京阪5000系電車
テンプレート:Mboxテンプレート:鉄道車両 京阪5000系電車(けいはん5000けいでんしゃ)は、1970年(昭和45年)に登場した京阪電気鉄道の通勤形電車。
目次
概要
1970年から1980年(昭和55年)にかけて7両編成7本(49両)と事故廃車の代替新造分1両の50両が製造された。急行から普通まで幅広く運行されている。
本系列は日本の鉄道車両で初めてとなる片側面に両開5扉を備える多扉通勤車であり、日本で唯一座席昇降機構を備え、2扉を閉鎖して3扉車としても使用できる構造となっている。
また、旧700系の車体を再利用して代替新造された1000系においても本系列と同系の主要機器が採用されている。
開発経緯
本系列設計当時の京阪は、大阪・京都両市内における路面電車との平面交差[1]の関係上、架線電圧が開業以来の600Vのままとされていた。このため、変電所数やき電線の電流量上限などの制約もあって、電圧降下、漏洩電流増大、それに事故電流識別などの観点から1列車の編成両数が最大7両に抑えられており、8両編成化は不可能な状況にあった。
また当時は複々線区間が天満橋 - 守口市間のみで、混雑率は最大で190%に達する[2]という凄まじい状況にあった。このため、守口市以東の複線区間では、特に最混雑時間帯における普通列車の乗降時間の増大を原因として、特急・急行を含む全列車のダイヤの乱れが常態化していた。これに対処すべく、1969年より製造が開始された2400系では扉付近の立席スペースが2200系よりも拡大されていたが、これは乗降の円滑化には多少なりとも寄与するものの問題の解決には程遠く、抜本的な解決策が必要とされた。
こうした状況下で、将来的な京阪線の架線電圧の1500Vへの昇圧方針が1969年(昭和44年)4月に決定され、高架複々線区間の寝屋川信号場までの延伸工事も1971年(昭和46年)11月28日に着工された。だが、前者は8両編成化を可能とし、車両出力のアップによる速度向上を期待できたものの、その反面在籍全車の昇圧改造ないしは1500V対応の新造車による代替、それに変電施設などの改修を要し、巨額の費用と10年以上の準備期間[3]が必要であった。また、後者についても沿線の宅地化進展で工事用地の確保・買収が困難化しており、こちらも工事完了までに少なくとも7年[4]を要し、むしろ工事に伴う諸作業が営業運転に及ぼす影響が問題となるような状況にあった。つまり、いずれの対策も効果を発揮するようになるまでには10年前後の時間的な猶予を必要としたが、ゆえに、当時京阪が直面していた危機的状況の即効薬には成り得ない状況にあった。
かくして、ダイヤ乱れの原因になりやすい普通列車の乗降時間を短縮し、かつ7両編成という限られた編成両数の中でさらなる輸送力の確保を可能とすべく、全車が5扉を備える本系列が開発・新造された。
ただし、本系列は主として当時建設中の複々線区間完成までのショートリリーフとして、最混雑時間帯[5]に運行される遅延の多い普通列車の救済を主目的とし、また各部に特殊構造を採用したため通常の車両と比して製造コストが大きかったことから、その製造数は運用上必要最小限の数に留められた。
車体
上述の通り、各車の片側面に5つの両開き扉を備え、車内にロングシートを設置する多扉通勤車である。
構体には、機構の複雑化や乗車定員の増大に伴う自重過大を抑止すべく、京阪の車両としては初となるアルミ合金が採用された。当時、アルミ合金製軽量車体は国鉄301系電車などごく限られた車両に採用され始めたばかりで、イニシャルコストが非常に大きかったとされる。だが、その採用による自重軽減の効果は絶大であり、5扉特殊構造車体でありながら、在来車と比較して1両あたり約3 - 4t程度の軽量化を実現している。
車体断面形状は、2000系以降の2000番台通勤車群が普通鋼を用いて軽量化を実現するために準張殻構造を採用し、卵形に近い断面としていたのに対し、アルミ押し出し型材を組み合わせて断面を構成する本系列では極力単純な形状とすることが求められた。このため、絞りのない側板に切妻に近い前面を組み合わせた比較的角張った印象の外観となっている。
窓配置は、運転台付きの車両がdD1D'1D1D'1D、中間車が1D1D'1D1D'1D(d:乗務員扉、D:客用扉、D':ラッシュ時用客用扉)となっている。客用扉はいずれも在来車より100mm狭い1,200mm幅の両開扉で、戸袋窓は省略されており、側窓は2段上昇式である。なお、中間車は前後で非対称の側窓配置であるが、全車とも客用窓が端に設けられた一端が京都寄りとなるように連結されている[6]。
内装の無塗装化が進められたが、車体外部については従来通り緑の濃淡で上下に塗り分けた一般車塗装が踏襲されている。
前面は、当初の2編成分が4両編成と3両編成を組み合わせていたこともあって、中央に貫通扉を備えるシンプルな3枚窓構成[7]とされ、アクセントを付けるために屋根板の一部を前面に突き出してひさし状の造形としている。また、前照灯は2400系で初めて採用された小型のシールドビームが左右の窓上に各1灯ずつ取り付けられている。
この5000系には、東日本旅客鉄道(JR東日本)が山手線や横浜線に投入したサハ204形(6扉)以降、京浜東北線用サハ208形(6扉、既に廃車)、中央・総武緩行線・山手線[8]用サハE230形(6扉)、あるいは東京地下鉄(就役開始時は営団地下鉄)03系第09 - 28編成[9](5扉)、東武20050系[9](5扉)、京王6000系6020番台(5扉、既に廃車)、東急5000系サハ5400形・サハ5500形・サハ5800形(いずれも一部)[10](6扉車)、といった他の多扉車にない大きな特徴がある。それは、「編成すべての車両が多扉車」であること[11]に加えて、平日朝ラッシュ時以外は着席定員確保のために側面2・4枚目の扉を締切扱いとし、扉上部に収納している座席を出して他の車両と同等以上の着席サービスを確保する機能(座席昇降機構)が備わっている点である。扉の締切扱いは後に登場した多扉車でも採用例があるが、座席昇降機構を搭載し、閑散時間帯の着席機会増大を図った[12]のは日本ではこの京阪5000系のみである。このため、本系列の側面2・4枚目の客用扉には「ラッシュ用ドア」の表示があり、1・3・5枚目の扉では淡いグリーン(塗装変更編成は濃いグリーン)に塗装されている部分が2・4枚目扉では識別のために素材である金属[13]むき出しで塗装されておらず、一目で判別可能となっている。この座席昇降機構の構造については京阪とメーカーの川崎重工業の両社が特許権を取得した[14]が、収納状態で営業運転中に座席が降下すると大変な事故となる恐れがあったため、その動作は停車中、しかも側扉が閉鎖され[15]、かつ両端の運転台から同時に昇降指令を行って初めて機能するよう設計されており、さらにその動作中には警告用ブザーが鳴動する。この装置は前代未聞の機構であったため、本系列の製造開始前に川崎重工業で実物大の試作モデルを製造、約3か月にわたって1万回にも及ぶ厳しい耐久試験を実施し、安全性を確認した上で採用に踏み切っている。なお、この座席の昇降は出庫前に車庫内や折返線で行われるのが原則であるが、ラッシュ前後に終着駅で折り返しを行う運用では、車内を一旦締切扱いとして行うことがある。
本系列は、その使用目的やそもそも開閉可能な側窓が少ないという構造上の制約もあって、新造当初より冷房装置を搭載している。その構成は冷凍能力8,000kcal/hの分散式ユニットクーラー5基[16]を屋根上に搭載し、ラインデリアにより冷風を客室に送ることを基本としている。さらに、これに加えて冷房の効果を高めるため独自開発の回転グリルを扉付近の天井に設置しており、この構成は冷房改造された在来車や新造車[17]にも採用されたため、1970年代から1980年代前半にかけての京阪通勤車の標準仕様となった。
主要機器
当初より昇圧を前提として設計され、また京阪としては初採用となる全電気指令式ブレーキを採用されるなど、重要な技術革新が盛り込まれている。このため、本系列は1983年(昭和58年)の京阪線架線電圧昇圧時にはほとんど改造なしに昇圧が実施されている。
制御器
1基の制御器で1両分4基の主電動機を制御する1C4M構成の電動カム軸式抵抗制御器である、東洋電機製造ACDF-H4155-585A・B[18]を各電動車に搭載する。制御器の型番が2種に分かれるのは昇圧対策のためであり、600V時にはこれらは同じ動作を行うが、1500V時には高圧車(ACDF-H4155-585A搭載)と低圧車(ACDF-H4155-585B搭載)の2両でペアを組み、直列接続[19]を行って各制御器を同期させる親子方式[20]として動作する。制御段数は直並列各17段、弱め界磁9段、発電制動34段である。
主電動機
昇圧を前提として、端子電圧375V時定格出力155kW[21]の直流直巻整流子電動機である東洋電機製造TDK-8120A・A1[22]が新規に設計された。これは新開発の高分子耐熱材料を採用することで端子電圧375V対応となり、また2400系以前のTDK-817系と比較して1基あたり約85kgの軽量化が図られている。基本特性は端子電圧375V、定格電流465A、出力155kW、定格回転数1730rpmである。
駆動装置は中空軸平行カルダン駆動で、歯数比は第1次車は84:15 (5.60) であったが、以後は高速性能の改善を図って84:16 (5.25) に変更された。
集電装置
冷房装置を搭載し、屋根上スペースが充分でなく、また各電動車が1C4M制御方式であるため、2400系第2次車と同様各電動車に1基ずつばね上昇空気圧下降方式の下枠交差式パンタグラフである東洋電機製造PT-4805Aを搭載する。
台車
2400系に準じ、第1 - 3次車は制御電動車・電動車は1自由度系軸箱梁式空気ばね台車である汽車会社・川崎重工業[23]KS-76Aを、制御車と付随車は側梁緩衝ゴム式空気ばね台車である住友金属工業FS-337Eをそれぞれ装着した。これに対し、第4次車の第6・7編成は電動車に乾式円筒案内式空気ばね台車である川崎重工業KW-31へ変更し、制御車と付随車についてもFS-337系の改良型である住友金属工業FS-399Aをそれぞれ装着するように変更されている。
ブレーキ
京阪では初採用となる全電気指令式電磁直通ブレーキの日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)HRD-1が空制系として搭載された。
この新しいブレーキシステムには、従来のHSC系電磁直通ブレーキと比較して空気配管が各車へ空気圧を供給する元空気溜管 (MRP) のみで済むという保守上重要なメリットが存在する。このため、以後在来車と混用される2600系以外の各系列に採用されている。
グループ分類
竣工当初は、製造年次によって各編成で微妙な差異があった。
1次車
3両編成と4両編成に分割して運転可能な編成として竣工。上述のようにラッシュ時対策として設計されたにもかかわらず、客室面積が減少する運転台をあえて編成中間に設置し編成分割可能とされた背景には、全電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD-1) を京阪の車両で初めて採用するにあたって、編成中間の運転台を故障時の予備として確保する意味合いがあったとされる。当時車両部長だった宮下稔は鉄道雑誌に寄稿した文章で「運用率を高めるため」に2ユニットに分割可能な編成としたと記している[24]。
このため、編成連結順序が入れ替わる可能性もあったことから各運転台付き車両の前面には、成田式リコ型貫通幌が装着されている。同年に製造された2400系第2次車と同じシールドビーム形前照灯・尾灯・標識灯、集電装置・台車を採用している。 テンプレート:-
2次車
- 1971年10月竣工・10月21日運行開始 5002-5202-5602+5552-5152-5252-5652(第2編成)
- 1971年10月竣工・11月1日運用開始 5553-5153-5253-5853-5103-5203-5603(第3編成)
- 1971年11月竣工・11月17日運用開始 5554-5154-5254-5854-5104-5204-5604(第4編成)
尾灯と標識灯を3000系と同じデザインに変更、台車は1次車と同じ。高速性能を向上するために主電動機の歯数比を変更 (5.60→5.25)。編成は第2編成のみ第1編成と同じく分割可能な3両編成+4両編成とされ、以降は7両固定編成に変更された。このため、第3編成以降は深草車庫への入・出庫が不可能[25]となり、同車庫の淀車庫への移転までは守口・寝屋川両車庫入・出庫の列車に限定運用された。また、地上駅時代の三条駅においては2番線ホーム停車時に構内踏切[26]と一部の客用扉が干渉した[27]ことから停車位置を他と変えることが求められるなど、特殊な扉配置故に特別な取り扱い[28]を要した。なお、7両固定編成については前面の貫通幌が当初より省略されている。
3次車
前面貫通扉に京阪の車両で初の前面方向幕と種別表示幕を装備。側面にも方向幕設置。なお、側面の種別表示幕は第1編成から採用している。客用扉をアルミハニカムからステンレス製に変更し、窓の形状が若干変わる。また、単独扉の再開閉装置を設置した。 テンプレート:-
4次車
- 1980年2月7日竣工・3月5日運用開始 5556-5156-5256-5856-5106-5206-5606(第6編成)
- 1980年2月26日竣工・3月5日運用開始 5557-5157-5257-5857-5107-5207-5607(第7編成)
台車は制御車と付随車を住友金属工業FS-399A(1000系とほぼ同じ)、電動車を川崎重工業KW-31に変更。RPU-2206Hによるヒートポンプ暖房を半導体ヒーターとする。第7編成のみ試験的にマイコンによる冷暖房制御を導入した。
事故廃車の代替新造
- 1980年12月28日竣工 5554(2代目)
1980年2月20日に枚方市 - 御殿山間にて発生した中学生の置き石による京阪電気鉄道置石脱線事故のため、第4編成の5554号車が大破し廃車されたことに伴う代替車両である。空調など当時最新の4次車に準じた仕様とされたが、連結編成の仕様に合わせ、前面の方向幕・種別表示幕は設置されなかった。
事故当時、同年3月の寝屋川信号場までの複々線化完成を控えて京阪の車両運用には余裕がなく、しかもラッシュ時の切り札である本系列1編成が使用不能になったことで運用上大きな問題が発生した。当時、本系列は7編成中6編成が朝ラッシュ時の最混雑列車を中心に運用され、残る1編成は検査予備となっていた。このため、この事故後は1編成が検査に入ると2600系などの3扉車各系列による7両編成で代走を行わざるを得ず、朝ラッシュ時の列車運行に悪影響を及ぼした[29]。
第1・2編成は分割可能な構造で製造されながらほとんど分割されることはなかったが、上述の置き石脱線事故の影響で車両運用の変更を行った際には、事故後も健在であった5854-5104-5204-5604の4両を有効活用すべく第2編成の編成分割が実施され、5002-5202-5602が上述の4両と連結されて5002-5202-5602+5854-5104-5204-5604の7両編成を組成、残る5552-5152-5252-5652が本線普通や宇治線で運用された[30]。脱線の被害が京都寄りの3両に留まり、歯数比が第4編成と同じで混用可能な第2編成が4両+3両に編成分割可能であったことは不幸中の幸いであった。もっとも、分割されて支線区運用へ充当された5552-5152-5252-5652についてはブレーキシステムの相違から限定運用とせざるを得ず、運用上様々な制約が生じた。
更新工事の施工
1998年(平成10年)4月4日に最初の更新車である第3編成が竣工し、2001年(平成13年)3月28日の第6編成の竣工で更新工事が完了する予定であったが、転落防止幌の取り付け工事が追加されたため、2002年(平成14年)3月20日竣工の第3編成をもって完了した。この工事では7200系や9000系に準じた内装への変更、車内案内表示器の搭載など、大掛かりな改修となった。
制御装置は2両の電動車を高圧車と低圧車とし、それぞれに搭載された制御装置を直列につないで同期動作させる親子方式の抵抗制御を改め、5100形に集約搭載されたACRF-H8155-790D界磁添加励磁制御器で2両分8基の主電動機を一括制御する方式(1C8M方式)に変更され、これにより電力回生ブレーキの使用が可能となった。
空気ブレーキについても、発電ブレーキ併用電気指令式電磁直通ブレーキ (HRD-1D) から回生ブレーキ優先電気指令式電磁直通ブレーキ (HRDA-1) へと改修され、遅れ込め制御により空制系の使用率を引き下げている。
また、分割可能だった第1・2編成は編成組み替えを実施し、制御電動車である5000形5001・5002を中間電動車に改造(妻面窓にその痕跡が伺える)し、5101・5102として5100形に編入、5600形5651・5652を付随車に改造し、5800形5853 - 5857を機器移設の上でその続番に改番、統合の上で新たに5650形5651 - 5657とした。こうして全編成が5500形5550番台(制御車:Tc) - 5100形5150番台(中間電動車:M1) - 5200形5250番台(中間電動車:M2) - 5650形(付随車) + 5100形(中間電動車:M1) - 5200形(中間電動車:M2) - 5600形(制御車)に統一の上で7両固定編成化された。これにより5000形が形式消滅した。
2006年(平成18年)3月頃より座席・車内案内表示器が7000系と7200系の第1・2編成や9000系の一部と同様のものに変更されている[31]。
2008年(平成20年)より方向幕の交換が行われ、「深夜急行」「通勤準急」「中之島」「京橋」などが追加された。
新塗装化は2008年11月13日に5557Fから始まり2009年3月末に5556Fが、2010年には5553F・5554F、2011年3月31日5552F・同年8月8日5551F・同年11月30日5555Fをもって5000系は全車新塗装に塗り替えられた[32]。ただし、前述の通りラッシュ用ドアの上部分は従来通り無塗装である。本系列を含む京阪線車両は2013年5月までに新塗装への変更を完了した[33]。
一部編成に、6000系・7000系新塗装車と同様の座席モケットデザインに変更されたものがある。
その他
前面の方向幕・種別表示幕は、竣工時未設置の第1 - 4編成にも1989年(平成元年)に追加設置されている。ただし、第1・2編成の中間に組み込まれた5551・5552・5601・5602の4両については営業運転で編成分割が行われる機会が皆無となっていたことから、前面方向幕・種別表示幕の設置は実施されなかったが、更新工事の際に2次車以降の編成と合わせて従来中間に組み込まれていたこれらが先頭車両となり、先頭であった5001・5002・5651・5652が中間車化されたため、この時他の車両より遅れて取り付けられた。
運用
新造当初は、後発の優等列車に追撃されて遅延がそれらに大きな影響を及ぼす区間急行を中心とする最混雑列車へ充当され、多扉化による乗降経路増加とそれに伴う停車時分の短縮、つまり遅延の抑制に絶大な効果[34]を発揮した。
これにより、京橋駅に午前7時30分から8時30分の間に到着する下り普通・区間急行に必要となる編成が順次投入された。
京阪線の架線電圧1,500V昇圧により8両編成の運行が可能となった現在も、平日朝ラッシュ時の直通普通や7両編成による急行・準急などに集中投入されて5扉機能を使用している。そのため、駅の時刻表でも平日朝方に限り本系列使用列車を特定できる。これは淀屋橋駅の2番線と伏見桃山 - 東福寺間の一部駅においてプラットホームが7両限界であり、8両化対応延長工事も伏見桃山と東福寺の両駅ではホーム前後を踏切に挟まれていて困難なこと[35]に原因がある。但し、土曜・休日にも本系列独自の運用は存在しているものの、5扉機能は使用していない上、駅掲示の時刻表でもすべて3扉車表示でまとめられており、かつその旨も記載されていないことから、他の7両編成車両と乗車位置が若干異なるにもかかわらず[36]、何時何分発の列車が本系列なのかを特定することもできない[37]。
その他
- 鉄道友の会のブルーリボン賞・ローレル賞では、第1編成製造翌年の1971年ではなく翌々年の1972年の選考対象とされ、ローレル賞では営団(現・東京メトロ)6000系の次点となって賞を逸した(当時はローレル賞は投票制)[38]。本系列が営業運転を開始した時期について、京阪の社史『京阪70年のあゆみ』(1980年)の年表では「1970年12月26日に営業運転を開始」と記載されている一方、当時の京阪の運輸部運転課長が鉄道誌『鉄道ピクトリアル』1971年12月号に寄稿した文章[39]では「本年の2月にデビューしてから」と記している。鉄道友の会は営業運転開始を1971年とみなしたとみられる。
- 京阪が刊行した書籍(『京阪電車・車両70年』など)やパンフレットでは三つ五郎という愛称が記載されているものがある。しかし、一般にはこの愛称を見聞することはほとんどない。
- また2010年12月26日に本系列が運転開始40周年を迎えることから、それを記念して「発車メロディでお目覚め♪走る!アラームクロック」第2弾を12月18日から限定発売するほか[40]、12月1日から30日までの期間限定で在籍する7本すべてに40周年記念ヘッドマークが掲出された[41]。
参考文献
- 『鉄道ピクトリアル No.281 1973年7月臨時増刊号 〈京阪電気鉄道特集〉』、電気車研究会、1973年
- 『鉄道ピクトリアル No.382 1980年11月号 〈京阪電車開業70周年特集〉」、電気車研究会、1980年
- 『鉄道ピクトリアル No.427 1984年1月臨時増刊号 〈特集〉京阪電気鉄道』、電気車研究会、1984年
- 藤井信夫 編『車両発達史シリーズ 1 京阪電気鉄道』、関西鉄道研究会、1991年
- 『鉄道ピクトリアル No.553 1991年12月臨時増刊号 〈特集〉京阪電気鉄道』、電気車研究会、1991年
- 川崎重工業株式会社 車両事業本部 編 『蒸気機関車から超高速車両まで 写真で見る兵庫工場90年の鉄道車両製造史』、交友社(翻刻)、1996年
- 『鉄道ピクトリアル No.695 2000年12月臨時増刊号 〈特集〉京阪電気鉄道』、電気車研究会、2000年
- 『鉄道ピクトリアル No.822 2009年8月臨時増刊号 〈特集〉京阪電気鉄道』、電気車研究会、2009年
脚注
テンプレート:Sister テンプレート:京阪電気鉄道の車両
- ↑ 片町で大阪市電、伏見稲荷・七条・四条で京都市電と平面交差していた。これらはいずれも架線電圧600Vであり、京阪側がそのままの状態で1500V昇圧を実施する場合、交差部分の絶縁対策を非常に大掛かりなものとする必要があり、現実的ではなかった。
- ↑ 1970年11月1日に天満橋 - 旧蒲生信号所間複々線化工事(1968年2月21日着工。旧蒲生信号所 - 野江間高架化工事を含む)が完成する直前の段階では混雑率200%というワースト記録も残されている。この混雑率は京阪間ノンストップで、しかも2扉クロスシート車で運行されていた特急を含めた値であり、急行以下の各列車に限れば実質的な混雑率はこれを大きく上回り、乗客は超満員の車内で苦痛に耐えることを強いられていた。なお、本系列第1陣の竣工は同年12月である。
- ↑ 京都市内の市電との平面交差を解消する必要もあったことから、七条以北の京阪線の地下化が完成するとされた1981年以降の計画実施を予定した。ただし、実際には京都市内の地下化は京都市側の都市計画の関係もあって大きくずれ込み、1975年に計画決定、1979年起工、そして1987年5月完成、と当初予定の6年遅れでの完成となった。もっとも、逆に市電が1978年に全線廃止となったことで問題が自然解消したため、京都市内は地上線のまま1983年に昇圧工事が実施されている。
- ↑ 当初計画では1978年の完成を予定していたが、1980年3月16日にようやく複々線化が先行して完成しており、実際には9年を要した。この複々線化の完成によって最大で199%にまで再上昇していた京阪線のピーク時の最大混雑率を一気に186%まで引き下げることが実現しており、複々線化の効果は著しく大きなものであった。
- ↑ 京橋到着時刻が7:30から8:30にかけての1時間。
- ↑ そのため、駅の乗車位置と、ドアの位置とが合わない。
- ↑ 2400系までは開閉可能なサッシ窓としていた車掌側を、はめ殺しの1枚窓としている。
- ↑ 山手線用はホームドア設置に伴う4扉車への統一に伴い、全車両が廃車された。
- ↑ 9.0 9.1 編成両端の各2両、つまり03系では03 100・200・700・800、20050系ではクハ21850・モハ22850・モハ27850・クハ28850の各4形式を5扉車として製造。座席昇降機能は備わっていないが偶数扉締切機能は備える。
- ↑ 田園都市線用5000系5104F - 5117F・5120Fの15本が6ドア車3両連結となっている。
- ↑ ただし京王6000系6020番台も編成すべての車両が多扉車であった。
- ↑ これにより偶数扉締切・座席降下時の着席定員は通常の3扉車と比較して6名増加することになった。
- ↑ 第1・2次車はアルミ材のハニカム構造を採用しており、表面はアルマイト加工されているが、第3・4次車ではステンレス製に変更されており、同じ金属むき出しながら質感に違いがある。
- ↑ 特許の有効期間は10年(西村公夫・今城光英「京阪電鉄の鉄道事業を語る」、『鉄道ピクトリアル'91・12月増刊号〈特集〉京阪電気鉄道』、電気車研究会、1991年、p86での西村の発言による)で終了しており、現在では他社でも導入可能であるが、構造が複雑でイニシャルコストが高価であることから、その後の採用例は無い。
- ↑ 逆に偶数扉は座席が正しく収納されていないと開かないように機械的なロック機構を備える。
- ↑ 2400系では冷凍能力4,500kcal/hの東芝RPU-1509を8基搭載したが、本系列ではより大容量の東芝RPU-2207A・2206Hを混用し、冷房機の数を減らしつつ1割以上強化している。2種の混用は、座席下にヒーターを搭載できない昇降座席周辺のために偶数番目の冷房装置を冷暖房兼用でヒートポンプ式のRPU-2206Hとしたことによる。それゆえ、座席に半導体ヒーターを内蔵するように変更された第6・7編成では全車の冷房装置がRPU-2207Aに統一されている。なお、本系列の冷房能力は多扉車ゆえに開閉時の損失が大きいこともあり、京阪の車両としては歴代最強であり続けている。
- ↑ 初代3000系(特急用)と6000系以降で採用された新冷房方式の試験車となった2600系2621・2622Fは除く。
- ↑ Aは5000(制御電動車)・5100形(中間電動車)に、Bは5200形(中間電動車)にそれぞれ搭載。
- ↑ つまり各車の機器にはそれぞれ750Vが印加される(ただし機器の耐圧は1500V仕様)。こうすることで600V時と1,500V時で極力主回路構成を変更せずに対処可能なよう工夫されている。
- ↑ 高低圧ユニット方式とも呼ぶ。
- ↑ 端子電圧300V時の定格出力は130kW。
- ↑ 第1・2次車はTDK-8120A、第3・4次車は改良型であるTDK-8120A1を装架する。
- ↑ 第3次車については1972年に実施された汽車会社の川崎重工業への吸収合併により、汽車会社時代と同一設計のまま川崎重工業で製造。
- ↑ 宮下稔「京阪電鉄5扉車について」『鉄道ピクトリアル』1971年3月号(No.248)、『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション25 京阪電気鉄道1960~70』(2013年)、pp.60 - 66に再録。
- ↑ 同車庫は用地の関係で留置線の有効長が短く、6両固定編成以上の入庫が不可能であった。
- ↑ 3番線乗降客の便を図るためにほぼ中央に設置。
- ↑ 第1・2編成は通常はこの部分が運転台となるため影響を受けなかった。
- ↑ この場合も客用扉が踏切の階段ぎりぎりとなるため、監視を行う駅員が配置されて乗客の安全を確保していた。なお、同駅の地下化工事の最終時期には停車位置は車止めぎりぎりとなっており、こちらについても駅員が配置され、乗務員に停車位置の指示を行った。
- ↑ 現行ダイヤでは朝ラッシュ時に7本とも運用されており、予備編成が設定されていない。このため、検査などでの代走は3扉一般車7連にて行われる。
- ↑ 当時設定されていた宇治線直通急行運用を含む。なお支線に5000系が入線したのは2009年に至るまでこの時だけである。
- ↑ 10000系と同じく3色フリーパターン式であるが、同系と若干異なるデザインである。
- ↑ 出典・『関西の鉄道』№60 102頁「京阪だより」
- ↑ Kプレス2013年6月号(vol.171) - 「くらしの中の京阪6月号 vol.448」内「京阪線車両のカラーデザイン変更が完了しました」を参照。
- ↑ 京阪電気鉄道ではラッシュ時の1駅当たりの乗降時分は約60秒として査定されているが、本系列ではこれが約40秒となり、特に超過密ダイヤで運行される朝ラッシュ時のダイヤ編成に大きな余裕をもたらした。言い換えれば、本系列の限定運用を必要とする列車に3扉の一般車を充当した場合、遅延の発生は事実上不可避である。
- ↑ 深草駅は8両の回送電車が待避することがあるが、橋上駅舎の位置の関係からホームの長さが7両分しかないため客扱いができない。
- ↑ 3扉車7両編成は乗務員室扉とそれに最も近い客用扉との間に座席のある車両がほとんどであるが、5扉の本系列だけにはそれがない。
- ↑ 理由は駅掲示の時刻表における扉数表示以外にも、特に詳細型自動放送を導入している駅での案内放送では乗車位置を案内する際、5扉運用時は「この電車は5扉車です」の言い回しとなるため特定は容易だが、逆に3扉運用時は他の3扉車7両編成と共通で「黄色または緑の乗車位置、丸印の○番から○番でお待ちください」の言い回しとなるため、その列車が本系列なのか一般車7両編成なのかを特定することもできない。
- ↑ 鉄道友の会編『新形車両20年のあゆみ』(交友社、1979年)P185。同書によると、得票は営団6000系の426票に対し、5000系は283票(投票総数1226票)だった。
- ↑ 小野芳典「京阪電鉄通勤用5扉車の実態」。2013年刊行の『鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション25 京阪電気鉄道1960~70』pp.67 - 68に再録。
- ↑ テンプレート:PDFlink 2010年11月25日 京阪電気鉄道 報道発表資料
- ↑ ヘッドマーク掲出の件は京阪の公式発表のほか、駅置きの沿線情報誌『K PRESS』2010年12月号16面の広報コーナー『くらしのなかの京阪』(Vol.418)紙面でも発表。