トム・ヨーク

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トム・ヨーク(Thomas Edward "Thom" Yorke、1968年10月7日 - )は、イギリス出身のミュージシャンオルタナティヴ・ロックバンド「レディオヘッド」のボーカルギターピアノ他多くの楽器演奏とソングライターを務める。ソロアーティストとしても活動。2006年にはソロデビューアルバム「ジ・イレイザー」("The Eraser")をリリース。2009年には新バンド「アトムス・フォー・ピース」"Atoms for Peace"をナイジェル・ゴッドリッチレッド・ホット・チリ・ペッパーズフリーらと結成し、さらに活動の幅を広げている。

2002年の『Q (雑誌)Q』誌において「最も精力的なイギリス人ミュージシャンの一人」に選出、「Q誌の選ぶ歴史上最も偉大な100人のシンガー」において第13位に選出された[1]

2005年の『ブレンダー』誌における「歴代の偉大なポピュラーミュージック・シンガー投票」で18番目に選出されている。

2008年の『ローリング・ストーン』誌においては「歴史上最も偉大なシンガー100人」の第66位に選出された[2]

生い立ち

1968年10月7日、イングランドのノーサンプトンシャーに生まれる。生後間もなく、化学工業関係に勤めていた父グレアムの仕事の関係でスコットランドに転居した。生まれた時、左目は完全に麻痺していた。「僕の瞼は閉じたままで、誰もが一生このままだと思っていた。その後ある専門医が義眼みたいに筋肉を移植できることを思いついた。そして僕は生後間もなくから6歳までの間に大きな手術を6回受けたんだ。彼らは最後の手術を失敗して僕の目は半分見えなくなったんだ」と本人はインタビューで語っている。半年に2回の引っ越しと、年中付けている眼帯で、子供の頃のストレスは相当なものだった。

1976年、父の仕事の関係でイングランド南部へ再び転居した。8歳の誕生日に安いスパニッシュ・ギターをプレゼントされる。人生で初めて熱中した楽器となり、短期間だがギタースクールにも通った。1978年、引っ越し続きだった一家は、ようやくオックスフォードに落ち着く。1980年まで、オックスフォード、ウィットニーのスタンドレイク聖公会小学校に通った。後に弟のアンディ・ヨークも入学した。母バーバラは教師で、その学校の教壇に立っていた。

1978年、10歳でスクールの友達と生まれて初めてバンドを結成。楽器が出来るのがそもそもトムだけで、「バンドというよりギターの配線を面白おかしくして燃やしたりする科学グループ」(Q誌)だったらしい。1979年、11歳で生まれて初めて作曲を行う。曲名は「Mushroom Cloud」で、原子爆弾の爆発を歌った曲。「(きのこ雲の)恐ろしさではなく、ただ単純にその見た目について書いた曲」と、後年インタビューで話している。(1998年Opinion誌)

レディオヘッド結成

1981年、男子全寮制のパブリックスクールであるアビントン・スクールに入学した。1982年コリン・グリーンウッドらスクールの友人達とパンクバンド「TNT」を結成した。その後、コリンとトムの2人は隙を見て脱退した。1985年エド・オブライエンをギターとして勧誘し、3人をオリジナル・メンバーとしてバンドを結成した。メンバーは流動的で、一時はホーンセクションが在籍していたこともあった。その後、リズムを刻んでいたドラムマシンが故障したため、上級生のドラマーフィル・セルウェイを勧誘してレディオヘッドの前身「オン・ア・フライデー」を結成した。兄のバンドに入りたがっていた当時15歳のジョニー・グリーンウッドをサポートメンバー、キーボードとして入れる。

1987年、スクールを卒業した。1年間いくつかのアルバイトを転々として生計を立てる(ほぼ全てクビになるか自分から辞めており、一つも長続きしていない)。1988年、トム単身でエクセターに移り、エクセター大学に入学、バンドは一時休止した。大学で将来の妻レイチェル・オーエンスと出会う。大学では一時的に「ヘッドレス(ヘッドレス・チキン)」というバンドに参加。メンバーの一人、ジョン・マティアスザ・ベンズではコーラス・ストリングスに参加)はメジャーデビューしており、現在も活動中である。ザ・ベンズ収録の「High & Dry」はこのバンドでトムが書き下ろした曲である。1991年春、単位を取得し、エクセター大学を卒業した。ヘッドレスを抜けオックスフォードへと戻る。オン・ア・フライデーは活動再開し、ジョニーがギタリスト兼キーボーディストとして正式加入した。

1992年EMI傘下パーロフォンと契約する。レディオヘッドとバンド名を変えてメジャーデビューした。2000年ビョークのアルバム『セルマソングス〜ミュージック・フロム・ダンサー・イン・ザ・ダーク』収録曲「アイヴ・シーン・イット・オール」にゲスト参加した。2001年2月、学生時代からの恋人であるレイチェル・オーエンスとの間に息子ノアが生まれる。2006年7月5日、初のソロ・アルバム『The Eraser』を発売した。

使用楽器

エレクトリックギターフェンダー・テレキャスター系をメインにしており、近年はテレキャスター・カスタム、テレキャスター・デラックスといった派生モデルを多く使用する。それ以外にも、リッケンバッカーギブソン・SGフェンダー・ジャズマスターなども曲によって使い分ける。エレアコも多く使用し、特にOK コンピューター以降は使用頻度が高い曲が多い。エフェクターは歪みとディレイを中心とした汎用的なシステムを使用。ツアーごとに買い替えているのか、頻繁にエフェクターは変化するが、「歪みに空間系」という基本的な構成自体はデビュー当初から変わらない。アコースティックギターはほぼアコースティックギグ専用であり、エフェクターでダイナミックに音色を変化させる必要のある曲が多いため、通常のギグでは基本的にエレアコを使う。

ピアノシンセサイザーハルモニウムなどの鍵盤楽器も使用する。特にピアノは、ヤマハのものが多い。その他、タンバリンやミニドラムキットなど、曲に合わせて様々な楽器を演奏する。

歌唱・演奏スタイル

美しい高音の裏声を多用した歌唱スタイルが特徴。「女性や子供のよう」とも形容されるが、トムのコンプレックスでもあり、『Kid A』では意図的にそのスタイルを封印して歌声をノイズやエフェクトでかき消したりなど、時期によって試行錯誤を重ねている。パブロ・ハニー期には線の細い歌声とは正反対の、エモーショナルなシャウトを用いていたこともあった。現在では、本来の高い裏声をメインにした歌唱に戻っており、2006年のソロ・アルバム以降のインタビューでは「僕にはこの声しかないって改めて分かった」などと語っており、後の『イン・レインボウズ』では、それまで以上に披露している。

レディオヘッドの楽曲は一部のプログラミング主体の曲以外、トムの弾き語りを基調にバンドサウンドを肉付けしていくものが非常に多いため、トムのギタープレイはその多くが、伴奏となるコードプレイもしくはリフ主体であり、ギターノイズやリードプレイはエド・オブライエンジョニー・グリーンウッドに任せている。しかし、多くのバンドのリード・ヴォーカルの弾くようなサイド・ギターとしてのプレイ一辺倒というわけではなく、歌いながらメロディー・ラインとは全くリズムの違うリフを弾いていたりなど、ギター歴が非常に長いだけあって、目立たないながらも技術は高い水準にある。デビュー初期は非常に低い位置でギターを構えていたが、現在は標準もしくはやや高めになっている。

Kid A』以降から、本格的に鍵盤の弾き語りも行うが、ほとんど独学のためか、シンセサイザーに関しても「プログラミングや演奏はジョニーやコリンのほうが得意」と謙遜している。

レディオヘッドにおける貢献・作風

バンドの楽曲のすべての作詞を手掛ける。作曲もメンバーで最も貢献度が高いと言えるが、レディオヘッドの楽曲の多くはデモや大枠をトムが作り、アレンジをメンバー5人とナイジェル・ゴッドリッチで議論しながら行うというスタイルをとっているため、一人でバンドのすべての曲を一から十まで作曲しているわけではない[3]。ソロアーティストとしても活動。 第三世界人権問題環境問題を軽視するコマーシャリズムグローバリズムに嫌悪感を抱いており、貿易法改善を呼びかけるといった社会運動にも積極的に参加している。楽曲の歌詞にも政治、社会問題に関連して(多くは婉曲的に)書かれたものがいくつか存在するが、その多くは何らかの扇動的意識や不特定多数への問いかけを内包しているというより、むしろアイロニカルで厭世的なものであり、ここは同じく政治的な歌詞が目立つU2ボノR.E.M.マイケル・スタイプとの大きな相違点である。

批判

ヨークの行動はさまざまな歌手によって批判され続けている。 2001年にステレオフォニックスのリードシンガー、ケリー・ジョーンズはヨークのことを「みじめな弱虫(Miserable twat)」と発言。ジャック・ブラックがヨークのソロ活動を祝うパーティーに出席するもののヨークはブラックを無視、その後ブラックはインタビューで「彼は風邪だときいてるし、無視されたのは僕だけじゃない。」と語っている。また、オアシスのリアムはトムの「ロックはゴミ音楽」という発言に怒り、「トム・ヨークがゴミじゃねぇか。俺はゴミ人間だと思う」と発言を引用して批判している。 2009年の初めからはプレスを通じてローナン・キーティングが批判を続けている。その理由として、トムがキーティングとボーイゾーンのメンバーに対して無礼な態度をとっているからだとし、「山から突き落としたい」とキーティングは語っている。その他にも、マイリー・サイラスカニエ・ウェストもヨークの行動を批判している。

発言

  • 「『あなたの目は美しいんだけど、何かが全く違っているのよ。』表現者としての僕を最初に批評してくれた人が言った言葉だよ」[4]
  • 「小さい頃はただスターを目指してたよ。もしかすると、今もそうかもしれないね」[5]
  • ロックなんてゴミ音楽じゃないか! 僕はゴミだと思う」[6]
  • 「僕らは民主的だから、何一つ決まらないんだ。だからいつも苦しむんだ」[7]
  • 「基本的に僕らのアルバムには完全に近い凝集性がある。シングル用じゃないから時間をかけずとか、そんなこと"何言ってんだこのクソ野郎は"ってぐらい、よく理解できない」[8]
  • 「作品を出す時、余計な人が絡んでこないのがすごく魅力的だったんだ」[9]
  • ピクシーズなんかは最初からキッズに対して媚びた音楽は作っていなかった。そういうモデルは目指すべきものだと思った」[10]
  • 「Radioheadってバンド名は、その名の通り、僕らの姿勢を代弁している」[11]
  • 「僕は(大学に)行ったよ。他のアーティストをリスペクトするように教わった」(ノエル・ギャラガーのトムに対する「あんたがどれだけ"俺達は不運だ"って言うことに時間を費やしたとしても、客はクリープを歌ってほしいだけなのさ」「俺は大学になんか行ってねえ」などの攻撃的な発言に対して)
  • 「ちょっと待って、君の仕事は何?」(インタビューで家族のことに話が及んだ際)[12]
  • 鬱病って言うのは病気だ。そういうのをアーティスティクなものと関連付けようとする輩もいるけど、頭がおかしいとしか思えない。それはただの苦しい病気なんだよ。病人を冒涜している」[13]
  • 「そこらへんを歩いている人々すべてに悲観的観測をしていたら、確実に気が狂ってしまうことに気付いた」[14]
  • 「この世界(=音楽業界)は隙あらば寝首をかいてやろうって人に溢れている。でもR.E.M.のメンバーは本当に僕たちに良くしてくれている」[15]
  • 「最近のシーンでドラムをドンドン叩くバンドがいっぱいいるけど、なんでそうする必然性があるのかもう少し理由を考えてみるべきだと思う」[16]
  • 「あの頃は色々最悪だったんだけど、一番酷かったのは髪型かな…。」(デビュー初期の自分について)[17]

エピソード・人物

  • ベジタリアンであるが、偏執的に固執はしない。ちなみに、コリン以外のメンバーは、皆同じくベジタリアン。
  • 自他共に認める非常に気難しい性格。他人に心を開くまで時間がかかり、それまでは冷たい人と思われることがあるらしいが、慣れれば非常に良い人だそうだ。コリン・グリーンウッド曰く、若い頃は「癇癪持ちで赤の他人にとってはちょっと近寄りがたい性格」で、デビュー後もステージ上や公の場で笑顔を見せることは非常に少なかったが、2003年以降のインタビューでは「僕も年取ったし、大人になった」とコメントしている。ヘイル・トゥ・ザ・シーフツアー以降は、それ以前とは打って変わって、ステージ上でおどけたり、笑顔を見せることも多い。
  • 一番心に残っているギグは、1997年のグラストンベリー・フェスティバルと語る。グラストンベリーとしても記憶に残るギグとして、しばしば多くの英ロック雑誌のランキング投票で上位に挙げられる。
  • 意外にも、楽譜の読み書きが多少苦手で、一時期には克服しようと努力していたが、グリーンウッド兄弟に「そんなバカなことをやるなら曲のデモの一つでも作ってくれ」と諭され、諦めている。ちなみに、レコーディングストリングスホーンセクションを呼ぶ際は、昔から基本的にジョニー・グリーンウッドが譜面を書く。
  • OK コンピューター』期前後までノートを常時持ち歩いており、それを片手にインタビューを受けることも多かった。単なる落書きや歌詞のインスピレーションとなる言葉など、様々なものを書き殴っていたらしい。
  • 嫌いで有名。歌詞の多くで否定的に綴られている。自身も学生時代に大きな事故にあっており、二酸化炭素の大量排出やグローバル資本主義第三世界労働者軽視の象徴という意味でも、車産業・車メーカーを忌み嫌っている。近場の移動には自転車を使用する。
  • 1997年~2000年前後まで鬱病で医療機関にかかり、抗鬱剤を服用していたことを認めている(SPIN誌他)。
  • 表記はThomであり本来なら「ソム」と発音しそうなものだが、これはThomasの愛称であるため、フランス語圏の発音でもある「トム」で特に問題はない。[18]
  • 生まれた時、彼の左目は開いていなかった。これが原因で、アビントン・スクールでは「サラマンダー」(=サンショウウオ)というあだ名で呼ばれていた。6歳までに筋肉移植の手術を5回も受けているが、後遺症が残ってしまい、トムは「最初の医者がしくじりやがった」と憤っている[19]
  • 本国やアメリカでは、顔がロシアプーチンに似ていると話の種にされることがある。メンバーのエド・オブライエンの公式ダイアリーでも、それについて触れている。
  • 自家にいる際は、ニュースチャンネルに一日中かぶりついていることもあるらしい。また、ラジオをいつも持ち歩いている。
  • エクセター大学の卒業作品で取り組んだのは、Macintoshを使い、ミケランジェロの絵画の色をすべて変えて、自分の作品に仕立て上げるというもの。
  • マルタン・マルジェラの服を度々着用している。
  • オアシスノエル・ギャラガーとは、しばしばメディアを介して舌戦を繰り広げる。ちなみに、弟のリアム・ギャラガーは、レディオヘッド自体も曲も嫌いだが、ノエルはバンドをけなしながらも、新譜が出ると毎回購入し、「ライブでは一発御見舞いされる」と発言するなど、評価している。『OK コンピューター』の収録曲「カーマ・ポリス」は、レディオヘッド・ベストに挙げられている。
  • その一方でブラーを絶賛しており、シングル「アウト・オブ・タイム」を名曲だと発言した。また、彼らの3rdアルバム『パークライフ』を「素晴らしいアルバム。(リリース時は)あれに負けないようなアルバムを作らなければならないと思っていた」などと発言をしていた。ちなみに、その時に制作していたアルバムが『ザ・ベンズ』である。
  • 自身、趣味が悩む事と称している通り、音楽雑誌などのメディアからインタビューなどを受けても、バンドの環境や自分の声質など常に何かに悩んでいることが伺える。また、本人曰く「自分の減らず口と皮肉さは最大の悩み事であり、最大の取り柄である」と語っている。
  • [1995年アンケートより]

ディスコグラフィー

The Eraser (2006)

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

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  1. テンプレート:Cite web
  2. テンプレート:Cite web
  3. ただし、Kid Aアムニージアック期のセッション・レコーディングを振り返り「あの時期のバンドを国連に例えるなら僕がアメリカの立場だった」と様々なメディアで発言している。(SPINNME他)この時期は特に、OK コンピューター後はロックポップス的作風への回帰を志向していたエド・オブライエンとの意見の折衝が大きかったようである
  4. Jon Wiederhorn「static electricity」、ローリング・ストーン
  5. 2001年NME
  6. Kid A期の数多くのインタビュー
  7. 2001、Giga Moris「in fact」
  8. 1997年、Jim IrvinによるMojo誌においてのインタビュー
  9. イン・レインボウズの発売方法についてのインタビュー。Q誌
  10. 1996年James Alart。Mojo誌
  11. 2001年、Q誌Anthony Johnstoneによるインタビュー
  12. 2001年UNCUT誌
  13. 同上のインタビューで
  14. 同上
  15. R.E.M.の前座として回ったツアーで
  16. 2006年 Q誌のメールによる質疑インタビューにおいて
  17. 2003年Mojo誌「How to Do "Yorke" Completely」
  18. http://www.youtube.com/watch?v=a73i4PoNflg
  19. Bigread誌等