武田信栄

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武田 信栄(たけだ のぶひで)は、室町時代後期の武将守護大名室町幕府相伴衆若狭守護。若狭武田氏初代当主。安芸武田氏4代当主武田信繁の嫡男。弟に信賢国信元綱がいる。

生涯

応永20年(1413年)、武田信繁の嫡男として誕生。

永享4年(1432年)に父が6代将軍足利義教の九州出陣を命じられると同行して少弐満貞大友持直と交戦、やがて義教に気に入られて相伴衆となった。義教は有力守護大名の取り潰しを行い、信栄に丹後若狭守護一色義貫誅殺の密命を下した。これを受けた信栄は永享12年(1440年5月15日に義貫をおびき出して暗殺、功績により義教より若狭を与えられた。これが若狭武田氏の起源である。

同年6月に若狭に下向。若狭には三方郡遠敷郡(上中)に旧守護一色氏の守護代三方氏の勢力が残っていたため、信栄は隣接の遠敷郡の小浜(下中)ではなく、大飯郡の高浜に館を構えた。また、京都建仁寺に同族の九峰以成を招いて塔頭十如院を建立、以後若狭武田氏から住職を輩出した。

同年7月23日に急死。死因は病気とも、義貫の家臣から受けた傷が原因ともされている。法名は長福寺殿天遊光芸大居士。墓所は福井県大飯郡高浜町にある長福寺

子が無かったため弟の信賢が若狭を相続、同年に父から安芸分郡守護職も譲られた。

参考文献

テンプレート:若狭武田氏当主