住吉神社 (東京都中央区)

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歌川広重名所江戸百景』の内「佃しま住吉乃祭(佃島住吉の祭)」
幕末期の、当時はまだ行われていた海中渡御の様子。手前の幟は「住吉大明神」と読める。
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住吉神社の八角神輿
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陶製の扁額に見える、有栖川宮幟仁親王の筆になる文字

住吉神社(すみよしじんじゃ)は、日本東京都中央区にある神社である。旧社格郷社[1]祭神住吉三神(底筒之男命、中筒之男命、表筒之男命)、息長足姫命(神功皇后)、東照御親命(あずまてるみおやのみこと、徳川家康[1]

由緒

新暦導入以前(1872年以前)の日付は和暦による旧暦。丸括弧内は西暦で、1581年以前はユリウス暦1582年以降はグレゴリオ暦

天正年間(1573- 1592年)、徳川家康上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民神崎川渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の役の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。

天正18年8月1日1590年8月30日)、徳川家康関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百(約180m)四方の干潟幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。

概要

元禄7年(1694年)には、佃嶋(現・佃一丁目)に居住する男子からなる組織「佃嶋氏子中」が河上正吉らによって結成され、その後、幾多の火災風災に見舞われながらも、氏子信者の結束によって近現代に及ぶ。

明治時代には、月島と新佃島、昭和時代には晴海豊海が埋め立てられ、また、人足寄場監獄として利用されていた石川島(別称:森島、鎧島)が、明治29年(1896年)5月に監獄移転に伴って工業・居住の地となり、これらを含めた全島が氏子中に編入されていった。

昭和22年(1947年)には、講組織「佃嶋氏子中」が「佃住吉講」と改称し、各町会・連合睦会と協力して、3年に一度の例祭(神幸祭)を執り行うようになる。獅子頭宮出し、宮神輿宮出し、古から行われていた神輿の海中渡御船渡御は昭和37年(1962年)に廃止されたが、平成2年(1990年)には28年ぶりに船渡御が復活し、現在でも例祭中最も重要な行事の一つとされている。特に、住吉神社が所有する神輿は関東では珍しい八角形のものであり、「八角神輿」「八角」などと呼ばれている。また、古来、この祭りの際には高さ20mに及ぶ6本の大が佃島に立つ[2]が、江戸城からも見えるとまでいわれたその大きさで見る者を圧巻させてきた。

御旅所勝どき四丁目(最初の所在地は勝どき二丁目)に、分社江東区牡丹町(旧・佃町)と晴海にある。

境内の鳥居に格式高く飾られている陶製の扁に見える文字は有栖川宮幟仁親王の筆による。これは明治天皇北海道より還幸される際、越中島へ有栖川宮幟仁親王が出迎える途中、住吉神社に立ち寄り、この社号を書いたものと伝えられている。

年表

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関連する創作作品

  • 丸谷才一の短編小説『鈍感な青年』には、3年に一度の例祭以外の年の「かげまつり」の描写が印象深く描かれている。

参考文献

脚注・出典

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関連項目

外部リンク

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  1. 1.0 1.1 住吉神社(公式ウェブサイト)
  2. 佃住吉講(公式ウェブサイト)
  3. 住吉神社例大祭 平成17年(勝どき西町会)