汽車製造

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製番11。日本国有鉄道233号

汽車製造(きしゃせいぞう)とは、1896年明治29年)から1972年昭和47年)まで存在した鉄道車両メーカーである。正式名称は汽車製造合資会社(1896年)→汽車製造株式会社1912年会社組織変更により改称)で、汽車会社汽車製造会社などとも呼ばれた。川崎重工業に吸収合併された。

黎明期

日本の鉄道行政の黎明期を牽引した井上勝が、1893年(明治26年)3月に設立した、日本初の民間機関車メーカーである。井上は、鉄道庁長官を辞して下野したが、それを機に長州藩の先輩である井上馨や、黒田長成前田利嗣毛利五郎らの旧諸侯、岩崎久弥住友吉左衛門渋沢栄一安田善次郎らの実業界の有力者らに出資を仰ぎ、1899年(明治32年)7月、大阪市島屋新田に開業した。

当時の日本では民間で機関車を製造したメーカーはなかったが、客車等を製造するメーカーとしては平岡工場三田製作所東京石川島造船所、天野工場が4大メーカーで、その他にも中小メーカーが意外に多く存在した。技術と実績は平岡工場が一番であり、井上はそこから経営と製作に実績のある平岡煕を副社長として迎え、自らは社長の座に就いた。技師長としては、トレビシック級の外国人を招聘する予定であったが得られず、日本鉄道大宮工場の長谷川正五が引き抜かれた。

機関車の製造は、鉄道作業局新橋工場からA8形タンク機関車の図面を借りることから始まった。これをして、海外製品のノックダウンメーカーとしての発足とする見解もあるが、海外から一部の部品を輸入したといっても、特段の契約があるわけでなく、そう断定するのは無理がある。どんなメーカーでも、最初は師匠の模倣から始まり、次第に独自色を出していくのが常道である。

鉄道作業局のA8形を模倣した製造番号1と2は、1900年(明治33年)7月、同時に着工された。注水器や注油器などの小物部品、動輪などがイギリスから輸入されたが、製造メーカーは明らかでない。大手のダブスではなく、中小メーカーのナスミス・ウィルソンあたりではないかと推定されている。これらは、納入先が決定しないまま着工されたが、製造途中で台湾総督府鉄道に納入されることになり、1901年(明治34年)9月18日、1号機の試運転が実施され、完成検査は鉄道作業局神戸工場の森彦三が務めた。ただし、これは日本における民間工場製機関車第1号ではない。民間第1号は、名古屋に設立された鉄道車両製造所製の車軸配置2-4-0(1B)形タンク機関車で、1900年に完成し、徳島鉄道に納入された。後の国有化により鉄道院180形となった機関車である。

しかし、この第1号機関車は、台湾への輸送途中に海難事故によって失われ、非常に幸先の良くないスタートとなってしまった。代機となったのは、その保険金で製造したといわれる製造番号6で、こちらは1903年(明治36年)に大阪で開催された第5回内国勧業博覧会に展示後、台湾に送られた。このA8形模倣の2-4-2(1B1)形タンク機は、A10形(後の230形)として鉄道作業局へも納入され、私鉄に納入されたものも含めて、1905年(明治38年)までに51両が製造された。

歴史

同年、製造番号1番が完成。台湾総督府鉄道部向けE30形という車軸配置2-4-2(1B1)形(先輪1軸+動輪2軸+従輪1軸の意味)タンク機関車であったが、輸送中の海難事故により水没している。
最終製造は3月27日に出場した国鉄DE10 1171(製造番号3572)。私鉄最後の製造車両は京成3300形電車3353 - 3356号であった[8]。なお、この間に製造された機関車は3,651両、電車は1,854両、客車は2,414両である。

※ 東京製作所で製造した車両は小名木川駅から総武本線越中島支線)をD51形牽引で発送されていた。

KS形台車

ファイル:Keihan 5000 Series EMU 006.JPG
KS76A形 エコノミカル台車
京阪5204

汽車製造は第二次世界大戦後、自社開発の台車について、KSで始まる形式を与えた。

これらはその最初期から他社に先駆けてオイルダンパとコイルばねを併用した枕ばね機構を導入し、また蛇行動抑止の手段としてボルスタアンカーをいち早く導入するなど、戦後の日本における高速電車用台車の研究開発では業界をリードする立場にあった。中でも高田隆雄技師(当時)の主導の下で研究開発された空気ばね台車は、新幹線を含む以後の日本の鉄道車両用台車設計に絶大な影響を及ぼした。

このKS形台車には、スイスのシンドラー社との技術提携によって導入された円筒案内式軸箱支持機構を備えるシンドラー式台車、独自の構想により開発された防振ゴムによる簡素な軸箱支持機構と単純な形状の側梁を備える軸箱梁式の1自由度系低コスト空気ばね台車であるエコノミカル・トラック(エコノミカル台車)など、特徴的かつ先進的な構造のものが多数含まれており、その大半は京阪電気鉄道京阪神急行電鉄をはじめとする私鉄各社に納入された。

また、日本初の実用空気ばね台車となったKS-50、左右の車輪を車軸で結合せず、それぞれ個別に回転可能とした自由回転車輪台車のKS-68、それに前代未聞の全アルミ製側梁を持つKS-75[9]など、京阪神急行電鉄時代から川崎重工業との合併まで重要な顧客であり続けた京阪電気鉄道の協力を得て、多くの試作台車を世に送り出したことでも知られている。

これらの汽車製造の独自設計に由来する台車群は、1972年(昭和47年)の川崎重工業との合併後も生産と開発が継続した。もっとも、新規開発は京阪3000系電車 (初代)用KS-132Aを最後に川崎重工業の台車開発の本流であるKWナンバーの台車に引き継がれてKSナンバーでの開発を終了、生産も1978年(昭和53年)3月竣工の京阪1000系最終編成用として納入されたエコノミカル・トラックのKS-77Aが最終形式となり、約四半世紀に渡ったKSナンバーを持つ台車の設計製作は終焉を迎えた。

なお、台車の開発で汽車製造にとって最大の競合相手であった住友金属工業でも、路面電車用のKS-40JをはじめKSを形式に冠した台車が存在した。こちらは住友家の歴代当主が襲名する名である住友吉左衛門のイニシャル(Kichizaemon Sumitomo)に由来する名称である。もっとも、1948年以降は当時の社名である扶桑金属工業からFSを形式の識別子として使用するようになっており[10]、直接に形式番号の重複が問題になるようなケースは発生していない。

脚注

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参考文献

  • 『汽車会社蒸気機関車製造史』(交友社、1972年)
  • 根本 茂「回想 汽車会社をめぐって」I - V (プレス・アイゼンバーン『レイル』No.34 - 38、1989年稿)
    I - No.34 1996年10月 ISBN 4-87112-184-4 p31 - 40
    II - No.35 1997年6月 ISBN 4-87112-185-2 p24 - 30
    III - No.36 1997年10月 ISBN 4-87112-186-0 p24 - 31
    IV - No.37 1998年7月 ISBN 4-87112-187-9 p40 - 52
    V - No.38 1999年5月 ISBN 4-87112-188-7 p81 - 88

関連項目

  1. 東京支店は雑誌記事では「汽車東支」、あるいは「汽車支店」という略称で書かれる事もあった。同様の例として日本車輌製造がかつて埼玉県に置いていた東京支店蕨工場を「日車支店」と表す事がある。
  2. 大正14年に陸軍や東京市電気局へ納入したウーズレー形貨物・乗用自動車のボデーを担当している
  3. 八九式中戦車やロードローラー製作の他、昭和9年にV型4気筒750cc4人乗り前輪駆動の筑波号の開発をした
  4. 実際の製造順では1993番となるところであるが、新型機関車の初号機である事からキリのよい2000番とし、次の2両を連番で振ってからその次を1993番として以降順番通りとしている。
  5. これまでは78系電車の実績が強かったため
  6. 新製冷房車の実績なし。
  7. 山陽新幹線岡山開業用ロット車からは川崎重工業も加わった。
  8. 京成と汽車製造の関係は川重に引き継がれたが、1979年 京成3500形電車 3576編成の製造をもって終了。
  9. 基本設計はエコノミカル・トラックのKS-73系に順じ、2200系に装着されて約1年に渡る長期実用試験が実施された後、疲労度解析のために細かく切り刻んで解体された。
  10. ただし、その後も既存のKSナンバーを持つ台車は形式番号を変更されることがなかった。