結城合戦

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テンプレート:出典の明記 結城合戦(ゆうきかっせん)は、永享12年(1440年)に関東地方で起こった室町幕府結城氏ら関東の諸豪族との間の戦いである。

概要

永享7年(1435年)からの鎌倉公方足利持氏と補佐役の関東管領上杉憲実の対立から永享10年(1438年)に永享の乱が発生、持氏は敗れて自殺、鎌倉府は滅亡した。乱後に6代将軍足利義教が実子を鎌倉公方として下向させようとすると、永享12年(1440年)に持氏の残党や下総結城氏朝持朝父子などが永享の乱で自殺した持氏の遺児を擁立し、室町幕府に対して反乱を起こす。

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春王・安王の墓と辞世の句碑(岐阜県不破郡垂井町)

幕府方は総大将上杉清方今川範忠小笠原政康などの諸将や関東の国人などを討伐のために派遣して、永享12年7月29日、氏朝らの立てこもった結城城を包囲した。結城氏朝は敗北し討死、持氏の遺児の春王丸安王丸は義教の命を受けた長尾実景によって美濃で殺された。

戦火は鎌倉公方の支配下にあった奥州にも飛び火し、持氏の叔父でありながら永享の乱で幕府側に寝返った篠川公方足利満直が結城氏を支持する諸将に討たれ、翌年には京都において結城合戦の祝勝会の名目で招かれた将軍義教が家臣の赤松満祐暗殺された(嘉吉の乱)。文安3年(1446年)に関東諸将の要請で持氏の遺児成氏の鎌倉帰還が実現、鎌倉府が復活したが、成氏は後に上杉氏と対立、享徳の乱を起こした。

結城合戦は永享の乱の延長線上の出来事であるが、合戦の規模は永享の乱よりも大きい。結城合戦を描いた『結城合戦絵詞』も存在する。なお、読本南総里見八犬伝』は父親と一緒に結城側で戦った里見義実が、死を決意した父親と別れて落ち延びるところから始まる。

関連作品

小説
  • 南原幹雄『天下の旗に叛いて』 (結城氏朝・持朝)
漫画

関連項目