テニアンの戦い

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テニアンに上陸する海兵隊
戦争太平洋戦争 / 大東亜戦争
年月日1944年7月24日 - 8月1日
場所マリアナ諸島 テニアン島
結果:アメリカ合衆国の勝利
交戦勢力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | テンプレート:JPN1947 テンプレート:Flagicon アメリカ合衆国
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 指揮官
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 緒方敬志大佐
角田覚治中将
ハリー・シュミット少将
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 戦力
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 歩兵第50連隊など
約8,500
海兵隊2個師団
54,000
colspan="2" テンプレート:WPMILHIST Infobox style | 損害
width="50%" style="border-right: テンプレート:WPMILHIST Infobox style" | 戦死 8,010
捕虜 313
戦死 328
負傷 1,571

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テニアンの戦い(テニアンのたたかい)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中の1944年7月24日から1944年8月2日の間にテニアン島(現在の北マリアナ諸島)で行われた日本軍守備隊とアメリカ軍との戦闘をいう。

背景

テニアン島は第一次世界大戦後、日本の委任統治領となり、第二次世界大戦前は多くの日本人が入植し、砂糖黍栽培などに従事していた。一方、この島の戦略的価値を見出した日本海軍は同島に飛行場を建設。当時南洋最大といわれたハゴイ飛行場が完成する。

そして戦争が勃発し、ギルバート諸島マーシャル諸島を攻略した米軍は日本本土爆撃および内南洋における日本軍の海上、航空兵站線を攻撃する基地を確保すべく、1944年6月、マリアナ諸島攻略計画を発動させた。

一方、日本軍は同島のハゴイ飛行場を航空基地として使用していたが、陸上兵力が少なかったため、満州の遼陽から陸軍第50連隊(連隊長 緒方敬志大佐)を移駐させた。

6月19日、20日のマリアナ沖海戦で日本機動部隊を撃退した米軍は7月8日、サイパン島の攻略を完了、それに続いてグアム島テニアン島の攻略を開始した。

両軍の兵力

日本軍

  • 第56警備隊(司令・大家吾一 大佐)
  • 第1021航空隊(司令官・粟野原仁志 大佐)
  • 第121航空隊(司令・岩尾正次 中佐)

計約4500名

計約4,000名

民間人15,700名(内朝鮮人2,700名)

アメリカ軍

計約54,000名

戦闘経過

ファイル:Battle of Tinian map(japanese).jpg
テニアン島と米軍の侵攻図
ファイル:Tanks on beach tinian lg.jpg
テニアン沖で撮影された海兵隊とM4 シャーマン

1944年7月24日早朝、米軍は第2海兵師団の上陸用舟艇100隻以上を島の南西部、テニアン港前方に一斉に前進させた。しかし、米軍上陸部隊が海岸から200m程に接近した瞬間、一斉に重砲が攻撃を開始。米軍を撃退した。

また、日本軍の海岸砲台は戦艦コロラドに22発の命中弾を与え、駆逐艦ノーマン・スコット(en:USS Norman Scott (DD-690))も命中弾を浴び、艦長以下多数が死傷した。しかしこれは米軍の陽動作戦であった。

7時頃、米軍第4海兵師団はLCVP(ヒギンズ・ボート)LVT(水陸両用装軌車)からなる上陸用舟艇約150隻で、陽動作戦のため手薄となった北西部のチューロ海岸に上陸した。水際に配備された第3中隊と海軍警備部隊は、米軍の砲爆撃と水際の戦闘のためほとんど全滅し、米軍は日没までに第4海兵師団主力と第2海兵師団の1個大隊、さらに山砲(75ミリ曲射砲)4個大隊を上陸させた。この上陸での、米軍死傷者は240名(うち戦死15名)であった。

そして、24日の深夜に日本軍による反撃が開始されたが、米軍の猛烈な弾幕射撃と照明弾による妨害により、日本軍の進撃が遅れた。それにより、調整の取れない攻撃を行い、約2,500名にも及ぶ損害を受けて反撃は失敗に終わった。この攻撃で、第50連隊第1大隊、同第2大隊、第135連隊の第1大隊長は戦死し、戦車は4両を残すだけとなった。

日本軍の攻撃を撃退したアメリカ軍は、25日、第2海兵師団の残余を上陸させ、南下を開始した。日本軍は新防衛線を構築するとともに、民間人の中から16歳から45歳までの男子、約3,500名を集め民間義勇隊6個中隊を編制し、戦闘に協力させた。だが、7月30日までにアメリカ軍は防衛線を突破し、テニアン市街を占領した。

7月31日カロリナス高地北方に新防衛線を構築した日本軍は反撃を開始、マルポ水源地、テニアン町南側付近、第三飛行場南側で戦闘を行った。戦闘は夕刻まで続いたが日本軍は敗れ、島南端のカロリナス高地へ撤退した。この戦いで同島唯一の水源地であるマルポの井戸は米軍が占領し、日本軍は長期の抵抗を行うことが困難となった。夜半、緒方連隊長はグアム島の第31軍司令官小畑英良中将に対し、最後の報告を打電する。

8月1日も日本軍は前夜半から早朝にかけて三度にわたる反撃を行ったが、失敗。海軍の栗野原大佐、設営隊長林技術少佐をはじめ多くの将兵が戦死した。

8月2日、緒方連隊長は軍旗を奉焼、残存部隊と民間義勇隊等約1,000名が、アメリカ軍に対し突撃を敢行した。アメリカ軍は、機関銃などにより猛烈な防御砲火をあたえたため、日本軍に死傷者が続出し、緒方連隊長は後退中に戦死した。

また角田司令長官は手榴弾を持って壕を出たまま戻ることはなく、三和参謀長以下海軍の幕僚は自決し、第56警備隊司令大家大佐も戦死した。結果、日本軍の玉砕という形で、テニアン島における組織的戦闘は8月3日の夜明けに終結した。

その後も生存者は何人かの集団となって米軍施設などを破壊して遊撃戦を続けたが、テニアン島は隆起珊瑚礁からなる平坦な島で、遊撃戦には不向きな地形であった。 

戦闘後

ファイル:Tinian usmc column town 600.jpg
破壊されたテニアンの集落

戦いの後、テニアン島はB-29の基地として整備され、アメリカ軍による日本本土などへの爆撃基地に使用された。

なお、終戦後の1945年8月下旬、生存者の最上級者であった桝谷中尉以下は投降し、テニアンの戦いは完全に終結した。松本50連隊の生き残りはテニアン島の南の4つの島の守備隊120名で各島30人ずつで終戦まで無傷で生き残った。終戦日に昭和天皇玉音放送をラジオで聞き、全員アメリカ軍に白旗上げて武装解除、戦後グアム島の捕虜施設に2年半おり、その後日本に帰国し、2000年頃まで全員長野県内で生きている。テニアン島守備隊長の緒方大佐は玉砕後、1階級上げて少将に昇進している。

テニアン島では日本軍守備隊側が民間人の安全に配慮した事、民間人が軍と共に自決する行為を戒めた(角田海軍中将が「軍と共に玉砕する事はないのですよ」と説明を行ったとも言われている)事から、『サイパンの戦い』で発生した民間人の集団自決はあまり見られなかったと言われている。

しかし、2009年8月NHKで放送された「証言記録 市民たちの戦争―楽園の島は戦場になった~テニアン島」によれば、現地で砂糖黍などを営んでいた居留民約15,000人のうち、約1,500人がここの戦闘で死亡し(軍民合わせた死亡は約1万人)、その中の相当の部分が「集団自決」でなくなったと報道(生き残りの島民の証言)している。それは、戦闘の直前に「海軍中佐が住民を学校に集め、『敵が上陸したら、皆さん死んでください、米軍に捕まったら残虐な行為で、性器をもがれるかもしれない』と言った」と証言(佐藤照男さん・76歳)している。ここでは、住民たちの生々しい証言があるが、太平洋の多くの島々で行われたといわれている日本住民の「集団自決」は、テニアンを含めて未だ十分には解明されていない。

両軍の損害

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  • 日本軍
    • 戦死者 約8100名
    • 生存者 313名
  • アメリカ軍
    • 戦死者 389名
    • 戦傷者 1816名

外部リンク

マリアナ・パラオ諸島の戦い
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