リカルド・パトレーゼ

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テンプレート:Infobox リカルド・ガブリエーレ・パトレーゼテンプレート:It1954年4月17日 - )は、イタリアパドヴァ出身のユダヤ系イタリア人の元レーシングドライバー。日本における通称は「鉄人」。当時日本でF1中継を実況していた古舘伊知郎からは、「史上最強のセカンド・ドライバー」・「二百戦練磨の男」等とも呼ばれた。

経歴

F1前

兄の影響から、8歳よりレース活動を始める。1974年には世界カート選手権でチャンピオンを獲得、1975年はフォーミュラ・イタリアで3勝を記録しランク2位となった。翌1976年には、イタリアF3・ヨーロッパF3で各4勝を挙げ、双方でチャンピオンに輝く。1977年はヨーロッパF2にステップアップし、最高位2位を記録。予選では2度のポールポジション(以下:PP)もマークした。

F1

シャドウ時代

1977年
F2参戦中の1977年、資金難によりシートを失ったレンツォ・ゾルツィの後任として、第6戦モナコGPよりシャドウからF1デビュー。当時まだ大学に籍があり、大学生F1ドライバーとして話題になった。この年は計9戦に参戦、最終戦日本GPで6位に入り、自身初入賞を記録している[1](ランキング19位)。

アロウズ時代

1978年
1978年より、癌により引退したグンナー・ニルソンの代役としてアロウズに移籍。この年は第8戦スウェーデンGPで2位となり、初の表彰台を獲得した他、4位1回・6位2回と計4度の入賞を記録した(ランキング11位)。しかし当時若かったパトレーゼの走りが、荒く危険と言われることが多かった背景もあり、第14戦イタリアGPでは、一時ロニー・ピーターソン死亡事故の原因を作ったとされ、大きな批判も浴びることとなった(後述)。
1979年
開幕戦アルゼンチンGPで、予選を通過しながら決勝を欠場しているが、最終的に17年間で予選落ちを1度も喫しなかったパトレーゼにとっては、F1で唯一の、エントリーしながら決勝を走行しなかったGPとなった。この年は第6戦ベルギーGPでの5位が唯一の入賞となる(ランキング19位)。
1980年
この年は第4戦アメリカ西GPで2位に入り2度目の表彰台を経験するが、入賞は他に6位1回のみと、シーズンを通しては苦戦を強いられた(ランキング9位)。しかし第6戦モナコGPで、初のファステストラップ(以下:FL)をマークしている。
1981年
開幕戦アメリカ西GPで、F1においては自身初となるPPを獲得、結果的にチームにとっては通算で唯一のPPをもたらすこととなった(決勝はリタイヤ)。第4戦サンマリノGP終了時点で2位1回・3位1回と好成績を残していたが、第5戦ベルギーGPでは自身のエンジンストールから、メカニックが負傷する事態を招き(後述)、その後は1度も入賞を記録出来なかった(ランキング11位)。しかし、この年までに時折見せた速さが評価され、翌1982年はブラバムに移籍することとなった。

第1期ブラバム時代

1982年
バーニー・エクレストンの支援を受けブラバムに移籍したパトレーゼは、前1981年のチャンピオンであるネルソン・ピケとパートナーを組むことになる。本来のマシンはBT50だったが、信頼性が悪くトラブルが多かった為、セカンドドライバーのパトレーゼは、シーズン前半は主に前年の改良型・BT49Dで参戦した。サバイバルレースとなった第6戦モナコGPではデビュー6年目で初優勝を達成。これを含め計3度表彰台にのぼっているが、全てBT49Dで参戦した際の成績である。
第9戦オランダGP以降は、パトレーゼも本格的にBT50で参戦したが、予選順位は上昇したものの多くのトラブルに見舞われ、結果はあまり残せなかった。第13戦オーストリアGPでは、序盤からトップ走行を走行するも、エンジントラブルにより噴出した自車のオイルに乗って激しくコースアウトし、リタイヤとなった。結局BT50での入賞は、第14戦スイスGPでの5位のみとなった。ランキングはピケを上回る10位となった。
1983年
翌1983年は第4戦サンマリノGPにおいて、最終ラップまでトップを守るも、優勝直前でクラッシュし13位に終わった。以後も不調が続き、第10戦ドイツGPで3位表彰台を獲得するまで、ノーポイントであった。その後第13戦イタリアGPで自身2度目のPPを獲得するが、決勝は電機系トラブルで早々とリタイアしている。
しかし最終戦の南アフリカGPにおいては、ピケが軽い燃料でスタートし[2]序盤から飛ばす一方で、燃料を多く積むパトレーゼは2位を死守。重いマシンで他ドライバーを抑え込み、逆転チャンピオンのかかるピケを援護した。その後、ピケとチャンピオンを争っていたアラン・プロストルネ・アルヌーが共にリタイヤ、パトレーゼは安全策を取るピケに譲られる形で、自身2勝目を記録した(この年ランキング9位)。


アルファ・ロメオ時代

ファイル:Patrese, Alfa Romeo 02.08.1985.jpg
アルファ・ロメオ時代のパトレーゼ。
1984年
1984年アルファ・ロメオに移籍するが、成績が低迷し表彰台は第14戦イタリアGPの3位1回、これを含めて3度のみの入賞となり、ランキングは13位。中盤には7連続リタイヤも喫した。
1985年
1985年は16戦中完走4回、最高位も9位に留まる。自身のF1キャリアで初(結果的には17年間で唯一)のノーポイントに終わる。

第2期ブラバム時代

1986年
1986年にはブラバムに復帰する。この年のマシン「BT55」は、安定性を高めるべく、車高を極限まで低くした形状をしており、ゴードン・マレーの渾身作だった。しかし特殊な設計のマシンは扱いにくい上にトラブルが続出。パトレーゼは、6位入賞が2度のみという成績でランキング15位に終わった。また、チームメイトだった同胞のエリオ・デ・アンジェリスが、テスト中に事故死する悲劇にも見舞われる。
1987年
1987年は前年の失敗から、チームはセルジオ・リンランドの手によりオーソドックスなマシン「BT56」に手直ししたが引き続き苦戦を強いられ、パトレーゼの入賞は前年同様2回に留まった。しかし、第14戦メキシコGPでは3位となり、3年ぶりに表彰台に上がっている(他の入賞は5位1回でランキング13位)。
アルファロメオ時代と第2期ブラバム時代は共にチーム力低下のタイミングと重なっており、結果的に不遇の時期となった。

ウィリアムズ時代

1987年
1987年第15戦日本GPにて、ウィリアムズナイジェル・マンセルが予選中にクラッシュ、この事故で背骨を痛め日本GPおよび最終戦オーストラリアGPの出場が不可能となった。最終戦はすでに翌1988年からのウィリアムズ移籍が決まっていたパトレーゼが代役として参戦し、終盤でリタイアするも、9位で完走扱いになっている。また彼にとって、ホンダエンジンを搭載したマシンで参戦した唯一のF1レースだった。その決定が急なことだったのか、ヘルメットはブラバムの物を流用したままであった。
1988年
1988年にウィリアムズから本格参戦し、マンセルとコンビを組むこととなる。しかしこの年チームは、前年チャンピオンをもたらしたホンダのターボエンジンを失い、ジャッドのNAエンジンでの参戦となった。非力なうえ信頼性も低いエンジンに手こずり、16戦中半数の8戦でリタイヤした。しかし終盤には連続入賞を記録し、表彰台に立つことは無かったものの、8ポイントを獲得した(ランキング11位)。
1989年
1989年は、チームがエンジンをルノーに変更し戦闘力も向上。開幕戦ブラジルGPで6年ぶりのフロントローを獲得し、決勝ではスタートからトップを走行。その後マンセル、プロストに抜かれ、最終的にはオルタネータのトラブルでリタイヤしたが、FLをマークしている。その後、第4戦メキシコGPからの3連続で2位を獲得、第7戦フランスGPでも3位に入り4連続表彰台を記録した。また第10戦ハンガリーGPでは、1983年第13戦イタリアGP以来となるPPを獲得し、決勝でもトラブルでリタイヤするまでトップを守り続けた。
この年勝利を挙げることはなかったが、6度の表彰台(2位4回、3位2回)を含め9度の入賞を記録し、ランキングでマクラーレン勢に次ぐ3位となった。
1990年
1990年は、第3戦サンマリノGPにおいて、予選3位から7年ぶり99戦ぶりの優勝を飾った。優勝と優勝の間がこれ程開いた例は他にない。この年のマシンは、信頼性はあったが速さに若干欠けており、表彰台はサンマリノGPのみとなり(チームメイトのティエリー・ブーツェンは2回)、計8度の入賞もランキングは7位に留まった。しかしFLをこの年の最多となる4度獲得し、予選でも2度フロントローに並んだ。
1991年
ファイル:Patrese monaco91.jpg
ウィリアムズ・FW14を駆るパトレーゼ(1991年モナコGP)
1991年は、マンセルがチームに返り咲き、3年ぶりにコンビを組むこととなった。この年はパトレーゼが最も輝いたといわれ、開幕より予選でマンセルを凌ぐ速さを見せ、第5戦カナダGPではシーズン初のPPを獲得(決勝は3位)。続く第6戦メキシコGPでも予選でPPを獲得すると、スタートでは出遅れ4位に落ちるも、その後はマンセルをも抜き去り優勝。自身初のポール・トゥ・ウィンを達成することとなる。
第7戦フランスGPでも3戦連続のPPを獲得するが、決勝ではスタート時にセミATギアボックスのトラブルが発生。1周目の1コーナーで早々とトップ集団から脱落し、その後もタイヤ交換でもたつき周回遅れになる等、良いところの無いレースとなった(5位)。このレースで優勝したマンセルの調子が上がってきたこともあり、以後は予選ではマンセルに先行されることが多くなり、決勝でもマンセルの陰に隠れがちとなった。しかしマンセルが失格となった第13戦ポルトガルGPでは、チームの混乱を最低限に留める、自身2度目のポール・トゥ・ウィンを達成した。
この年のPP4回、2勝はいずれも自身のシーズンベスト記録であり、またポール・トゥ・ウィンをマークしたのもこの年のみである。FLも3度獲得している。ランキングでは、チャンピオン争いを繰り広げたセナ、マンセルに次ぐ3位となった。決勝の獲得ポイントではマンセルに敗れたものの、予選成績では9勝7敗と上回っている[3]
1992年
ファイル:Riccardo Patrese 1992 Monaco.jpg
ウィリアムズ・FW14Bを駆るパトレーゼ(1992年モナコGP)
1992年は、開幕戦南アフリカGPで予選4位からスタートで2位を奪取するなど、前年スタートで順位を落とすことが多かったのに対し、度々好スタートを見せた。特に第3戦ブラジルGP・第8戦フランスGP・第9戦イギリスGP・第10戦ドイツGPでは、2番グリッドからスタートでトップに立っている(イギリスGP・ドイツGPではすぐに抜き返されている)。
しかし前年には無かったチームオーダーによって、パトレーゼの微妙な立場が垣間見えるシーンも多く見られた。フランスGPでは、当初はマンセルと激しいバトルを行いながら、雨天での中断を経た再スタート後に、手を挙げて先行させている。またイギリスGPでも、タイヤ交換のタイミングでマンセルが優先されていた[4]
第5戦サンマリノGPが開催される一週間前のテスト走行中にタイヤトラブルにより、タンブレロ・コーナーの出口で大クラッシュする事故が発生するが、命に別状はなく、無事に生還しているが、首を負傷している。この事故後の彼は「右リアタイヤのパンクがマシンの制御を突然失う原因だった」と発言している。
マンセルのタイトル決定が掛かっていた第11戦ハンガリーGPでは、この年唯一(結果的には現役最後となる)PPを獲得。意地を見せ、決勝でも中盤までトップを独走していたが、単独スピンを喫しその後エンジントラブルによりリタイヤ。マンセルのチャンピオン獲得を許す結果となった。また地元・第13戦イタリアGPでもマンセルに譲られトップを走っていたが、アクティブサスペンションのトラブルに見舞われ、5位に終わった。第15戦日本GPでようやくシーズン初勝利を挙げたが、最終戦オーストラリアGPでもトップ走行中にトラブルでリタイヤした。
前年の改良型として投入していたFW14Bが予想以上の強さを見せたウィリアムズは、開幕5連勝など完全にシーズンを支配し16戦で10勝を挙げたが、パトレーゼは1勝のみであり、6回の1-2フィニッシュでも全てパトレーゼは2位であった。予選成績でも、マンセルに2勝14敗と大きく差を付けられていた。ランキングは自身最高の2位であった。
この年の2人に圧倒的な差がついた理由に対し、パトレーゼは「アクティブサスは限界点を見極めるのが難しい。ナイジェルが自分より速いのは、僕がアクセルを踏めない領域でも踏めているんだろう」と答えている。この当時に、ウィリアムズが最強マシンへと変貌していった理由として、アクティブサスペンションの導入をはじめとしたマシンのハイテク化に成功したことが挙げられており、これには開発能力に長けるパトレーゼの活躍があったと言われている。しかし従来開発に使われた空力的に劣る(フロントサスのバルジ等)FW13と違い、エイドリアン・ニューウェイ作の最先端空力マシンFW14に組み合わされたアクティブサスを「使いこなす」という点ではマンセルに及ばなかった。

ベネトン時代

1993年
1993年には年俸の高騰、チームのやり方への不満などを理由にベネトンに移籍。しかし、チームがミハエル・シューマッハ中心主義であったこともあり、予選で3秒差をつけられることもある等、精彩を欠いた。第7戦カナダGPでは、走行中に足が攣り棄権するなど、体力面での衰えものぞかせることとなった。後半戦にはやや調子を上げ連続入賞を記録、第9戦イギリスGP(3位)・第11戦ハンガリーGP(2位)では表彰台にのぼった。ランキングでも、この年未勝利者では最高位となる5位に入ったが、翌年のシートは喪失することとなった。

F1引退

1994年はあくまでシートを獲得出来なかっただけであり、当初は復帰を窺っていた。同年のサンマリノGPアイルトン・セナが死亡すると、ウイリアムズからセナの代役としてのオファーも来ていた。しかし、オファーを断り、同時に引退を表明した[5]

F1からの引退後は、1995年にツーリングカーレースに参戦。1996年シーズン終盤には、「最新のF1を運転したくなった」というパトレーゼの希望に応え、シーズン中にもかかわらずウィリアムズがテストチーム総動員で、現役マシンFW18を提供。シルバーストーンでのテスト走行が実現し、同年イギリスGPの予選5位に相当するタイムを叩き出している。

2008年9月10日には、ルーベンス・バリチェロがパトレーゼの出走記録を更新したことを受けて、ホンダRA107ドライブの機会を提供。ヘレス・サーキットにて、ドライブを行った。

F1以外のカテゴリ

F1参戦後も他のカテゴリーに参加する事もしばしばあり、1977年と1978年には、F3規格導入以前のマカオGPを2年連続で制覇している。1979年よりランチアアルファ・ロメオなどアバルト関連のドライバーとして、グループ5、グループC、プロカー選手権などのマシンの熟成テストを担当し、実戦でもしばしば起用された。1982年に富士で初開催されたWEC-JAPANにもランチアの一員として参戦している。

1997年には、ニスモから日産・R390を駆ってル・マン24時間レースに参戦(結果はリタイア)。これを最後に、本格的なレース活動は行っていないが、時折草レース等に出場しているという。2005年2006年には、グランプリマスターズにも出場した。

記録

1989年第2戦サンマリノGPにおいて、当時の最多出走記録を上回る176戦目を達成。その後も記録を更新し続け、最終的には足かけ17年で、通算256戦にまで達した。これは2008年第5戦トルコグランプリルーベンス・バリチェロによって破られるまで、約15年間に渡り最多記録だった。

また、1982年第5戦ベルギーGPから1993年最終戦オーストラリアGPまで記録した187戦連続出走も、連続記録としては最多であったが、2006年の第2戦マレーシアGPにて、通算記録より一足早くデビッド・クルサードに更新されている。

1982年モナコGPでの71戦目の初優勝は当時の最遅記録である(現在の記録はマーク・ウェバーの132戦)。

レース出走数自体が多く、またキャリアの終盤を迎えるまで信頼性の低いマシンを駆ることも珍しくなかったため、リタイヤ総数は130という不名誉な記録もある。これは、クラッシュが多く「壊し屋」と呼ばれたアンドレア・デ・チェザリスに次ぎ、歴代2位である。デ・チェザリスもパトレーゼには及ばないものの、通算208戦と多くのGPに参戦したドライバーだった。

エピソード

  • ウィリアムズ時代、最終戦オーストラリアGPの晩は、パトレーゼがメカニック全員をレストランに招待し、盛大なパーティーを行うのが恒例であった。そのことを知ったイギリス人ジャーナリストのナイジェル・ルーバックは、「(パトレーゼの)チームメイトの某氏の方が数倍のサラリーを貰っているのに、スタッフを労わない」と母国のエース、すなわちナイジェル・マンセルを批判した。
  • 鈴鹿でのF1初開催より10年前の1977年に、JAFグランプリ鈴鹿ラウンド参戦のため来日し、F2で優勝を飾っている。また、当時から130Rを絶賛していた。F1でも、最後となった1993年以外は完走しており、特に1992年はF1最後の優勝を飾るなど、非常に相性の良いサーキットだった。本人も鈴鹿サーキットは気に入っており、「最後の優勝が鈴鹿だったことは名誉なことだ」と述懐している。

特筆されるもしくは物議を醸したGP

1978年第14戦イタリアGP
スターターが全車停止前にスタートランプを点灯させるというミスを犯してしまい、それによりスタート時に多重クラッシュが発生し、当時のスタードライバーだったロニー・ピーターソンが死亡した。当時血気盛んだったパトレーゼの進路変更が原因でクラッシュが起こったとして大きな批判を浴びた。パトレーゼはイタリアGPの次戦のアメリカ東GPで出場停止の処分を受けている。
しかし、実際には全車が停止する前にスターターがスタートランプを点灯させたため、勢いがついたままスタートした後方集団がパトレーゼを押し出す形になったのが事故の原因と確認され、後日パトレーゼの名誉は回復している。
ピーターソンの車に直接接触したジェームス・ハントは、BBCのテレビ解説の席においてパトレーゼを酷評し続けた。
1981年第5戦ベルギーGP
金曜日予選前のプラクティスにて、オゼッラのメカニックがカルロス・ロイテマンのマシンに撥ねられる事故が発生(メカニックは翌週に死亡)。また、予備予選の実施を訴えていたグランプリ・ドライバーズ・アソシエーション (GPDA) の訴えが認められなかったため、ドライバーがグリッド上で抗議を行い、スタート時間が遅れる結果となった。
その後、フォーメーション・ラップも終了し、ようやくスタートという際、4番グリッドにいたパトレーゼのマシンがエンジンストール。すぐに手を挙げ周囲に知らせ、メカニックもマシンに駆け寄ったが、シグナルはそのまま青に変わりレースは開始された。後方のドライバーの多くは、ぎりぎりで避けていったが、チームメイトのジークフリート・ストールは避けきれず、マシン後方部にいたメカニックもろとも巻き込む形で接触してしまった。
結果的に高速で追突されたうえに、マシン間に挟まれる形で衝撃を受け止めたメカニックは、一命は取り留めたものの、両足複雑骨折の重傷を負った。この事故でレースは中断され、後に再スタートとなったが、それも雨により全周消化前に打ち切られている。
1982年第6戦モナコGP
初優勝となったこのレースは、F1史の中でも有数のサバイバルレースと言われている。まず残り3周までトップを独走していたアラン・プロストが、周回遅れのマシンを追い抜こうとして体勢を乱してクラッシュしリタイア。さらに、それによりトップとなったパトレーゼ自身も、残り2周のロウズ・ヘアピンでスピンし順位を下げることとなった。
そしてファイナルラップでは、ディディエ・ピローニのフェラーリとアンドレア・デ・チェザリスのアルファロメオがガス欠で止まり、最終的にはパトレーゼが再び首位に立ち優勝となった。
このように状況が錯綜したため、レース終了直後は誰が勝者なのか判り辛かった。パトレーゼ本人もチェッカーフラッグを受けた後にピローニを拾ってピットに戻って来るまで、勝った事を知らなかったと言う。
1982年第13戦オーストリアGP
予選ではピケがPP、パトレーゼが2番とブラバム勢がフロントローを独占した。決勝でも、途中での燃料補給を前提に、ハーフタンクでスタートした2台は、序盤から3位以下を大きく引き離し1-2体制を維持した。2周目にトップに浮上したパトレーゼは、ハイペースで飛ばし続け、8位のニキ・ラウダまでを周回遅れとし、先にピット作業を行ったピケに代わり2位となったプロストを30秒以上突き離した状態で、22周目にピット・イン。燃料補給・タイヤ交換を終え、トップのままレースに復帰した。
しかし28周目、エンジントラブルからマシンがオイルを吹き、そのオイルに乗ってスピン。激しくコースアウトしリタイヤ、シーズン2勝目はならなかった。
1983年第4戦サンマリノGP
地元となるこのGPで、パトレーゼは6周目にフェラーリのルネ・アルヌーを抜きトップに浮上。その後も快走を続け、フェラーリのパトリック・タンベイを2位に従えてトップのまま最終周を迎えるが、クラッシュを喫しストップ(13位完走扱い)。
この際、観客の大半はイタリア人のパトレーゼがストップした事を嘆くのではなく、フランス人のタンベイがドライブするフェラーリがトップに立った事に歓喜した。この出来事はパトレーゼに大きなショックを与え、後に「イタリア人には地元GPはない(国民はイタリア人ではなく、何人が乗っていようとフェラーリを応援する為)」との発言も残している。
1983年最終戦南アフリカGP
チームのエースである、ピケの逆転チャンプが掛かる状況の中、ピケが2位グリッド、パトレーゼは3位グリッドからのスタート。決勝ではPPのタンベイを2人ともがスタートで1-2体制を序盤から構成し、逆転チャンプ獲得に有利な状況を作り出した。燃料を多く積み2位を走るパトレーゼは、3位以下を完全に抑え込み、少ない燃料で逃げるトップのピケを、セカンドドライバーとして援護した。その後、ランキング首位のプロストがトラブルによりリタイヤ、無理をする必要の無くなったピケから首位を譲られ、自身2勝目を挙げた。
1989年第10戦ハンガリーGP
予選で1983年第13戦イタリアGP以来、92戦・6年ぶりとなるPPを獲得。決勝でもスタートからトップを走り、終盤まで2位以下を抑えていたが、水漏れトラブルにより53周目のホームストレートで、急激にペースが落ち次々後退。結局リタイヤに終わり、久々の優勝はならなかった。
1990年第3戦サンマリノGP
PPから逃げトップを走っていたセナが、4周目にホイールトラブルで早くもリタイヤ。その後トップに立った同僚のティエリー・ブーツェンは、ピットイン時のミスで後退、その後はマクラーレンのゲルハルト・ベルガーが終盤までトップを走行していた。しかしマシンバランスの悪さから次第にペースが上がらなくなり、パトレーゼが差を詰めていく。51周目、最終シケインでベルガーを差しそのままトップでチェッカーを受け、99戦・7年ぶりの勝利を地元で手にした。
7年前の同じサンマリノGPでの経験から、この際に観客が自分を応援し、大歓声を送ってくれたことが非常に嬉しかったという。
1991年第3戦サンマリノGP
パトレーゼは、予選でセナに続く2番グリッドを獲得。決勝日はレース直前に土砂降りの雨が降り出したが、この際にセナは晴れ用セッティング、パトレーゼは雨用セッティングを採用した。迎えた決勝レースでは、パトレーゼは完璧なスタートを見せセナに先行、一時は5秒以上のマージンを築いたが、徐々に雨脚が止むと、晴れ用セッティングを採用したセナが有利な状況となった。
また、パトレーゼのマシンにエンジンのミスファイアが発生し、9周目にはセナがすぐ背後にまで迫っていた。状況を打破する為、セナに先立ってピットへ入るが、前述のミスファイアにより大きく後退、一度は復帰するも電気系トラブルにより、17周目にリタイヤ。イモラ2連覇はならなかった。
1991年第6戦メキシコGP
予選でPPを獲得するが、決勝ではスタートに失敗し、一旦4位にまで後退する。しかしその後、アレジ、セナを抜き2位までポジションを回復すると、14周目にはトップであり、チームのファーストドライバーであるマンセルのすぐ背後にまで迫った。
セカンドドライバーではあるものの、チームオーダーのない状況であった為、パトレーゼは15周目にマンセルに仕掛け、ホイールをぶつけ合う激しいバトルの末、トップを奪取。その後はトップを維持し、終盤にはマンセルに猛追されたものの、そのまま自身初のポール・トゥー・ウィンを達成した。
1991年第13戦ポルトガルGP
予選で7戦ぶりにPPを獲得。決勝でもスタートを決めてトップを維持するが、タイトル争いの最中だったマンセルに協力し、18周目には先行させた。しかしマンセルは30周目のピットイン時、ホイール・ナットを締め忘れたまま発進させるという、クルーのミスにより大きく後退した(その後、ピットレーン上でタイヤ交換を行ったことを理由に失格)。
意に反し再びトップに戻ったパトレーゼは、その後独走でレースを進め、2位のセナに20秒差をつけシーズン2勝目を記録。マンセルのトラブルにより発生した、チームの混乱を最低限に留めた。
1992年第8戦フランスGP
予選2位からスタートを決めマンセルに先行、その後はペースで勝るマンセルが再三仕掛けるが、パトレーゼも譲らない。2人が激しいバトルを続ける中、突然の雨を理由に18周目に赤旗が提示され、一旦レースは中断された。その後、2ヒート制とし再スタートしたが、中断前までバトルを行っていたウィリアムズ勢は、パトレーゼがあっさりマンセルを先行され、以後そのままの順位でレースが終了した。
中断前と再開後であまりにパトレーゼの反応が違っていた為、中断中にチームからマンセル優先のチームオーダーが出されたのではないかとの推測が飛んだ。当時のパトレーゼは「ノーコメント」を貫いたが、後年に「マンセルを先行されるよう指示があった」と明かしている。
1992年第10戦ドイツGP
2位を走行していたパトレーゼだが、タイヤ交換により一旦4位まで後退。その後3位のシューマッハを、激しいバトルの末32周目に攻略し、残り5周となった42周目には2位セナの背後に迫る。しかし、セナを抜こうと再三仕掛けるものの抜くことが出来ず、3位のまま最終周に突入。高速セッションの終わりでラインを外し、最後の仕掛けを見せるが、オーバースピードでスピン。そのままストップし8位完走扱いとなった。
1992年第14戦ポルトガルGP
ピットの作業ミスで4位に後退したパトレーゼは、3位のベルガーを追走していた。43周目、最終コーナーを立ち上がったところで、ベルガーはタイヤ交換のためピットに向かおうとしてスピードを緩めた。しかし、パトレーゼはそれに気付かずスリップストリームに入っていたため、回避する間もなくベルガー車の後方に追突した。
マシンはノーズを上にして宙に浮かび上がり、ホームストレートに落下するとピットウォールを擦りながら滑走した。パトレーゼはただちにマシンから脱出したが、仮にマシンが逆さまに落下していれば生命を危ぶまれるほどの衝撃的なクラッシュであった。

趣味

スキーの腕前はプロ級で、イタリアナショナルチームの強化選手に名前が挙がったほどである。ミハエル・シューマッハがチームメイトだった時、パトレーゼにスキーが上手くなる方法を教えてくれるよう言ってきたこともあったとされる。運動神経が抜群でサッカー、テニス、ゴルフなどもこなす。

また鉄道マニア鉄道模型愛好家でもあり、世界最大の鉄道模型メーカーであるメルクリンの世界的コレクターで、自宅には数多くの鉄道模型コレクションが飾られている。ウィリアムズ時代、スポンサーだったキヤノン主催のイベントで「日本のいちばん速い新幹線は?」と訊かれて「ノゾミ!」と即答した。

F1での年度別成績

所属チーム シャシー 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 WDC ポイント
1977年 シャドウ DN8 ARG
BRA
RSA
USW
ESP
MON
9
BEL
Ret
SWE
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
10
AUT
NED
13
ITA
Ret
USA
CAN
10
JPN
6
20位 1
1978年 アロウズ FA1
A1
ARG
BRA
10
RSA
Ret
USW
6
MON
6
BEL
Ret
ESP
Ret
SWE
2
FRA
8
GBR
Ret
GER
9
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
USA
Ret
CAN
4
12位 11
1979年 A1
A2
ARG
DNS
BRA
9
RSA
11
USW
Ret
ESP
10
BEL
5
MON
Ret
FRA
14
GBR
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
13
CAN
Ret
USE
Ret
20位 2
1980年 A3 ARG
Ret
BRA
6
RSA
Ret
USW
2
BEL
Ret
MON
8
FRA
9
GBR
9
GER
9
AUT
14
NED
Ret
ITA
Ret
CAN
Ret
USA
Ret
9位 7
1981年 USW
Ret
BRA
3
ARG
7
SMR
2
BEL
Ret
MON
Ret
ESP
Ret
FRA
14
GBR
10
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
CAN
Ret
CPL
11
11位 10
1982年 ブラバム BT50 RSA
Ret
BEL
Ret
NED
15
GBR
Ret
FRA
Ret
GER
Ret
AUT
Ret
SUI
5
ITA
Ret
CPL
Ret
10位 21
BT49D
BT49C
BRA
Ret
USW
3
SMR
MON
1
DET
Ret
CAN
2
1983年 BT52
BT52B
BRA
Ret
USW
10
FRA
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
BEL
Ret
DET
Ret
CAN
Ret
GBR
Ret
GER
3
AUT
Ret
NED
9
ITA
Ret
EUR
7
RSA
1
9位 13
1984年 アルファ・ロメオ 184T BRA
Ret
RSA
4
BEL
Ret
SMR
Ret
FRA
Ret
MON
Ret
CAN
Ret
DET
Ret
USA
Ret
GBR
12
GER
Ret
AUT
10
NED
Ret
ITA
3
EUR
6
POR
8
13位 8
1985年 185T
184T
BRA
Ret
POR
Ret
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
10
DET
Ret
FRA
11
GBR
9
GER
Ret
AUT
Ret
NED
Ret
ITA
Ret
BEL
Ret
EUR
9
RSA
Ret
AUS
Ret
25位
(NC)
0
1986年 ブラバム BT55
BT54
BRA
Ret
ESP
Ret
SMR
6
MON
Ret
BEL
8
CAN
Ret
DET
6
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
Ret
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
MEX
13
AUS
Ret
17位 2
1987年 BT56 BRA
Ret
SMR
9
BEL
Ret
MON
Ret
DET
9
FRA
Ret
GBR
Ret
GER
Ret
HUN
5
AUT
Ret
ITA
Ret
POR
Ret
ESP
13
MEX
3
JPN
11
13位 6
ウィリアムズ FW11B AUS
9
1988年 FW12 BRA
Ret
SMR
13
MON
6
MEX
Ret
CAN
Ret
DET
Ret
FRA
Ret
GBR
8
GER
Ret
HUN
6
BEL
Ret
ITA
7
POR
Ret
ESP
5
JPN
6
AUS
4
11位 8
1989年 FW12C
FW13
BRA
15
SMR
Ret
MON
15
MEX
2
USA
2
CAN
2
FRA
3
GBR
Ret
GER
4
HUN
Ret
BEL
Ret
ITA
4
POR
Ret
ESP
5
JPN
2
AUS
3
3位 40
1990年 FW13B USA
9
BRA
13
SMR
1
MON
Ret
CAN
Ret
MEX
9
FRA
6
GBR
Ret
GER
5
HUN
4
BEL
Ret
ITA
5
POR
7
ESP
5
JPN
4
AUS
6
7位 23
1991年 FW14 USA
Ret
BRA
2
SMR
Ret
MON
Ret
CAN
3
MEX
1
FRA
5
GBR
Ret
GER
2
HUN
3
BEL
5
ITA
Ret
POR
1
ESP
3
JPN
3
AUS
5
3位 53
1992年 FW14B RSA
2
MEX
2
BRA
2
ESP
Ret
SMR
2
MON
3
CAN
Ret
FRA
2
GBR
2
GER
8
HUN
Ret
BEL
3
ITA
5
POR
Ret
JPN
1
AUS
Ret
2位 56
1993年 ベネトン B193
B193B
RSA
Ret
BRA
Ret
EUR
5
SMR
Ret
ESP
4
MON
Ret
CAN
Ret
FRA
10
GBR
3
GER
5
HUN
2
BEL
6
ITA
5
POR
16
JPN
Ret
AUS
8
5位 20

脚注

  1. 1977年の富士での日本GP出走者で、10年後の鈴鹿でも現役だった唯一のドライバーである。
  2. 当時はレース途中での燃料補給が可能であった。
  3. タイムでは上回ったものの、車両規定違反で後方に回された第11戦ベルギーGPを勝利に含めれば10勝6敗。
  4. ただし、マンセルのタイヤの摩耗が少なかったことから交換は不要と判断され、実際にはパトレーゼはタイヤ交換を行わなかった。
  5. 結果、当時テストドライバーだったデビッド・クルサードが後任となった(中盤のフランスGPと終盤3戦はマンセル)。

外部リンク

関連項目

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