ハリファックス大爆発

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テンプレート:出典の明記 テンプレート:Infobox 事故 ハリファックス大爆発(ハリファックスだいばくはつ、テンプレート:Lang-en-short)は、1917年12月6日に発生した爆発事故火薬によるものとしては世界最大級の爆発である。

概要

ファイル:Halifax explosion - Imo.jpg
貨物船・イモの残骸

1917年12月6日カナダノバスコシア州ハリファックス港で軍用火薬を積んだフランス船籍の貨物船モンブランとベルギー船籍の貨物船イモが衝突し、モンブラン船上にあったドラム缶入りのベンゾール着火し、それが船倉のトリニトロトルエン (TNT)、ピクリン酸綿火薬等、約2,600トンの火薬類に燃え移った。

モンブランの船員水先案内人ボートでハリファックスの対岸にあるダートマスへ逃げたが、火災を起こした無人の船はその後ハリファックスの波止場に流れつき、約25分後に大爆発した。そして集まった消火隊、救助隊、見物人など約2,000人が死亡、約9,000人が負傷し、市の大半は廃墟になった。

地理条件

ハリファックスカナダにあり、ノバ・スコシア州の州都で当時の人口は5万人であった。

当時ヨーロッパで3年前の1914年第一次世界大戦が起こっており、ハリファックスは北アメリカからヨーロッパへの軍需品の積み出しが盛んに行われており、外洋船の往来が盛んであった。

ハリファックスは自然の良港で冬も凍らず、しかもフランスイギリスへ最短距離の位置にあった。港は南北に細長い入り江をなして、長さ15km、幅は狭いところで0.5kmで、西側に市街があり前面に埠頭が並び、東側は人口7,000人のダートマスがあった。北側には袋状の広い泊地が開けており、北アメリカ大陸からの軍需物資輸送船は、そこに集結し、ドイツ潜水艦対策のため船団を組んで大西洋を渡っていた。入り江の南端の入り口、外洋に開く手前にはドイツ潜水艦の侵入を防ぐための対潜網が敷設されており、夜間は閉鎖し、朝定時に開いた。

この時期のハリファックス港は常に混雑しており、外洋船、フェリー漁船が入り乱れ、港の管理が不十分であり、船舶の小さな衝突は頻繁に発生していた。

人と船と積荷

ノルウェー船籍の貨物船イモ(5,043トン)は前日ボイラー用の石炭の積み込みが遅れて出港できず、北側の泊地で夜を過ごし、朝早く入り江を南下してきた。この時はイモは空船でニューヨークベルギー向け民需品を積む予定であった。

フランス船籍のモンブラン(3,121トン)は前夜到着が遅れて入港できず、対潜網の外側で待機していた。この船は老朽船で戦時中でなければ引退していたであろう船であった。フランス人船長、エメー・ル・メデックはこの船の操縦は初めてであった。港の水先案内人、フランシス・マッケイは経験豊富で、前日夕方に港外で乗船していた。この船は第1表に掲げた火薬などの危険な貨物を数日前にニューヨークで積み込んで12月1日に出港し、ハリファックスからフランスに向かう予定であった。また、モンブランは積荷の危険性を考慮して、船倉は材木で内張りしを使っていた。火薬類は船倉に、ベンゾールはデッキにあり、船上は火気厳禁であった。

なお、火薬積載船は、危険物の取り扱いを示す国際信号旗(B旗)を掲げる規則になっているが、ドイツの潜水艦の標的となるので当時掲げていなかった。

  • 第1表 モンブランの積荷リスト
品名 数量
トリニトロトルエン (TNT) 227t
湿ピクリン酸 1,602t
乾ピクリン酸 544t
綿火薬 56t
ベンゾール 223t

爆発に到る経過

うららかな初冬のその朝、ベルギー船イモは港の北側の泊地から南下し、フランス船モンブランは7時30分に対潜網が開くと同時に南から北上して来た。

水上交通は通常右側通行であるが、ハリファックス港では南の海から入港する船は右側(東側)を通ると埠頭に遠いので、左側を通ることが多かった。イモの乗員はそれを知っていて左側を南下し、左側を通って北上する2隻の船とすれ違った。

ファイル:Halifax Explosion blast cloud restored.jpg
爆発から15-20秒後に撮影された、煙を捉えた写真(撮影者不詳)。

ところが3隻目のモンブランは、朝もやの中を規則どおり右側(東側)を通って北上した。そして同じ東側を南下してくるイモを見つけ、西側を「規則通り」通れと汽笛で信号した。ところが驚いたことにイモは針路を変えずに東側を通ると返事をしてもっと東に寄った。何故そうしたのか、イモの船長と水先案内人が爆発で死亡してしまったので真相はわからないが、両船は港内規則の4ノット以下よりかなり速く、7ノットぐらいで航行していたという証言がある。

汽笛の応酬をしているうちに両船はたちまち近づき、衝突を避けようとモンブランは左に転針し、イモは全後速をかけた。だが時すでに遅く、イモは右に大きく振れ、舳先がモンブランの右側に衝突した。8時45分頃であった。衝突と言っても接触程度であり通常ならば小さな事故で済んだが、モンブランにはベンゾールが入ったドラム缶220トンがデッキに3段に積んであり、倒れたドラム缶からベンゾールが漏れ、接触の際の火花で引火し、多量の黒煙を上げ、その火はやがて船倉の爆薬に燃え移った。

積荷が大量の爆発物であることを知っていたモンブランの乗組員は積極的に消火をせず(消火は不可能だったと証言している)、すぐにボートに乗り移り、ハリファックス対岸のダートマスに逃げた。逃げる途中彼らは、他の人や船に逃げろと叫んだが、フランス語であったため理解されなかった。前述のように、火薬積載船はそれを示す国際信号旗を掲げる規則になっているが、ドイツ潜水艦の好目標となるので掲げていなかったことも災いした。

燃え上がり漂流する無人のモンブランは、ハリファックスの第6埠頭に流れ着き、火は埠頭にあった木造の建物に燃え移った。

そして、消防隊、救助のため集まった人や船、見物人の真っ只中でモンブランは大爆発した。時刻は9時4分35秒で船の衝突から爆発まで約25分経っていた。

爆発の煙は上空7,000mまで上がり、広範囲の地域から望見された。

爆発による被害

爆発によりモンブランの船体は粉々になり、あまりの衝撃の大きさで大砲の砲身が町を越え4km、錨の一部0.5トンは逆の方向に5km飛ぶほどだった。爆発地点周辺の2km四方は完全に破壊され、さらに各所で起きた火災や爆発の衝撃で起きた18mの高さの津波などで約13,000の建物が全半壊、家を失った市民は6,000人にも及んだ。港の周辺には鉄道発電所電報電話局郵便局など中枢機能が集中し、このことから市から外部への連絡が一時途絶してしまう。また現場の周辺は工場密集地帯でもあり、その従業員や管理職など中流・下流の市民が居住。南側の小高い丘を挟んだ比較的上流階級が住む一帯(但し、学校病院・カナダ軍の駐屯地なども立地していた)が比較的被害が軽微で済んだのと、明暗を分ける格好となった。

爆発では1,500人がほぼ即死、その日の夜半から翌日にかけての寒波の到来や大雪によって倒壊した家の下敷きになったまま凍死するなど、その後の数日間で400人が死亡している。また失明者も約200名に上った。最初の火災発生時にベンゾールのドラム缶が小さな爆発を起こして火を吹きながら空中を高く飛ぶのを多くの住民が家の中から窓越しに目撃していたところ、直後の爆発の衝撃で割れた窓ガラスによって目を損傷したことに因る。

対岸のダートマスは爆発地点から距離があり、人口も少なかったものの、それでも100人ほどが死亡した。

救援

ハリファックス市内で被害を免れた地域から医師看護師、救援人員が集まり、ただちに救援活動が始まった。医療スタッフが不足したため、市内のダルハウジー大学の医学生が動員された。1年生はその年の9月に入学したばかりだったが、この活動で多大の実務経験を得たといわれている。

市の消防隊は隊長、副隊長が爆発で死亡し、最新式の消防自動車が破壊されたので、近隣町村の消防隊が救援に来た。

朝には、ハリファックスを出港していたアメリカの医療船は、次々と人員と物資を持って引き返して来た。

セントローレンス川は既に氷結していたので、カナダ最大の都市モントリオールからは来られなかった。近くの大都市はアメリカのボストンであり、約1,000kmの距離で鉄道が通じていたため、爆発直後から救援活動が始まり、医者、医料品、救援隊、救援物資が続々と送りこまれた。ハリファックス市民はこれに感謝の気持ちを持ち続け、約90年経った今でも毎年巨大なクリスマスツリーをボストンに贈っている。

裁判

人的、経済的に多大の損害を受けたハリファックスの住民感情を考慮して、1週間後に査問会議が開かれた。

この会議で港の管理責任者がイモは出港を届け出ていないという重大な事実を持ち出したが、届け出自体が有名無実で実際には習慣的に実行されていなかったことが明らかになった。イモの所有者が雇った非常に高名で有能な弁護士が会議を牛耳り、最後に転針したモンブランに全責任があるという結論をひきだした。モンブランの船長、水先案内人、港の管理責任者の3人が殺人罪で起訴され収監された。これに対してモンブランの所有者側は直ちにカナダの最高裁判所に提訴した。これは更に英国枢密院に持ち込まれ、最終的にイモとモンブランが2票ずつ、両方に同等の責任があるとし、殺人罪の3人は証拠不十分で釈放された。

その他

本爆発事故を調査する過程において、その威力の大きさが反射波によるものであることがわかった。これは、皮肉にもその後の兵器に利用され、原子爆弾も上空で爆発させることによって破壊力を増した。

参考文献

  • ハリファックス大爆発、土屋能男、Explosion (火薬学会)Vol.19, No.2, 52, (2009)
  • Ground zero, A reassessment of the 1917 explosion in Halifax harbour, co-edited by Allan Ruffman and Colin D. Howell (1994), Porceedings of 1992 conference (75-year anniversary).

関連項目

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