レッド・ホット・チリ・ペッパーズ

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テンプレート:Infobox Musician レッド・ホット・チリ・ペッパーズ (Red Hot Chili Peppers) は、アメリカ合衆国カリフォルニア州出身のロックバンドである。日本での通称は「レッチリ」。世界での主な通称は「RHCP」や「Chili Peppers」。

ファンクヒップホップを、パンク・ロックハードロックなどと混ぜ合わせた、ミクスチャー・ロックと呼ばれるバンドのひとつ(ただし、ミクスチャー・ロックは和製英語であり、日本以外では通用しない呼称)。現在、オリジナル・アルバムを10枚、ベスト・アルバムを2枚発表している。

2012年に、ロックの殿堂入りを果たした。

略歴

メンバーがそれまでに所属していたバンドには、チェイン・リアクション (Chain Reaction) やアンセム (Anthym) などがある。

1983年 - アンソニー・キーディスフリーヒレル・スロヴァクジャック・アイアンズによりバンド結成。

1984年 - Capitol/EMIと契約し、デビューアルバム『レッド・ホット・チリ・ペッパーズ』をリリース。プロデューサーにギャング・オブ・フォーアンディ・ギルを迎えて作成されるが、この作品には、ヒレルとジャックは参加していない。

1985年 - ヒレルが復帰して、アルバム『フリーキー・スタイリー』をリリース。プロデューサーに、ジョージ・クリントンを迎えて作成された。

1987年 - アルバム『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』をリリース。前作で復帰したヒレルに続き、ジャックもバンド復帰して制作された作品で、最初で最後のオリジナルフルメンバーによるアルバムになった。このアルバムから、初めて日本盤が発売される。

1988年 - ヒレルが、ヘロインの摂取過多により死亡。これに伴い、ジャックもバンドから脱退してしまう。

1989年 - 新メンバーに、ジョン・フルシアンテチャド・スミスを迎え、アルバム『母乳』をリリース。このアルバムの裏ジャケットの絵画は、ヒレルが生前に描いたものである。初めてのチャートヒット作品となり、この頃から大会場規模なツアーを行うようになる。

1991年 - Capitol/EMIからWarnar Brothers Recordsに移籍し、アルバム『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』をリリース。全世界レベルでのブレイク作品となる。現在のプロデューサーであるリック・ルービンを迎えた作品。このアルバムに収録され、シングルカットされたUnder The Bridgeで、初の全米1位を獲得。また、同じくシングルカットされたGive it awayは、グラミー賞のハードロック部門最優秀シングル賞を受賞している。

1992年 - 世界ツアーでの来日中、ジョンが突如帰国、脱退してしまう。

1995年 - ギタリストデイヴ・ナヴァロを迎え、アルバム『ワン・ホット・ミニット』をリリース。しかし、デイヴはこの作品のみで脱退してしまう。

1999年 - ジョン・フルシアンテが復帰し、アルバム『カリフォルニケイション』をリリース。「スカー・ティッシュ - Scar tissue」で、2度目のグラミー賞を受賞。驚異的なセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となる。

2002年 - アルバム『バイ・ザ・ウェイ』をリリース。チャドが「very john」と表現したように[1]、ジョン色が全面に押し出されたアルバムとなった。アルバムチャートでは、ついにイギリスで1位を獲得した。

2006年 - アルバム『ステイディアム・アーケイディアム』をリリース。初のアメリカアルバムチャート1位をはじめとして、全世界24ヶ国で1位を獲得。日本のアルバムチャートでも、2枚組の洋楽アルバムとしては、史上初の初登場1位を獲得した。先行シングルとなったDani Californiaが、同年に日本で公開された『デスノート』の主題歌として採用。同アルバム収録のSnow ((Hey Oh))も『デスノート the Last name』の主題歌に採用された。また、このアルバムで3度目のグラミー賞を受賞している。

2006年 - 7月28日に、テレビ朝日系の音楽番組『ミュージックステーション』に出演。日本のテレビ番組で、生出演や演奏はデビュー23年目で初めて。

2007年 - 3月19日の京セラドーム大阪、3月22日・23日の東京ドームの公演は、いずれもアンソニーが「急性肺炎、10日間の絶対安静」との医師の所見のため、3月17日の来日直前になって急遽延期された。

2009年 - ジョン・フルシアンテがソロキャリアで自分の志向を突き詰めたいとして脱退。テンプレート:要出典範囲

2011年 - 新ギタリストとしてジョシュ・クリングホッファーが加入し、アルバム『アイム・ウィズ・ユー』を前作から5年ぶりにリリース。リリース間隔として5年のブランクは結成以来最長である。

メンバー

アンソニー・キーディス (Anthony Kiedis) - ボーカリスト作詞家
1962年11月1日生まれ(1983年-)ミシガン州グランド・ラピッズ出身。175cm。バンド結成時からのメンバーだが、『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』のレコーディングの頃に一度脱退、その後に復帰した。2006年に、自伝『スカー・ティッシュ』を発表。環境保護団体のシーシェパードのスポンサーとしての側面も持つ。
フリー (Flea、本名マイケル・バルザリー (Michael Balzary)) - ベーシストバッキング・ボーカリスト
1962年10月16日生まれ(1983年-)オーストラリアメルボルン出身。身長168cm。同じく、バンド結成時からのメンバー。ベースの技量は高く、All Music Guideにおいて「one of rock's most talented bassists(史上最も才能豊かなロックベーシストの一人)」と評されている。これまでも様々なミュージシャンと共同活動を行ってきたが、2009年レディオヘッドトム・ヨークと新バンドを結成。2012年ブラーデーモン・アルバーントニー・アレンとRocket Juice & The Moonを結成。
チャド・スミス (Chad Smith) - ドラマー
1961年10月25日生まれ(1989年-)ミネソタ州セント・ポール出身。身長191cmの巨漢。脱退したジャック・アイアンズの後任ドラマーを決めるオーディションで実力を買われて加入。アルバム、「母乳」での一節より、当初はレザージャケットと頭にバンダナを巻いたロッカースタイルがメンバーの間で気に入られず、スキンヘッドにさせようという話があった模様。ソロ活動も精力的で、ドラム・セミナーなどで来日も果たしている。他のメンバーと同様、チリ・ペッパーズ以外にもサイド・プロジェクトを手掛ける。
ジョシュ・クリングホッファー (Josh Klinghoffer) - ギタリストバッキング・ボーカリスト
1979年10月3日生まれ(2010年-)カリフォルニア州ロサンゼルス出身。チリ・ペッパーズには2007年ステイディアム・アーケイディアム・ツアーの合間からサポートミュージシャンとして参加。2010年2月、チャド・スミスより、2009年12月に脱退したジョン・フルシアンテに変わって、新ギタリストとなることが発表された。

元メンバー

ギタリスト

アンソニーは、「ギタリストの座が安定しないのは、誰もヒレルの穴を埋められないから」とコメントしている。 ジョン・フルシアンテを含めて、ギタリストの座は数々のメンバーチェンジを経験した。また、ジョンを含むこの中の多くがストラトキャスターの使い手である。

  • ヒレル・スロヴァク (Hillel Slovak) (1983年以前, 1985年-1988年) - 結成メンバー。ユダヤ系アメリカン。名前の発音は、ヒレルというよりもハイレルに近い。1988年6月、ヘロイン摂取過多により死亡。当初は、他の親友とのバンド(チリ・ペッパーズよりも古い)とのかけもちであり、そちらの契約の際に一時的に脱退、セカンド・アルバムで復帰し、サード・アルバム作成にも参加した。アンソニー、フリーの無二の親友であり、フリーにロックラジオのチャンネルを紹介しベースを1から教え、ロックミュージックに引き込んだ人物。彼のギタープレイは、初期バンドサウンドに彩りを与えた。少年期のジョン・フルシアンテの憧れのギターヒーローの一人であり、ヒレルもジョンと同じく絵画が得意だった(4thアルバム「母乳」のアートワークの裸婦画は、生前にヒレルが描いたもの)。生前に、アンソニーと共作した未発表の曲があることが知られているが、アンソニーは「ヒレルが弾かなければそれは違う曲」と、それを音源にする気はない事を明言している。チリ・ペッパーズのギタリストと言えば、フルシアンテという印象が強いが、バンド無名時代からのファンのヒレルへの人気は根強いものがある。本国では、いくつかファンブックも発売されており、実弟のジェイムズ・スロヴァクの著書が最も有名。
  • ジョン・フルシアンテ (John Frusciante) (1989年-1992年, 1999年-2009年) - 1970年3月5日生まれ、ニューヨーク出身。元は、バンドの熱狂的なファンの一人だったが、亡くなったヒレルの代役として、当時18歳の若さでバンドに加わる。1992年の日本ツアー中に突如帰国、脱退する。一時は歯を全て失ってしまうほどの薬物依存に陥ったが、後に克服してバンドに復帰。2009年に自分の音楽的志向を突き詰めたいとして友好的に脱退。チリ・ペッパーズとしてだけでなく、ソロ・アルバムも数多く発表しており、2004年には6作ものソロ作品をリリースした。ジョシュ・クリングホッファーらとの別バンドなど、活動は多岐にわたる。
  • ジャック・シャーマン (Jack Sherman) (1983年-1985年) - ヒレルが他のレコード会社へ移籍した際に、臨時オーディションで加入、ファースト・アルバム作成に参加した。アンソニー曰く、「テクはあるがオタクなギタリスト」で、弦で指を切ってピックアップを血に染めてまで破天荒なプレイをするようなヒレルに対し、ネックに潤滑スプレーをつけるほどの几帳面なジャックは、アンソニーとフリーの気性には合わず喧嘩が絶えなかった、とアンソニーの自伝で言及されている。脱退後も、「母乳」の「ハイヤー・グラウンド」のコーラスなどで参加しており親交はあったようだが、後にアンソニーを精神的苦痛で訴えた。そのような間柄ではあったが、「初期のバンドを支えてくれた存在であることは間違いない。」として、アンソニーは自伝で敬意を表している。
  • ザンダー・シュロス (Zander Schloss) (1992年) - 日本でフルシアンテが突如脱退した直後、急遽残っていたオーストラリア公演のために声をかけられるが、フリーに「チリペッパーズ向きのプレイではない」と難色を示され、わずか4日で解雇。現在はベーシスト、映画俳優として活動。
  • アリク・マーシャル (Arik Marshall) (1992年-1993年) - Lonnie Marshallと共に、兄弟バンド「Marshall Law?」を組んでいたギタリスト。92年のベルギー公演から93年のロサンゼルス公演まで参加。インディーで活動していたアリクにとっていきなりの重労働のスタジアムツアーは、心身共にきついものだったようで、ツアーバス内で強迫的に睡眠をとることで、その難を和らげようと苦心していたという。
  • デイヴ・ナヴァロ (Dave Navarro) (1993年-1999年) - ジェーンズ・アディクションから加入。 チャド・スミスとはとても仲が良く、メタルとヘヴィロック志向の重厚なサウンドを得意とする彼のプレイも評価が高かったが、アルバム1枚とツアー参加のみで、音楽性の違いから脱退した。

ドラマー

  • ジャック・アイアンズ (Jack Irons) (1983年, 1985年-1988年) - 結成メンバー。ヒレルと共に、古くから参加していた親友のバンドの契約のため一時的に脱退したが、サードアルバムで復帰。アンソニー、ヒレル、フリーという無法漢が揃うバンドの中で、他メンバーを抑え(フリーいわく「ジャックが最も家庭的にまともだった」)気遣った存在。ヒレルの死後、親友の死とバンドの存続との狭間で苦悩し、結局はチリ・ペッパーズを脱退。後に、精神病院に入院していたところを、元ザ・クラッシュジョー・ストラマーにソロアルバムのバックバンドとして拾われ、音楽界に復帰した。最終的にはパール・ジャムへ移籍し、チリ・ペッパーズでのキャリアよりも長くバンドに在籍したが、引きずった精神病の悪化で脱退。巡り合わせか、奇遇にもサポート・ドラマーとして働いていた時に、同じくサポートギタリストをしていたデイヴ・ナヴァロと同じ仕事をしていたことがある。後にソロ・アルバムを出し、フリーやエディ・ヴェダーに感謝の言葉を送った。07年、ロサンゼルスにて、この3人でパール・ジャムの曲を演奏した。ちなみに、エディ・ヴェダーを当時パール・ジャムのメンバーに推したり、チリ・ペッパーズとの共同ツアーの橋渡し役になったのもアイアンズであり、彼がいなければ間違いなくパール・ジャムは現在の形で存在し得なかった、と言える。
  • クリフ・マルティネス (Cliff Martinez) (1983年-1989年) - 元キャプテン・ビーフハートのドラマーで、ジャック・アイアンズが、他のレコード会社へ移籍した際、オーディションで加入し、ファースト・アルバム作成に参加した。その後、セカンド・アルバム制作にも参加。アンソニー曰く、「ジャケットや帽子のセンスが俺たち以上に尋常じゃなかった」らしく、実際、当時のPVやライブ映像では、様々なバリエーションの巨大な帽子を被って演奏していることが多い。フリーは「凄腕のドラマーでロック精神はピカイチだった。」とファーストアルバムのリマスター時のインタビューで答えている。

評価

テンプレート:出典の明記

音楽性

チリ・ペッパーズは、ファンクハードロックパンク・ロックを混ぜ合わせた、いわゆるラップロックファンクロックミクスチャー・ロック)バンドの一つとして有名である。初期は、フィッシュボーンジェーンズ・アディクションなどと共に、これらのパイオニアとして活躍し、その評価向上に大いに貢献した。3rd『ジ・アップリフト・モフォ・パーティ・プラン』までは、アンダーグラウンドの活動がメインであったが、4th『母乳』で知名度を上げ、5th『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』で世界的人気を誇り、バンドと共に一躍ラップロックやファンクロックといったジャンル自体をメインストリームへと急浮上させた。

その後は、度々音楽性を細かく変えながらも、ファンク・パンク色は薄れ、メロディー路線が顕著となり、会心の復帰作7th『カリフォルニケイション』は、『ブラッド・シュガー・セックス・マジック』を凌ぐセールスを記録し、現在までの最大のヒット作となった。

音楽面で初期のバンドをリードしていたのはフリーであり、そもそもバンドの結成理由が、フリーのベースラインとアンソニー・キーディスのライミングのマッチングが思いのほか良かったから、というものだったことも含め、まさにバンドの核と言える存在だった。中期以降は、ジョン・フルシアンテの活躍が目覚ましいが、フリーやチャド・スミスらもライブと音源双方において、依然として大きく貢献している。 2002年6月、「Graind House magazine」にてフリーが、「同じことを繰り返して、成長しないというのは絶対にイヤだね。人間として成長すれば、音楽も成長し、そして変化する。オレたちは成長したい、変化したいっていつでも思ってる。それが最も重要なことさ」と語っている。

歌詞

これまでの歌詞は、ほとんどヴォーカリストであるアンソニーによるもの。初期から中期にかけての主な題材は、ドラッグ性的倒錯アルコール、男根主義、パンク的アナキズム、ファンク的快楽主義などであり、その音楽自体ともよくマッチングしていると言えるだろう。キャリアの中期以降は、ヒレル・スロヴァクの死などの様々な影響で、詩的で叙情的な歌詞も多く見られるようになった。

ライブパフォーマンス

テンプレート:出典の明記 彼らの最大の特徴は、ライブでのパフォーマンスにあるとも言える。

初期の頃は、アンコールなどでペニスソックス(靴下で局部を隠した以外は全裸)の格好で登場。ある意味、この姿がトレードマークにもなっており、その破天荒な振る舞いが話題を呼んで、彼らは結成後それほど間を置かずに、すぐレコード会社との契約に漕ぎ付けることが出来たが、とあるストリップバーで毛を露出しながら演奏した際は、店長から大目玉を食らったという。

これをはじめとし、ロラパルーザ'92では、アンコール時に火吹きヘルメットを着用して、さらにウッドストック'94では、オープニングで巨大な電球の被り物を付けて登場し、「Give It Away」を演奏した。また、カリフォルニケイション期以降も、メンバーのノリによっては、数多くのライブで前述のペニスソックス姿を披露することもある(最近はめっきり減っている)。さらに、ウッドストック'99では、フリーが終始全裸でベースを弾き通した。パフォーマンス中に暴徒化した一部の観客が放火騒ぎを起こし、アンコールではメラメラ燃える炎を遠方に眺め、「Fire」を演奏した。

1997年の第1回フジロックでは、アンソニーが腕を骨折したまま、台風の中でライブを敢行。このライブでは、ステージ破損のため30分でライブを強制終了した。

また、ステージ上で繰り広げられる即興演奏やジャムセッションも、彼らの評価と人気に繋がっている。同じ曲でも毎回ニュアンスを変えており、同じように演奏することはまずない。フルシアンテ在籍時には、ライブ冒頭と終了時に長いジャムセッションが繰り広げられていた。

影響

テンプレート:出典の明記 チリ・ペッパーズが少年期に大きく影響を受けたのは、キッスレッド・ツェッペリンジミ・ヘンドリックスなどのハードロックや、セックス・ピストルズザ・クラッシュギャング・オブ・フォーラモーンズザ・ストゥージズなどのパンク・ロックである(ヒレルとジャック、フリーの3人は、高校時代これらのカバーバンドをやっていた)。 フリーの腕には、ジミヘンの刺青が彫られている。

チリ・ペッパーズの音楽性を形作る上で影響を受けた、と彼らが語るのは、ジョージ・クリントン(2ndではプロデューサーを務めた)、ファンカデリックスライ&ザ・ファミリー・ストーンなどのファンクや、パブリック・エナミーなど当時から台頭しつつあったヒップホップである。

ジョン・フルシアンテは、これら以外にキャプテン・ビーフハートパブリック・イメージ・リミテッドなどの前衛アーティストや、フガジなどのハードコアに影響を受ける一方、メロディ・ラインの美しいポップ・ミュージックも少年期に影響を受けたと語る。ライブの合間には、ビージーズの「愛はきらめきの中に」を度々弾き語っていた。

アンソニーは、ブラッドシュガーのDVDなどで、パブリック・エナミーのキャップやTシャツを着用している。

ライブでこれらのアーティストの楽曲をカヴァー、または共演が多いが、その多くは音源化されていない。

ディスコグラフィー

スタジオ・アルバム

EPs

シングル

コンピレーション

ライブ・アルバム

ビデオ

  • Psychedelic Sexfunk Live from Heaven (1990年) - ライブ盤
  • Positive Mental Octopus (1990年)
  • Funky Monks (1991年) - ブラッド・シュガー・セックス・マジックのメイキング盤
  • What Hits!? (1992年)
  • Off the Map (2001年) - ライブ盤
  • By the Way (2002年) - ビデオ・シングル
  • Greatest Hits and Videos (2003年)
  • Live at Slane Castle (2003年) - ライブ盤
  • Stadium Parisian (2009年) - ライブ盤

日本公演

テンプレート:国際化

外部リンク

テンプレート:Sister

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ

  1. Warner Music Japan: RED HOT CHILI PEPPERS - NEWS

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