佐々友房

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佐々友房/『明治人物評論』より

佐々 友房(さっさ ともふさ、嘉永7年1月23日1854年2月20日) - 明治39年(1906年9月28日)は熊本出身の教育者、言論人、政治家。元衆議院議員。鵬州、克堂とす。幼名寅雄。後、坤次。

戦国武将佐々成政の子孫という。熊本日日新聞社長、参議院議員をつとめた佐々弘雄は三男、初代内閣安全保障室長を務めた佐々淳行と、婦人運動家から参議院議員になった紀平悌子は孫に当たる。

経歴

嘉永7年(1854年)1月23日、現在の熊本市内坪井町に肥後熊本藩 佐々陸助の二男として、生まれた。同郷に横井小楠宮部鼎蔵がいる。文久元年(1861年)藩校時習館に入る。水戸学に傾倒し、藤田東湖会沢正志斎の著書に親しんだ。また池辺吉十郎(新聞人・池辺三山の父)の門下生だった。明治3年(1871年)藩政改革により、時習館が廃止となったので、林桜園の原道館に入塾する。

明治7年(1875年)2月に江藤新平佐賀の乱に参加しようと同志と謀っていたが、先輩に軽挙を戒められ断念した。神風連の乱には不参加だったが、明治10年(1877年西南戦争が起こるや、かねて西郷隆盛と気脈を通じていた池辺吉十郎(熊本隊長)のもと、薩軍に身を投じた。西南戦争では小隊長として肥後、薩摩、日向の山野に転戦。この中でも吉次峠の戦いは、近くの田原坂とともに激烈を極めた。重傷を負うて入院し、宮崎の監獄に収監された。

獄中で青年子弟を教育し、国家有用の人材を養うことが今日の急務であると決意し、明治12年(1879年)1月に出獄すると、熊本市高田原相撲町に同心学舎を設立し建学精神を皇室中心、国家主義を建学精神とした。後に同心学校と改め、明治15年2月に濟々黌と改称する。現在の熊本県立済々黌高等学校である。また、濟々黌黌長であった明治21年(1888年)、熊本市昇町に濟々黌附属女学校(現在の尚絅高等学校)を開校した。

佐々は次いで言論界に進出した。熊本には、藩校時習館の出身者で固めた学校党(熊本藩時代の保守左幕派)を軸として結成された政治結社・紫溟会は明治15年(1882年)に「紫溟雑誌」、ついで「紫溟新報」を発刊し、佐々は顧問に名を連ねた。明治21年(1888年)「九州日日新聞」に改名し、社長を務めた。

明治22年1月、国権主義者の古荘嘉門とともに熊本国権党を組織して佐々は党副総理に就任(党総理は古荘)、第一回帝国議会が開設されると、衆議院議員に立候補し当選を果たした。後に国民協会帝国党大同倶楽部に属する。明治39年(1906年)年9月28日没。享年52。

参考文献

外部リンク