ビルマの竪琴

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ビルマの竪琴』(ビルマのたてごと)とは竹山道雄が唯一執筆した児童向けの作品で、多くの版元で重版した。

1946年の夏から書き始め童話雑誌「赤とんぼ」に1947年3月から1948年2月まで掲載された。ビルマ(現在のミャンマー)を舞台としている。市川崑の監督によって、1956年1985年に2回映画化された。各国語にも訳されている。

出家になった主人公の水島上等兵竪琴を奏でる場面があるが、現地の上座部仏教では、出家者(僧侶)は、戒律により音楽演奏は禁じられている。

著者はこの物語は空想の産物でありモデルもないが示唆になった話はあると記した。 20数年後に武者一雄が著作した本が出版され宣伝された後に水島上等兵のモデルは、ビルマで終戦を迎え、復員後僧侶になった群馬県利根郡昭和村の雲昌寺前住職 中村(武者)一雄と言われるようになった。[1]

あらすじ

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ビルマの竪琴「サウン・ガウ」

1945年7月、ビルマ(現在のミャンマー)における日本軍の戦況は悪化の一途をたどっていた。物資や弾薬、食料は不足し、連合軍の猛攻になす術が無かった。

そんな折、日本軍のある小隊では、音楽学校出身の隊長が隊員に合唱を教え込んでいた。隊員達は歌うことによって隊の規律を維持し、辛い行軍の中も慰労し合い、さらなる団結力を高めていた。彼ら隊員の中でも水島上等兵は特に楽才に優れ、ビルマ伝統の竪琴サウン・ガウ」の演奏はお手の物。部隊内でたびたび演奏を行い、隊員の人気の的だった。さらに水島はビルマ人の扮装もうまく、その姿で斥候に出ては、状況を竪琴による音楽暗号で小隊に知らせていた。

やがて日本は無条件降伏する。小隊は捕虜となり、テンプレート:仮リンクの捕虜収容所に送られ、労働の日々を送る。しかし、山奥の「三角山」と呼ばれる地方では降伏を潔しとしない小隊がいまだに戦闘を続けており、彼らの全滅は時間の問題だった。彼ら日本軍を助けたい隊長はイギリス軍と交渉し、降伏説得の使者として、竪琴を携えた水島が赴くことになる。しかし、彼はそのまま消息を絶ってしまった。

収容所の鉄条網の中、隊員たちは水島の安否を気遣っていた。そんな彼らの前に、水島によく似た上座仏教の僧が現れる。彼は、肩に青いインコを留らせていた。隊員は思わずその僧を呼び止めたが、僧は一言も返さず、逃げるように歩み去る。

大体の事情を推察した隊長は、親しくしている物売りの老婆から、一羽のインコを譲り受ける。そのインコは、例の僧が肩に乗せていたインコの弟に当たる鳥だった。隊員たちはインコに「オーイ、ミズシマ、イッショニ、ニッポンヘカエロウ」と日本語を覚えこませる。数日後、隊が森の中で合唱していると、涅槃仏の胎内から竪琴の音が聞こえてきた。それは、まぎれもなく水島が奏でる旋律だった。隊員達は我を忘れ、大仏の体内につながる鉄扉を開けようとするが、固く閉ざされた扉はついに開かない。

やがて小隊は3日後に日本へ帰国することが決まった。隊員達は、例の青年僧が水島ではないかという思いを捨てきれず、彼を引き連れて帰ろうと毎日合唱した。歌う小隊は収容所の名物となり、柵の外から合唱に聞き惚れる現地人も増えたが、青年僧は現れない。隊長は、日本語を覚えこませたインコを青年僧に渡してくれるように物売りの老婆に頼む。

出発前日、青年僧が皆の前に姿を現した。収容所の柵ごしに隊員達は『埴生の宿』を合唱する。ついに青年僧はこらえ切れなくなったように竪琴を合唱に合わせてかき鳴らす。彼はやはり水島上等兵だったのだ。隊員達は一緒に日本へ帰ろうと必死に呼びかけた。しかし彼は黙ってうなだれ、『仰げば尊し』を弾く。日本人の多くが慣れ親しんだその歌詞に「今こそ別れめ!(=今こそ(ここで)別れよう!)いざ、さらば。」と詠う別れのセレモニーのメロディーに心打たれる隊員達を後に、水島は森の中へ去って行った。

翌日、帰国の途につく小隊のもとに、1羽のインコと封書が届く。そこには、水島が降伏への説得に向かってからの出来事が、克明に書き綴られていた。

水島は三角山に分け入り、立てこもる部隊を説得するも、結局その部隊は玉砕の道を選ぶ。戦闘に巻き込まれて傷ついた水島は崖から転げ落ち、通りかかった原住民に助けられる。ところが、実は彼らは人食い人種だった。彼らは水島を村に連れ帰り、太らせてから儀式の人身御供として捧げるべく、毎日ご馳走を食べさせる。

最初は村人の親切さに喜んでいた水島だったが、事情を悟って愕然とする。

やがて祭りの日がやってきた。盛大な焚火が熾され、縛られた水島は火炙りにされる。ところが、不意に強い風が起こり、村人が崇拝する精霊ナッの祀られた木が激しくざわめきだす。「ナッ」のたたりを恐れ、慄く村人達。水島上等兵はとっさに竪琴を手に取り、精霊を鎮めるような曲を弾き始めた。やがて風も自然と収まり、村人は「精霊の怒りを鎮める水島の神通力」に感心する。そして生贄の儀式を中断し、水島に僧衣と、位の高い僧しか持つことができない腕輪を贈り、盛大に送り出してくれた。

ビルマ僧の姿でムドンを目指す水島が道々で目にするのは、無数の日本兵の死体だった。葬るものとておらず、無残に朽ち果て、蟻がたかり、が涌く遺体の山。衝撃を受けた水島は、英霊を葬らずに自分だけ帰国することが申し訳なく、この地に留まろうと決心する。そして、水島は出家し、本物の僧侶となったのだった。

水島からの手紙は、祖国や懐かしい隊員たちへの惜別の想いと共に、強く静かな決意で結ばれていた。

手紙に感涙を注ぐ隊員たちの上で、インコは「アア、ヤッパリジブンハ、カエルワケニハイカナイ」と叫ぶのだった。

映画版

1956年版

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  1. ビルマの竪琴 第一部」(1956年1月21日公開、61分)
  2. ビルマの竪琴 第二部・帰郷篇[2]」(1956年2月12日公開、83分)

1956年 (EN)、ヴェネツィア国際映画祭サン・ジョルジョ賞受賞。1957年アカデミー外国語映画賞にもノミネートされた。なお、現存するのは「第一部」「第二部」を編集した「総集編」である。

市川崑の述懐[3]によると1956年の1月公開が決定していたが、ビルマロケの許可がなかなか下りず、急きょ国内撮影分のみを第一部として製作、公開した。[4]その後、1956年1月に水島役の安井昌二のみが同行して一週間のビルマロケを行った。市川と日活の当初の約束では、2月に完全版の総集編(当然第一部とは中身が一部重複する)を封切る予定だったが、会社側は「すでに第一部のポジを何十本も焼いていてもったいない」とクレーム。このため、封切り時点で「総集編」と「第一部+第二部」の上映が混在したという。このことが禍根となり、市川崑は日活を辞めたという。

なお、井上隊がパゴダの仏塔に入る場面は現地で撮ったフィルムをスクリーン・プロセスで合成した。また、後半のクライマックスで涅槃像の中に水島が潜んで竪琴を鳴らし、井上隊が気付くシーンは、美術の松山崇が仏像(大臥像)を制作し、小田原の公園で撮影した。

スタッフ

出演者

1985年版

テンプレート:Infobox Film 1985年7月20日公開。

スタッフ

  • 製作:鹿内春雄、奥本篤志、高橋松男
  • 企画:日枝久、高橋松男
  • 原作:竹山道雄
  • 脚本:和田夏十
  • 音楽:山本直純
  • 音楽補佐:山本純ノ介
  • 竪琴:山畑松枝
  • 合唱:東京混声合唱団、明治大学グリークラブ、明治大学混声合唱団
  • 演奏:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団
  • 撮影:小林節雄
  • 美術:阿久根厳
  • 録音:斉藤禎一
  • 照明:下村一夫
  • 編集:長田千鶴子
  • 監督補:吉田一夫
  • 製作担当者:古屋和彦
  • 音楽ミキサー:大野映彦
  • 調音:大橋鉄矢
  • レコーディスト:中野明
  • 合成:三瓶一信
  • 音楽製作:斉藤明、オズ・ミュージック
  • 制作:フジテレビ博報堂キネマ東京 提携作品
  • プロデューサー:藤井浩明角谷優、荒木正也
  • 監督:市川崑

キャスト

受賞歴

参考文献

  • 滑川道夫他編著『作品による日本児童文学史 3 昭和後期』牧書店、1972年

脚注

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関連項目

外部リンク

テンプレート:市川崑
  1. 福井県永平寺で修行中に召集され、南方戦線を転戦しビルマで終戦。捕虜収容所では合唱団を結成していたという。復員後、群馬県昭和村で僧侶になった。その後ミャンマーキンウー市に小学校を寄贈、2008年12月17日老衰のため死去。享年92。『日本経済新聞』2008年12月20日付朝刊11面(訃報欄)
  2. "第二部・帰郷篇"の表記は、公開時の「日活ウイークリー(発行・編輯 新世界出版社)」に拠る。
  3. 市川崑、森遊机「市川崑の映画たち」(ワイズ出版、1994)
  4. 「日活写眞ニュース特報」(日活撮影所・宣伝課発行)の『ビルマの竪琴 内地ロケ特報』によると、三角山のシーンは、伊豆静浦(静岡県沼津市)で撮影されたとある。