一色義貫

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一色 義貫(いっしき よしつら、応永7年(1400年) - 永享12年5月15日1440年6月14日))は、室町時代前期の守護大名丹後一色氏の当主。

一色満範の子。持範の弟、持信の兄。子に義直義遠(よしとお、義有土岐成頼の父)がいる。官位は兵部少輔左京大夫修理大夫

室町幕府第4代将軍足利義持より偏諱の授与を受け、初めは父の1字と合わせて一色義範(- よしのり)を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。

生涯

応永16年(1409年)、父・満範の死により家督を継ぐ。将軍・義持に仕え、侍所所司を務め、応永25年(1418年)、永享6年(1434年)には山城守護にも任じられ、三河若狭丹後、そして山城の4カ国(他に尾張海東郡知多郡分郡守護)を兼ねる有力守護大名となった。武功においても伊勢北畠満雅を討ち、応永34年(1427年)に出奔した赤松満祐の討伐においても活躍している。その功績により、四職の1人となって幕政に参与したが、6代将軍足利義教の代になると、供奉を放棄するなど次第に対立し、一時は幕政から遠ざけられた。

管領畠山満家らの仲介もあって、義貫は再び幕政に復帰している。永享12年(1440年)、関東で起こった結城合戦に際して、義教の命で大和越智氏を討伐のために出陣する(大和永享の乱)。しかし、永享の乱で幕府に対して挙兵した足利持氏の残党(一色時家等)を匿った罪を問われ、土岐持頼と共に義教から追討を受ける。武田信栄に腹背を攻められて敗北。同年5月15日、大和信貴山の竜門寺で一族と共に自害して果てた。享年41。法号は安養寺泰雲。

義貫は4ヶ国を兼ねる有力守護となり、そのために義教に警戒され、暗殺されたと言われる。また、一色氏内部でも家督をめぐり兄持範・甥(弟・持信の子)である教親との抗争があった。一色氏の遺領地は分配され、一色氏は没落する。

関連項目

テンプレート:丹後一色家