佐野浅夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:ActorActress 佐野 浅夫(さの あさお、1925年8月13日 - )は、日本俳優童話作家実業家神奈川県横浜市、現在の保土ケ谷区出身。アクターズ・セブン所属。身長168cm。

来歴・人物

実家は相模鉄道天王町駅近くの青果商。

神奈川県立横浜第三中学校卒業。同期生に映画監督・脚本家の松山善三がいる。

日本大学芸術学部在学中の1943年劇団苦楽座に入団。1945年3月本土決戦に備える特攻隊に応召。苦楽座は巡業中の広島市原爆投下により壊滅した[1]。戦後、劇団民藝の結成に参加し、多くの舞台に出演するが、1971年に民藝内部で対立が起こり、下條正巳鈴木瑞穂佐々木すみ江らと共に退団する。映画テレビドラマでは主に脇役として活躍。NHKラジオの『お話でてこい』では、童話の朗読役として4000回を超える放送をこなした。また、創作童話の執筆にも取り組み、『せん爺さんの太鼓』などの著書がある。その功績をたたえ、2001年広島大学からペスタロッチ教育賞を授与された。また俳優業の傍ら家業の青果商を継ぎ、現在は横浜市中央卸売市場にある仲買業者の社長でもある。

1993年放送開始の『水戸黄門第22部から3代目水戸光圀役として活躍。初代東野英治郎、2代目西村晃とは一味違う庶民的で優しい「泣き虫黄門」として親しまれた。京都太秦の撮影所では自転車を乗り回していた。光圀出演回数は246回である。なお、2代目助さん及び5代目光圀役の里見浩太朗(本名・佐野邦俊)とは親戚関係にある。

1996年勲四等瑞宝章を受章。1998年に長年連れ添った英子夫人に先立たれ、一時は芸能活動を休止したが、2000年2月に、21歳年下の育子夫人と再婚し、意欲的に仕事に取り組んでいる。長男は大学教員、次男は競輪選手の川村晃司[2]

戦時下の1943年、18歳で入団した劇団苦楽座では最年少で皆に可愛がられた。1945年苦楽座中国地方を慰問する移動演劇桜隊に改称。佐野は同年3月、本土決戦特攻隊員になり劇団を離れた。丸山定夫園井恵子仲みどりら劇団員は8月6日広島で被爆。佐野は軍隊を抜け出し20日東京帝国大学付属病院に仲を見舞った。仲間の消息を聞こうとしたが、仲はベッドに寝たきりで何も聞けず病室を後にした。「これまでは自分だけが生き残ったことが後ろめたかった。しかし、仲間を知る人がいなくなった今こそ」と62年間の沈黙を破り2007年8月6日、東京都目黒区五百羅漢寺で仲間への思いを初めて語り追悼した(讀賣新聞、2007年8月6日や東京新聞毎日新聞でも戦争体験から反戦平和を述べている)[3][4]

出演作品

テレビドラマ

映画

吹き替え

ナレーション

  • 元禄太平記・忠臣蔵討入の助っ人たち (1995年、テレビ朝日)

ラジオ

バラエティ

CM

著書

  • せん爺さんの太鼓
  • お話でてこいのおじさんのお話

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:パナソニックドラマシアター 水戸黄門 主要キャスト
  1. 黄門は旅ゆく2 特攻 生き残ったふたり 朝日新聞 2009年11月10日夕刊
  2. 「水戸黄門賞」の主役は、黄門さまの息子・川村晃司
  3. テンプレート:Cite web
  4. テンプレート:Cite web