5月9日) - 元治元年7月19日1864年8月20日))は幕末期の長州藩士。名は弘致、弘毅。通称は万吉、杉蔵。字は子遠。別名は河島小太郎。野村靖の兄。明治24年に、正四位を贈られた。戒名 精節軒弘致子遠居士。 家紋 丸に並び鷹の羽。

生涯

天保8年(1837年)、長州藩の足軽・入江嘉伝次の長男として生まれた。安政5年(1858年)、松下村塾に入門して吉田松陰に学んだ。松陰から高く評価され久坂玄瑞高杉晋作吉田稔麿と並んで松門四天王の一人に数えられた。同年、師匠の松陰が幕府の無勅許による日米修好通商条約締結に激怒し倒幕を表明して老中間部詮勝暗殺計画を企んだ。このとき高杉と久坂、吉田らは猛反対したが九一・和作(後の野村靖)兄弟だけは賛成し計画に加わった。このとき、松陰から「久坂君たちは優秀だが、度胸が無い。しかし君だけは国のために死ねる男児である」と高く評価されている。そのため、松陰が井伊直弼による安政の大獄で処刑された後も師匠の遺志を受け継いで間部暗殺計画を実行に移そうとした。しかし、幕府に察知されて弟の野村靖と共に投獄されてしまった。

その後、釈放されて文久3年(1863年)、足軽から武士の身分に取り立てられた。その後は京都尊皇攘夷のための活動を行なう一方で高杉の奇兵隊創設にも協力し、奇兵隊の参謀となった。元治元年(1864年)、禁門の変では久坂らと協力して天王山に布陣して奮戦したが敗れて久坂は自刃する。九一は何とか脱出しようと図ったが敵の槍を受けて目を負傷し、その場で切腹して果てた。享年28。

志士としてのその後の活動が期待されていたが志半ばで無念の死を遂げた志士として、上善寺に手厚く葬られた。木戸孝允大村益次郎たちによって長州藩内の桜山招魂場(現在の桜山神社下関市上新地町)・朝日山招魂場(現在の朝日山護国神社山口市秋穂二島)、京都霊山護国神社東京招魂社(後の靖国神社)に護国の英霊として祀られている。

著作

  • 「伝言録」
  • 「入江子遠遺稿」