バレンシアCF

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テンプレート:サッカークラブ バレンシア・クルブ・デ・フトボルテンプレート:Lang-esテンプレート:IPA-es)は、スペインバレンシアに本拠地を置くサッカークラブチームである。リーガ・エスパニョーラプリメーラ・ディビシオンに所属している。、

1919年創設。1923年以来、55,000人収容のエスタディオ・デ・メスタージャをホームスタジアムとして使用している。バレンシア市北西部に建設中のノウ・メスタージャ(75,000人収容)に移転する計画がある。同じ都市に本拠地を置くレバンテUDと長い間ライバル関係にある。同じバレンシア州内にあるエルクレスCFビジャレアルCFにもライバル意識を抱いている。BチームとしてバレンシアCF・メスタージャがある。

プリメーラ・ディビシオンで6度、コパ・デル・レイで7度、インターシティーズ・フェアーズカップUEFAカップの前身)で2度、UEFAカップで1度、UEFAスーパーカップで2度優勝している。1999-2000シーズンと2000-01シーズンには2シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグの決勝に進出したが、前者のシーズンにはレアル・マドリード(スペイン)に、後者のシーズンにはバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)に敗れ、いずれも準優勝に終わった。欧州カップ戦の決勝に計7回出場し、そのうちの4回優勝している。G-14(ヨーロッパビッグクラブ連合体)のメンバーだった。ラ・リーガ通算順位表ではレアル・マドリードFCバルセロナに次ぐ3位である。国際大会の成績でも彼らに次ぐ3番手に位置しており、欧州カップ戦で5つ以上のタイトルを獲得しているのはこの3クラブのみである[1]。2012-13シーズンはバルセロナ、レアル・マドリードに次いでスペインで3番目に平均観客数の多いクラブだった[2]。5万人以上のシーズンチケット購入者を抱え、さらに2万人以上がシーズンチケットの購入待ち状態にある。

歴史

黎明期

1919年3月5日に設立され、3月18日に公式に承認された。アスレティック・ビルバオ(1898年設立)、FCバルセロナ(1899年設立)、レアル・マドリード(1902年設立)、アトレティコ・マドリード(1903年設立)、など、スペインの他の名門クラブと比べると比較的遅い設立であり、同じくバレンシアに本拠地を置くレバンテUD(1909年)よりも遅い。オクタビオ・アウグスト・ミレゴ・ディアスが初代会長に就任したが、ディアスの就任はコインを投げて決定されたものだった。1919年5月21日、カステリョンにて初の公式戦が行われ、バレンシア・ジムナスティコに0-1で敗れた[3]。同年にはレバンテとも初試合が行なわれ、1-0で勝利した。同年12月7日からアルヒロスをホームスタジアムとして使用していたが、1923年にエスタディオ・デ・メスタージャに移転し、5月20日にレバンテUD相手に行われたメスタージャでの初試合には1-0で勝利した[3]。1923年には地域リーグで優勝し、当時スペイン最高峰の大会だったコパ・デル・レイに初出場した。1928年に全国選手権(リーガ・エスパニョーラ)が設立されると、コパ・デル・レイでの優勝経験がなかったバレンシアはセグンダ・ディビシオン(2部)に組みこまれたが、1930-31シーズンにはセグンダ・ディビシオンで優勝し、1931-32シーズンにはクラブ史上初めてプリメーラ・ディビシオン(1部)に参戦した。

スペインの強豪への成長

プリメーラ・ディビシオン昇格後は黒星が白星を上回るシーズンが続き、1936年に勃発したスペイン内戦によってクラブの発展が妨げられたが、1941年のコパ・デル・レイでは決勝に進出し、決勝でRCDエスパニョールを破って初優勝。当時はまだリーガ・エスパニョーラよりもコパ・デル・レイのほうが重要度の高い大会と認識されていた。1941-42シーズンにプリメーラ・ディビシオンで初優勝すると、1943-44シーズンには2度目のリーグ優勝を果たし、1946-47シーズンにも優勝。1940年代にはリーグ優勝3度、リーグ2位2度、カップ優勝2度、カップ準優勝3度など堅実な黄金期とも言える成績を残した[3]。この時代の主力にはエドムンド・スアレスエピファニオ・フェルナンデスなどがおり、彼らで構成される攻撃陣はデランテーラ・エレクトリカ(delantera eléctrica、電撃フォワード)と称された[3]。1950年代にはメスタージャが45,000人収容に拡張された。バレンシアはスペイン国内外のスター選手を迎え入れ、スペイン代表アントニオ・プチャデス、オランダ出身のフォワードファース・ヴィルケスなどによって彩られた。1940年代のようなスポーツ面での成功には至らなかったが、1952-53シーズンにはリーグ戦を2位で終え、翌シーズンにはコパ・デル・ヘネラリシモ(コパ・デル・レイ)で優勝した。

欧州カップ戦での成功

1960年代初頭のリーグ戦ではぱっとしない順位が続いたが、ビセンテ・ギジョットやブラジル人のワルド・マチャドなどに導かれ、ヨーロッパの舞台でではインターシティーズ・フェアーズカップUEFAカップの前身)で成功を収めた。1961-62シーズンの同大会では決勝でFCバルセロナを破って初優勝し、1962-63シーズンの同大会でも決勝でNKディナモ・ザグレブ(クロアチア)を破って2連覇を達成。1963-64シーズンの同大会でも3年連続で決勝に進出したが、今度はレアル・サラゴサに1-2で敗れて準優勝に終わった。1970年には、バロンドールに2度輝いたアルフレッド・ディ・ステファノが監督に就任し、1970-71シーズンには1947年以来となる4度目のリーグ優勝を遂げた。この結果、1971-72シーズンにはクラブ史上初めてUEFAチャンピオンズカップに出場したが、3回戦でウーイペシュトFC(ハンガリー)に敗れた。同シーズンの国内リーグ戦ではレアル・マドリードに次ぐ2位であり、国内カップ戦では決勝でアトレティコ・マドリードに敗れて準優勝だった。1970年代にはオーストリア人ミッドフィールダーのクルト・ヤーラ、オランダ人フォワードのヨニー・レップアルゼンチン代表フォワードのマリオ・ケンペスなどが在籍し、ケンペスは1976-77シーズンと1977-78シーズンの2シーズン連続で得点王のタイトル(ピチーチ賞)を獲得した。1974年のディ・ステファノ退任によって過渡期を迎えたが、1978-79シーズンのコパ・デル・レイ決勝、レアル・マドリード戦ではケンペスが2点を叩きこんで5度目のリーグ優勝に貢献した。ケンペスはアルゼンチン代表として1978 FIFAワールドカップに出場し、決勝のオランダ戦でも2得点している。1979-80シーズンにはディ・ステファノが監督に復帰し、UEFAカップウィナーズカップ決勝ではアーセナルFC(イングランド)をPK戦の末に破って優勝した。1980年のUEFAスーパーカップでは、UEFAチャンピオンズカップ王者のノッティンガム・フォレストFC(イングランド)と対戦し、アウェーゴール差で上回って新たなトロフィーを加えた[3]

1980年代-90年代の停滞期

1982年にはミラン・ミラニッチ監督が就任したが、1982-83シーズンは終盤戦に至っても降格の危機から抜け出せなかった。ミラニッチ監督が退いてコルド・アギーレ監督が就任し、他力本願ながらかろうじて降格を回避した。ビセンテ・トルモ会長政権下の1983-84シーズンと1984-85シーズンは借金が重くのしかかり、選手やスタッフへの給料未払い、士気の低下など、内部問題によってクラブが分裂した。1931年以来プリメーラ・ディビシオンに留まり続けていたが、1985-86シーズンは18クラブ中16位となり、創設55年目にしてクラブ史上初の降格となった。アルトゥーロ・トゥソンが新会長に就任してディ・ステファノを監督に復帰させ、わずか1シーズンでプリメーラ・ディビシオン昇格を決めると、ディ・ステファノ監督は昇格後の1987-88シーズンも采配を振るったが、14位と低迷した。1989年にはリーグでの地位強化のためにブルガリア代表フォワードのルボスラフ・ペネフと契約した。1991年にはオランダ人のフース・ヒディンク監督が就任し、1991-92シーズンにはリーグ戦で4位、コパ・デル・レイで準々決勝に進出した。1992年には公式に株式会社化し、1993年までは続けてヒディンク監督が指揮を執った。1994年には、ブラジル代表監督として1994 FIFAワールドカップを制したばかりのカルロス・アルベルト・パレイラ監督を迎え入れた。パレイラ監督は即座にアンドニ・スビサレッタと契約し、さらにロシア人のオレグ・サレンコプレドラグ・ミヤトヴィッチもチームに加えたが、期待されたほどの成績は挙げられなかった。1990年代後半にはブラジル代表のロマーリオ、アルゼンチン代表のクラウディオ・ロペスアリエル・オルテガルーマニア代表アドリアン・イリエなどの外国人スター選手が集まり、ルイス・アラゴネスホルヘ・バルダーノなどの優れた指導者が指揮を執った。1997年に就任したイタリア人のクラウディオ・ラニエリ監督の下で、1998-99シーズンにはコパ・デル・レイで20年ぶりの優勝を飾った。

2000年代の復活

1999-00シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝の先発メンバー

1999年から2004年のバレンシアは、クラブ史上最大の成功を収めた。リーグ戦で2度優勝し、UEFAカップとコパ・デル・レイとUEFAスーパーカップで1度優勝し、さらにUEFAチャンピオンズリーグで2度準優勝した。1999年にエクトル・クーペル監督が就任すると、同年夏のスーペルコパ・デ・エスパーニャではバルセロナに勝利した。クラウディオ・ロペスガイスカ・メンディエタキリ・ゴンサレスジェラール・ロペスらがチームの中心となり、1999-2000シーズンのリーグ戦では優勝したデポルティーボ・ラ・コルーニャに勝ち点4差、2位のバルセロナに勝ち点1差の3位であったが、このシーズンのUEFAチャンピオンズリーグではクラブ史上初めて決勝に進出した。しかし、2000年5月24日にパリで行われた決勝ではレアル・マドリードに0-3で敗れた。

2000年夏にはクラウディオ・ロペスがSSラツィオ(イタリア)に、フランシスコ・ファリノスインテル(イタリア)に、ジェラール・ロペスがバルセロナに移籍し、ヨン・カリュールベン・バラハロベルト・アジャラビセンテ・ロドリゲスファビオ・アウレリオなどが加わった。2001年1月にはパブロ・アイマールも加わり、バラハ、アイマール、ビセンテ、アジャラらは2000年代初頭の躍進の中心的存在となった。2000-01シーズンは序盤から優勝争いに加わり、10節終了後には首位に立っていた。しかし、UEFAチャンピオンズリーグでの躍進などによって疲労が蓄積し、リーグ戦の後半戦では順位を落とした。エクトル・クーペル監督に率いられたチームは、UEFAチャンピオンズリーグの2次リーグでマンチェスター・ユナイテッドFC(イングランド)などを押しのけて首位通過し、準々決勝ではアーセナルFC(イングランド)を破った。準決勝でもイングランドのリーズ・ユナイテッドFCに勝利し、5月23日にミラノのサン・シーロで行われた決勝はバイエルン・ミュンヘン(ドイツ)との対戦となった。試合開始早々にガイスカ・メンディエタがPKで先制点を挙げ、キーパーのサンティアゴ・カニサレスメーメット・ショルのPKを止めたが、後半にステファン・エッフェンベルグにPKを決められて同点とされた。延長を経ても決着が付かず、試合の行方はPK戦に持ち込まれたが、マウリシオ・ペジェグリーノがPKを外したことでバイエルンの優勝が決まった。同シーズンのリーグ戦最終節はカンプ・ノウでのバルセロナ戦であり、引き分け以上の結果でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得できたが、ロスタイムにリバウドに得点を許して2-3で敗れ、5位に落ちて同大会出場権獲得を逃した。

2000-01シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ決勝の先発メンバー

2001年7月、在任期間中にコパ・デル・レイ優勝1度、スーペルコパ優勝1度、UEFAチャンピオンズリーグ準優勝2度などの成績を残したペドロ・コルテス会長が、個人的な理由により職を辞し、後任の会長にはハイメ・オルティが就任した。オルティ会長はCDテネリフェをプリメーラ・ディビシオン昇格に導いたラファエル・ベニテス監督を引き抜き、クーペル監督はイタリアのインテルに去った。メンディエタ、ディディエ・デシャンルイス・ミージャズラトコ・ザホヴィッチなどがチームを去り、カルロス・マルチェナミスタクーロ・トーレスフランシスコ・ルフェテゴンサロ・デ・ロス・サントスサルバ・バジェスタなどが加入した。2001-02シーズンの開幕戦ではタイトルを争うレアル・マドリードから重要な勝利を挙げた。1970-71シーズンにはディ・ステファノ監督の下でクラブの連勝記録を樹立し、最後のリーグタイトルを勝ち取ったが、2001-02シーズンには11連勝を記録して1970-71シーズンに記録したクラブの連勝記録を塗り替えた。12月9日にエスタディオ・リアソルデポルティーボ・ラ・コルーニャに敗れて連勝記録がストップした。エスタディ・デ・モンジュイックでのRCDエスパニョール戦はハーフタイムの時点で0-2とリードされていたが、後半に逆転して3-2の勝利を収めた。エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウでレアル・マドリードに0-1で敗れるなど、シーズン後半戦には小さな躓きを経験したが、UDラス・パルマス戦以降の6戦で4勝2分を記録して立ち直った。これら重要な試合のひとつがエスパニョール戦であり、前半戦の試合と同じく0-1でリードされて後半を迎えたが、バラハの2得点で2-1と逆転勝利を飾った。さらに、レアル・マドリードがエスタディオ・アノエタレアル・ソシエダに敗れたため、バレンシアが勝ち点3リードして首位に立った。マラガCFとのシーズン最終戦はエスタディオ・ラ・ロサレーダで行われ、この5月5日はバレンシアのクラブ史に記録される日となった。開始早々のアジャラの先制点に続き、ハーフタイム間際にはファビオ・アウレリオが追加点を挙げ、31年ぶり5度目となるリーグ優勝を果たした。

2002-03シーズンはバレンシアにとって失望のシーズンであり、リーグ連覇に失敗しただけでなく、4位のセルタ・デ・ビーゴを上回れず、UEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。UEFAチャンピオンズリーグでは準々決勝まで勝ち進んだが、インテル(イタリア)にアウェーゴール差で敗れた。2003-04シーズンのバレンシアは長いこと首位レアル・マドリードを追いかけていた。26試合を消化した2004年2月の時点では勝ち点8差を付けられていたが[4]、レアル・マドリードは終盤戦に調子を落とし、ラスト5試合を全敗したため、バレンシアが逆転で2シーズンぶりのリーグ優勝を遂げた。UEFAカップでは準々決勝でFCジロンダン・ボルドー(フランス)、準決勝でビジャレアルCF(スペイン)、決勝でオリンピック・マルセイユ(フランス)を下し、初優勝を果たした。2004年夏にはベニテス監督が会長との対立からバレンシアを離れ、リヴァプールFC監督に就任した。後任には1999年までバレンシアを率いていたラニエリ監督が5年ぶりに復帰したが、2度目のラニエリ政権時代は失望の残る結果となった。マルコ・ディ・ヴァイオベルナルド・コッラーディなどのイタリア人を獲得してチームのイタリア化を図ったが、2004-05シーズンのUEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ敗退に終わり、リーグ戦でも7位と低迷したため、ラニエリ監督は2005年2月に解任された。ベニテスの下でアシスタントコーチを務めたアントニオ・ロペスが指揮を執ったが、このシーズンはUEFAカップ出場権を獲得できない順位で終えた。

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メスタージャで声援を送るサポーターたち

2005年夏、ヘタフェCFキケ・サンチェス・フローレス監督がバレンシアの新監督に就任した。レアル・サラゴサからダビド・ビジャを獲得すると、2005-06シーズンは3位で終えてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。2006-07シーズンにはビジャに加え、リヴァプールFCから獲得したフェルナンド・モリエンテスセルタ・デ・ビーゴからレンタルバックした生え抜きのダビド・シルバらが活躍。しかし、バラハやエドゥ、更にはビセンテ・ロドリゲスなど主力級の選手が怪我により長期離脱し、キケ・フローレス監督とアメデオ・カルボーニSDが対立した。シーズン序盤は好発進を見せたが、国内リーグでは4位に終わった。UEFAチャンピオンズリーグでは2次リーグでイタリア王者のインテルを破ったが、準々決勝でチェルシーFCに2試合合計2-3で敗れた。

2007年夏、SDがカルボーニからアンヘル・ルイスに代わることで内部対立が収まったが、10月29日、バレンシアの首脳陣は成績不振を理由にキケ・フローレス監督を解任し、オスカル・ルベン・フェルナンデスを暫定監督に任命した。後任監督候補としてマルチェロ・リッピジョゼ・モウリーニョなどの就任が噂されたが、10月30日、オランダ人のロナルト・クーマン監督がPSVアイントホーフェンを離れてバレンシアと契約することが発表された。クーマン監督は就任直後にダビド・アルベルダサンティアゴ・カニサレスミゲル・アンヘル・アングロの主力3選手を戦力外扱いしたが、オランダ型の攻撃的な4-3-3のシステムはチームにフィットせず、降格圏からわずか勝ち点2差の15位まで落ち込んだ。UEFAチャンピオンズリーグではグループリーグ最下位で敗退し、リーグ戦でも低迷する一方で、コパ・デル・レイでは順調に勝ち進んだ。2008年4月16日、エスタディオ・ビセンテ・カルデロンで行われたヘタフェCFとの決勝に3-1で勝利し、7度目の優勝を果たした。しかし、4日後の4月20日にはアスレティック・ビルバオ相手に1-5の大敗を喫し、その翌日にはクーマン監督の解任が発表された。暫定監督となったボロはアルベルダ、カニサレス、アングロの3選手をチームに復帰させると、初采配試合となったCAオサスナ戦(3-0)に勝利し、残留争いから順位表の中位(10位)にチームを引き上げた。

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マヌエル・ジョレンテ第35代会長

2008年5月22日、若手のウナイ・エメリ監督が就任した。2008-09シーズン開幕から5試合のうち4試合に勝利し手順調なスタートを切り、UEFAカップのグループリーグでは1勝3分のグループ2位で決勝トーナメント進出を決めたが、リーグ戦では徐々に調子を落として4位で前半戦を終えた。不調の最中、クラブが4億ユーロ以上の巨額の負債を抱えており、何週間も選手に給料が支払われていないという報道がなされた[5]。UEFAカップの決勝トーナメント1回戦ではFCディナモ・キエフ(ウクライナ)と対戦したが、最終的にベスト4となるクラブにアウェーゴール差で敗退し、クラブの問題はいっそう増した。2009年1月から3月にかけてはリーグ戦10試合で勝ち点7しか獲得できなかったが、3月からの7戦無敗(5勝2分)で一時的に4位まで順位を挙げた。しかし、36節と37節で4位の座を争うアトレティコ・マドリードとビジャレアルに連敗し、6位に落ちてUEFAチャンピオンズリーグ出場権を逃した。

巨額の負債を抱えた2010年代

財政収支のバランスを取るために、2009年夏にはダビド・ビジャフアン・マヌエル・マタダビド・シルバなどのスター選手を放出するという噂が流れ続けた[6]。前シーズンのリーグ王者バルセロナや大型補強をしたレアル・マドリードには及ばないもののリーグ3位を堅守、UEFAチャンピオンズリーグ本戦への出場権を手に入れた。財政面での理由により、2010年夏にはビジャとシルバがそれぞれバルセロナとマンチェスター・シティFCに売却され、負債額が大きく減少した[7]。中心選手ふたりを放出したにもかかわらず、2010-11シーズンは2シーズン連続で3位という安定した成績を残した。UEFAチャンピオンズリーグでは決勝トーナメント1回戦でシャルケ04(ドイツ)に敗れた。2011年3月20日のセビージャFC戦では、9日前に日本で起こった東日本大震災支援として、選手名がカタカナ表記のユニホームを着用して試合に臨んだ。ユニホームはスペイン赤十字社がオークションに出し、その収益は被災者への義援金となった[8]

2011年夏にはクラブの不安定な財政状況改善のため、マタをチェルシーFCに移籍させざるを得なかった[9]。2011-12シーズンは3位でリーグ戦を終了してUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得した。3シーズン連続でUEFAチャンピオンズリーグ出場権を獲得したのはクラブ史上初だったが、獲得した勝ち点は61にとどまり、プリメーラ・ディビシオンが20チーム制・勝利勝ち点が3ポイントとなった1995-96シーズン以来では最も少ない勝ち点の3位である[10]。シーズン終了後、4シーズンにわたりチームを率いたエメリ監督が退任し、後任には選手としてバレンシアでプレー経験のあるマウリシオ・ペジェグリーノが就任した。

ペジェグリーノ体制になった2012-13シーズンであったが、バルセロナに放出したジョルディ・アルバなどの穴を 新戦力が埋めきれず、さらにはトップチームでの監督経験がないペジェグリーノの采配も安定せず開幕から低迷。 チャンピオンズリーグではグループリーグを突破したものの、リーグでの低迷が原因で第14節で解任。後任には リーガでの指導経験も豊富なエルネスト・バルベルデが半年契約で就任した。バルベルデ体制になりチームは復調したものの、前半の出遅れが響き5位でリーグ戦を終了。UEFAヨーロッパリーグの出場権は獲得したものの、3シーズン守っていたUEFAチャンピオンズリーグ出場権を失った。チームはバルベルデを高く評価し契約延長を希望したが、チームの経営環境が不安定である事を理由に拒否し、アスレティック・ビルバオに転出した。

スタジアム

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エスタディオ・デ・メスタージャ

1919年にクラブが創設されてから1923年まではエスタディオ・アルヒロスをホームスタジアムとしていたが、1923年にエスタディオ・デ・メスタージャに移転した。1950年に増築されて45,000人収容となったが、1957年10月にトゥリア川が氾濫してバレンシア市全域が洪水に襲われ、メスタージャのピッチは大規模な復旧作業を必要とした[3]。復旧と同時に照明塔の建設など様々な改良工事が行われ、1959年の火祭りの期間中に再オープンした。今日では55,000人を収容し、スペインで5番目に大きなスタジアムである。2008-09シーズンは本来ならばメスタージャでの最終シーズンであり、2009-10シーズンより75,000人収容のノウ・メスタージャに移転するはずだったが、財政難により新スタジアムの工事が中断され、移転計画は遅延した[11]。2011年12月12日、マヌエル・ジョレンテ新会長はスペイン国内に7つの銀行を保有する金融グループであるバンキア(Bankia)と合意に達したが、その後バンキアが極度の経営難に陥って国有化されたため、建設計画は再び暗礁に乗り上げた[12][13]

タイトル

国内タイトル

国際タイトル

成績

シーズン 国内リーグ 国王杯[14] 欧州カップ その他大会 得点王[15]
ディビジョン 順位 試合数 勝利 引分 敗北 得点 失点 勝ち点 名前 得点数
1928-29 セグンダ 5位 18 8 3 7 33 31 19 2回戦敗退 セルベージョ 2
1929-30 6位 18 7 4 7 40 43 18 ベスト8 ナバーロ 4
1930-31 1位 18 12 2 4 37 25 26 ベスト8 ビラノバ 5
1931-32 プリメーラ 7位 18 6 3 9 38 47 15 2回戦敗退 カピージャス 9
1932-33 9位 18 4 5 9 34 53 13 ベスト4 コスタ 12
1933-34 7位 18 7 3 8 28 38 17 準優勝 ビラノバ 11
1934-35 9位 22 9 2 11 40 49 20 ベスト16 11
1935-36 8位 22 7 5 10 36 42 19 ベスト16 サンティアゴ 10
1936–37 スペイン内戦のため開催されず
1937–38
1938–39
1939-40 プリメーラ 8位 22 9 3 10 40 36 21 ベスト4 スアレス 19
1940-41 3位 22 11 5 6 60 52 27 優勝 27
1941-42 1位 26 18 4 4 85 39 40 ベスト4 29
1942-43 7位 26 10 7 9 58 45 27 ベスト4 26
1943-44 1位 26 18 4 4 73 32 40 準優勝 29
1944-45 5位 26 12 6 8 61 35 30 準優勝 20
1945-46 6位 26 9 10 7 44 36 28 準優勝 20
1946-47 1位 26 16 2 8 54 34 34 ベスト16 モレーナ 11
1947-48 2位 26 15 4 7 59 34 34 ベスト8 コパ・エバ・ドゥアルテ 準優勝 イゴア 15
1948-49 2位 26 16 3 7 78 47 35 優勝 スアレス
セグイ
19
1949-50 3位 26 12 7 7 71 43 31 ベスト4 コパ・エバ・ドゥアルテ 優勝 イゴア 28
1950-51 3位 30 17 3 10 64 48 37 ベスト16 バデネス 22
1951-52 5位 30 15 5 10 68 51 35 準優勝 21
1952-53 2位 30 16 8 6 66 42 40 ベスト16 フエルテス
バデネス
16
1953-54 3位 30 14 6 10 69 51 34 優勝 ヴィルケス 18
1954-55 5位 30 15 3 12 71 60 33 ベスト8 バデネス 22
1955-56 6位 30 13 6 11 58 50 32 ベスト16 ヴィルケス 11
1956-57 11位 30 10 7 13 43 46 27 ベスト4 イボーラ 10
1957-58 4位 30 13 10 7 56 40 36 ベスト8 ビルヘン 19[16]
1958-59 4位 30 13 7 10 47 41 33 ベスト4 ホエル
J・R・マチャード
テルセーロ
ワルテル
7
1959-60 9位 30 11 6 13 37 33 28 ベスト8 アベイロ 10
1960-61 5位 30 11 10 9 46 42 32 ベスト16 ヌニェス 15
1961-62 7位 30 12 11 7 50 50 31 ベスト4 フェアーズカップ 優勝 W・マチャード 22
1962-63 7位 30 14 3 13 49 36 31 ベスト8 フェアーズカップ 優勝 17
1963-64 6位 30 16 0 14 53 47 32 ベスト4 フェアーズカップ 準優勝 25
1964-65 4位 30 17 4 9 59 37 38 ベスト8 フェアーズカップ 1回戦敗退 22
1965-66 9位 30 11 5 14 40 35 27 ベスト16 フェアーズカップ 3回戦敗退 セルダ 12
1966-67 6位 30 14 4 12 58 37 32 優勝 フェアーズカップ 3回戦敗退 W・マチャード 29[17]
1967-68 4位 30 13 8 9 52 38 34 ベスト8 UCWC ベスト8 アンソーラ 17
1968-69 5位 30 10 11 9 36 39 31 ベスト8 フェアーズカップ 1回戦敗退 8
1969-70 6位 30 15 5 10 35 23 35 準優勝 フェアーズカップ 1回戦敗退 12
1970-71 1位 30 18 7 5 41 19 43 準優勝 フェアーズカップ 2回戦敗退 フォルメント 14
1971-72 2位 34 19 7 8 53 30 45 準優勝 CC 2回戦敗退 キーノ 14
1972-73 7位 34 12 10 12 37 33 34 ベスト16 UEFAカップ 2回戦敗退 バルデス 12
1973-74 10位 34 13 7 14 41 33 33 ベスト8 キーノ 12
1974-75 12位 34 12 8 14 53 48 32 5回戦敗退 クララムント 12
1975-76 10位 34 12 8 14 43 41 32 ベスト16 レップ 14
1976-77 6位 34 13 10 11 53 47 36 ベスト8 ケンペス 24[17]
1977-78 4位 34 16 7 11 54 33 39 ベスト8 39[18]
1978-79 7位 34 14 7 13 44 39 35 優勝 UEFAカップ 3回戦敗退 18
1979-80 6位 34 12 12 10 50 42 36 ベスト16 UCWC 優勝 33
1980-81 4位 34 17 8 9 59 41 42 3回戦敗退 UCWC 2回戦敗退 USC 優勝 モレーナ 24
1981-82 5位 34 17 5 12 54 46 39 ベスト16 UEFAカップ ベスト8 アルネセン 17
1982-83 15位 34 9 7 18 42 56 25 ベスト16 UEFAカップ ベスト8 ケンペス 13
1983-84 12位 34 12 8 14 45 47 32 ベスト16 11
1984-85 9位 34 9 15 10 40 37 33 ベスト16 カブレラ 14
1985-86 16位 34 8 9 17 38 62 25 4回戦敗退 カサボーナ 16
1986-87 セグンダ 1位 34 19 8 7 53 26 46 1回戦敗退 アルカニス 11
1987-88 プリメーラ 14位 38 10 13 15 44 53 33 ベスト32 ゴメス 11
1988-89 3位 38 18 13 7 39 26 49 ベスト32 15
1989-90 2位 38 20 13 5 67 42 53 ベスト4 UEFAカップ 2回戦敗退 15
1990-91 7位 38 15 10 13 44 40 40 ベスト8 UEFAカップ 2回戦敗退 12
1991-92 4位 38 20 7 11 63 42 47 ベスト8 ペネフ 18
1992-93 4位 38 19 10 9 60 33 48 ベスト4 UEFAカップ 1回戦敗退 21
1993-94 7位 38 14 12 12 55 50 40 ベスト16 UEFAカップ 2回戦敗退 ミヤトヴィッチ 19
1994-95 10位 38 13 12 13 53 48 38 準優勝 ペネフ 16
1995-96 2位 42 26 5 11 77 51 83 ベスト4 ミヤトヴィッチ 34
1996-97 10位 42 15 11 16 63 59 56 ベスト16 UEFAカップ ベスト8 ブラオヴィッチ
L・マチャード
10
1997-98 9位 38 16 7 15 58 52 55 ベスト16 イリエ 13
1998-99 4位 38 19 8 11 63 39 65 優勝 UEFAカップ 2回戦敗退 IT 優勝 C・ロペス 38
1999-00 3位 38 18 10 10 59 39 64 2回戦敗退 CL 準優勝 スーペルコパ 優勝 メンディエタ 19
2000-01 5位 38 18 9 11 55 34 63 2回戦敗退 CL 準優勝 フアン・サンチェス 17
2001-02 1位 38 21 12 5 51 27 75 1回戦敗退 UEFAカップ ベスト8 フアン・サンチェス
ルフェテ
8
2002-03 5位 38 17 9 12 56 35 60 2回戦敗退 CL ベスト8 スーペルコパ 準優勝 カリュー 13
2003-04 1位 38 23 8 7 71 27 77 ベスト8 UEFAカップ 優勝 ミスタ 24
2004-05 7位 38 14 16 8 54 39 58 2回戦敗退 CL GS敗退 USC 優勝 ディ・ヴァイオ 14
スーペルコパ 準優勝
UEFAカップ ベスト32
2005-06 3位 38 19 12 7 58 33 69 ベスト8 IT 準優勝 ビジャ 28
2006-07 4位 38 20 6 12 57 42 66 ベスト16 CL ベスト8 20
2007-08 10位 38 15 6 17 48 62 51 優勝 CL GS敗退 22
2008-09 6位 38 18 8 12 68 54 62 ベスト8 UEFAカップ ベスト32 スーペルコパ 準優勝 31
2009-10 3位 38 21 8 9 59 40 71 ベスト16 EL ベスト8 28
2010–11 3位 38 21 8 9 64 44 71 ベスト16 CL ベスト16 ソルダード 25
2011–12 3位 38 17 10 11 59 44 61 ベスト4 CL GS敗退 EL ベスト4 27
2012–13 5位 38 19 8 11 67 54 65 ベスト8 CL ベスト16 32
2013–14 9位 38 13 10 15 51 53 49 ベスト16 EL ベスト4 アルカセル 14
優勝 準優勝 昇格 降格

現所属メンバー

2014年8月21日現在

テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 (12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 (12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 (12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 (12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手(12px) テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了

括弧内の国旗はその他の保有国籍を、星印はEU圏外選手を示す。

監督

テンプレート:Flagicon ヌーノ・エスピーリト・サント

期限付き移籍(レンタル移籍)選手

in

テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 開始 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 中央 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 選手 テンプレート:サッカークラブチーム選手一覧 終了

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14/15移籍

テンプレート:Main

歴代監督

期間 名前 備考
1921-1922 フアン・アルメト・キンケ
1922-1923 アグスティン・サンチョ
1923-1927 テンプレート:Flagicon アントン・フィヴバー
1927-1929 ジェームス・エリオット
1929-1931 テンプレート:Flagicon アントン・フィヴバー
1931-1933 ロドルフォ・ギャロウエー
1933-1934 テンプレート:Flagicon ジャック・グリーンウェル
1934-1935 テンプレート:Flagicon アントン・フィヴバー
1935-1936 アンドレス・バルサ
1939-1942 テンプレート:Flagicon ラモン・エンシナス リーガ優勝1回,
コパ・デル・レイ優勝1回
1942-1943 レオポルド・コスタ・リノ
1943-1946 テンプレート:Flagicon エドゥアルド・クベルス リーガ優勝1回
1946-1948 テンプレート:Flagicon ルイス・カサス・パサリン リーガ優勝1回
1948-1954 テンプレート:Flagicon ジャシント・キンコセス コパ・デル・レイ優勝2回, スーペルコパ優勝1回
1954-1956 カルロス・イトゥラスペ
1956-1958 テンプレート:Flagicon ルイス・ミロ
1958-1959 テンプレート:Flagicon ジャシント・キンコセス
1959-1960 ペドロ・オットー・ブンベル
1960-1962 ドミンゴ・バルマンジャ
1962-1963 テンプレート:Flagicon アレハンドロ・スコペッリ UEFAカップ優勝2回
1963-1964 テンプレート:Flagicon ベルナルディーノ・ペレス
1964-1965 テンプレート:Flagicon エドムンド・スアレス・ムンド
1965-1966 サビノ・バリナガ
1966-1968 テンプレート:Flagicon エドムンド・スアレス・ムンド コパ・デル・レイ優勝1回
1968-1969 ホセ・イグレシアス・ジョセイト
1969-1970 エンリケ・ブケ
1970-1974 テンプレート:Flagicon アルフレッド・ディ・ステファノ リーガ優勝1回
1974-1975 ミロバン・チリッチ
1975-1976 ドゥラゴリュブ・ミロセヴィッチ
1976-1977 エリベルト・エレーラ
1977 マヌエル・メストレ
1977-1979 マルセル・ドミンゴ
1979 テンプレート:Flagicon ベルナルディーノ・ペレス
1979-1980 テンプレート:Flagicon アルフレッド・ディ・ステファノ UEFAカップウィナーズカップ優勝1回
1980-1982 テンプレート:Flagicon ベルナルディーノ・ペレス コパ・デル・レイ優勝1回, UEFAスーパーカップ優勝1回
1982 マヌエル・メストレ
1982-1983 ミラン・ミラニッチ
1983 コルド・アギーレ
1983-1984 テンプレート:Flagicon フランシスコ・ガルシア・パキート
1984-1985 ロベルト・ヒル
1985-1986 オスカル・ルベン・バルデス
1986-1988 テンプレート:Flagicon アルフレッド・ディ・ステファノ
1988 ロベルト・ヒル
1988-1991 テンプレート:Flagicon ビクトル・エスパラゴ
1991-1993 テンプレート:Flagicon フース・ヒディンク
1993 フランシスコ・レアル
1993-1994 テンプレート:Flagicon エクトル・ヌネス
1994 テンプレート:Flagicon ホセ・マヌエル・リエロ
1994 テンプレート:Flagicon フース・ヒディンク
1994-1995 テンプレート:Flagicon カルロス・アルベルト・パレイラ
1995 テンプレート:Flagicon ホセ・マヌエル・リエロ
1995-1997 テンプレート:Flagicon ルイス・アラゴネス
1997 テンプレート:Flagicon ホルヘ・バルダーノ
1997 テンプレート:Flagicon ホセ・マヌエル・リエロ
1997-1999 テンプレート:Flagicon クラウディオ・ラニエリ コパ・デル・レイ優勝1回,
UEFAインタートトカップ優勝1回
1999-2001 テンプレート:Flagicon エクトル・クーペル スーペルコパ優勝1回
2001-2004 テンプレート:Flagicon ラファエル・ベニテス リーガ優勝2回,
UEFAカップ優勝1回
2004-2005 テンプレート:Flagicon クラウディオ・ラニエリ UEFAスーパーカップ優勝1回
2005 テンプレート:Flagicon アントニオ・ロペス
2005-2007 テンプレート:Flagicon キケ・サンチェス・フローレス
2007-2008 テンプレート:Flagicon ロナルド・クーマン コパ・デル・レイ優勝1回
2008 テンプレート:Flagicon ボロ
2008-2012 テンプレート:Flagicon ウナイ・エメリ
2012 テンプレート:Flagicon マウリシオ・ペジェグリーノ
2012-2013 テンプレート:Flagicon エルネスト・バルベルデ
2013 テンプレート:Flagicon ミロスラヴ・ジュキッチ
2013-2014 テンプレート:Flagiconテンプレート:Flagicon フアン・アントニオ・ピッツィ
2014- テンプレート:Flagicon ヌーノ・エスピーリト・サント

歴代所属選手

テンプレート:Main

GK

DF


MF


FW


関連項目

脚注

テンプレート:脚注ヘルプテンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:Sister

テンプレート:バレンシアのメンバー テンプレート:Navbox テンプレート:スペインのサッカー

  1. Football Europe: Valencia CFUEFA.com
  2. Sociological Investigation Center – CIS, May barometers テンプレート:Es icon
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 3.4 3.5 Classic Club Valencia CF FIFA.com
  4. 2003–2004 season
  5. テンプレート:Cite web
  6. バレンシア 財政難により主力選手放出へAFP BB News、2008年7月22日]
  7. バレンシア会長:「クラブの負債はだいぶ減った」Goal.com、2011年6月5日]
  8. バレンシアから届いた日本への思い スポーツナビ、2011年4月21日
  9. バレンシア、MFマタのチェルシー移籍に合意ロイター、2011年8月22日]
  10. なお、1994-95シーズンに3位となったレアル・ベティスの獲得勝ち点は46であり、これを現行の勝利=3ポイントとして計算しなおすと勝ち点61となる。
  11. [1]World Soccer、2009年4月5日テンプレート:リンク切れ
  12. バレンシア、新メスタージャ建設が再び暗礁にGoal.com、2012年9月15日]
  13. バンキア、バレンシアとの不動産融資合意を破棄Goal.com、2012年9月22日]
  14. Spanish Cup Winners
  15. リーガ・エスパニョーラコパ・デル・レイコパ・デ・ラ・リーガスーペルコパ・デ・エスパーニャ、欧州カップ戦などの通算得点数
  16. 19 goals in the La Liga
  17. 17.0 17.1 24 goals in the La Liga
  18. 28 goals in the La Liga