サイパンの戦い

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戦争大東亜戦争 / 太平洋戦争
年月日:1944年6月15日から7月9日
場所マリアナ諸島サイパン
結果:アメリカの勝利
交戦勢力
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26px 南雲忠一中将
テンプレート:Flagicon リッチモンド・ターナー中将
テンプレート:Flagicon ホランド・スミス中将
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自決 5,000
捕虜 921
戦死 3,500
戦傷 13,160

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テンプレート:Tnavbar

サイパンの戦い(サイパンのたたかい)とは、太平洋戦争大東亜戦争)中、1944年6月15日から7月9日に行われたアメリカ軍日本軍マリアナ諸島サイパン島における戦闘斎藤義次中将が指揮する第43師団を主力とした日本軍が守備するサイパン島に、ホランド・スミス中将指揮のアメリカ軍第2海兵師団第4海兵師団テンプレート:仮リンクが上陸し、戦闘の末に日本軍は全滅した。このサイパンの戦いにともない、海上ではマリアナ沖海戦(6月19日~20日)が発生した。

背景

日本軍の事情

ファイル:NagumoSaipan.jpg
南雲中将以下海軍守備隊幹部

1943年(昭和18年)から1944年(昭和19年)前半にかけて連合国軍はソロモン諸島ギルバート諸島マーシャル諸島に侵攻し、ニューギニア島北岸を東から西へと飛び石作戦で攻略しつつ、カロリン諸島パラオ諸島マリアナ諸島へ迫った。

マリアナ諸島は、アメリカ軍の新型爆撃機B-29が展開すれば東京など日本本土の大部分を攻撃圏内に収めることができる位置にあるため、戦略的に重要であった。アメリカ軍は中国の成都市にもB-29を進出させており、1944年6月16日の八幡空襲を皮切りに日本本土空襲を開始する直前の状態であったが、成都からでは九州など西日本の一部しか攻撃できなかった。もし、マリアナからの本土空襲が始まれば日本は関東の工業地帯を破壊され、さらには民間人に大量の死者を出すことや国民の士気が低下して戦争継続が困難となることが予想された。

日本軍もマリアナ諸島の重要性は認識しており、1943年9月末に大本営絶対国防圏を定め、サイパン島をその中核拠点とした。日本海軍は絶対国防圏よりも遠方での艦隊決戦を重視したため、マリアナ諸島の防備強化はなかなか進まなかったが、アメリカ軍の侵攻が差し迫った1944年初頭になって慌てて防備強化が図られた。サイパン島にも南部にアスリート飛行場(現在のサイパン国際空港)、西岸タナパグ水上機基地、最高峰タッポーチョ山(標高473m)に電探を置くなど、軍事施設を整備していった[1]

一方、海軍の担当地域であり、また補給上の観点からも、それまでは太平洋正面への大規模な兵力派遣を嫌がっていた日本陸軍も、中部太平洋の島嶼に大陸、日本本土から旅団師団規模の部隊の展開を本格的に開始する。マリアナ諸島には関東軍から第29師団 (師団長:高品彪中将)が送られたが、この時期になるとマリアナ諸島の防衛は1個師団で事足りるとは考えられなくなっており、松輸送の名の下に本土から第43師団(師団長:斎藤義次中将)などがサイパンに派遣された。松輸送は期待以上の成功を収め、戦車連隊や第43師団の第一陣は無事到着した。しかし敵潜水艦の雷撃によって第43師団の第二陣を輸送中の第3530船団は大損害を受け、サイパンに到着できたのは歩兵第18連隊で半分にも満たず、歩兵第118連隊は丸腰の将兵が1/3だけなど、戦場に辿り着く前に約1万名が大量の物資と共に海の藻屑と消えた。 現地で増援部隊の一部は再編成され、独立混成第47旅団(旅団長:岡芳郎大佐)が編成されている。海軍の陸上部隊としては、第5根拠地隊の下に第55警備隊(司令:高島三治大佐)などが置かれている。

日本陸軍は1944年2月25日に第31軍(司令官:小畑英良中将、参謀長:井桁敬治少将)を編成、マリアナ諸島やカロリン諸島西部の指揮を担当させることにした。第31軍は司令部をサイパン島に置いて、テニアン以北を担当する北部マリアナ地区集団(指揮官:斎藤義次第43師団長)と、ロタ以南を担当する南部マリアナ地区集団(指揮官:高品彪第29師団長)を持ち、マリアナ方面の防備を担当する海軍の連合艦隊司令長官の指揮下に入って、中部太平洋方面艦隊(司令長官:南雲忠一中将)の指揮を受ける形式になったが、実際には陸海軍部隊の指揮はそれぞれの司令部により行われた。第43師団は北部マリアナ地区集団に組み込まれてサイパン守備を受け持ち、第29師団は南部マリアナ地区集団の主力としてグアムに配置された[2]。 このほかサイパン島には海軍部隊の司令部が多く置かれており、第六艦隊司令長官の高木武雄中将、第1連合通信隊司令官の伊藤安之進少将、第3水雷戦隊司令官の中川浩少将、南東方面航空廠長の佐藤源蔵中将ら高級指揮官が集中していた。

こうしてマリアナ諸島には大本営が満足すべき兵力が展開できつつあった。 日本軍の守備計画は、水際作戦による上陸部隊撃破に主眼が置かれていた。山がちなサイパンは断崖続きで周囲をリーフに覆われており、大部隊の上陸に適している平坦な海浜は南部西岸に位置するガラパンからチャラン・カノアまでの約40kmに渡る海岸線しかない。そのため、この海岸地帯への防衛線構築が優先され、戦車などを投入した大規模な反撃も計画していた。サイパン島の兵力密度は1平方キロメートル当たり約236名、上陸可能な海岸に対する火力密度は1キロ当り6.5門となり、大本営陸軍部参謀本部)作戦課長の服部卓四郎大佐は「たとえ海軍航空がゼロになっても敵を叩き出せる」と称した[2]

確かに絶対国防圏が設定されてからサイパンには地上部隊が五月雨式に送り込まれていたのだが、実際はアメリカ軍潜水艦のウルフパックにより輸送中の部隊や物資が海没したり、到着した部隊もパラオやテニアン、グアムなどに転用されることが度々であった。 さらに日本海軍は築城よりも飛行場の建設、整備を重視したため、早期に到着した部隊もアスリート飛行場の拡張や北部のパナデル飛行場の建設に駆り出されることが多く、潜水艦攻撃で補給が滞ってただでさえ少ないセメントや鋼材などの資材も飛行場に優先されて、陣地造営へ充てる人的、物的余裕はなかった。

中部太平洋のアメリカ軍侵攻ルートを地図上にたどれば、タラワマーシャルトラックとほぼ一直線に並んでおり、その先にはパラオがあった。日本海軍は、アメリカ機動部隊が1944年5月末から6月中旬頃に西カロリン、そしてパラオへと侵攻し、それからパラオを経由して次にフィリピンに向かうものと判断し、西カロリン、西部ニューギニア、フィリピン南部を結んだ三角地帯の防備を強化して、敵艦隊に決戦を挑み撃破して戦局の転換を図るとした「あ号作戦」を5月20日に発令、新設の第一機動艦隊(空母9隻、搭載機数約440機)と基地航空隊の第一航空艦隊(約650機)を軸に決戦の必勝を期し、マリアナ諸島にも零式艦上戦闘機(サイパンに第261海軍航空隊第265海軍航空隊、テニアンに第343海軍航空隊、グアムに第202海軍航空隊第263海軍航空隊)、月光(テニアンに第321海軍航空隊)、彗星(テニアンに第121海軍航空隊第523海軍航空隊)、天山(グアムに第551海軍航空隊)、一式陸上攻撃機(テニアンに第761海軍航空隊、グアムに第755海軍航空隊)、銀河 (グアムに第521海軍航空隊)が分遣された。 日本側の予想に沿うように5月27日、西部ニューギニア沖合のビアク島にアメリカ軍(ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍)が上陸したので、日本軍は渾作戦を発動し海軍第一航空艦隊の大部分をビアク島周辺へ移動、合わせて大和武蔵戦艦部隊を送ってアメリカ上陸支援艦隊を撃退しようとした[3]

これらは、日本陸海軍上層部の多くが「アメリカ軍はいずれマリアナに来るが、それはパラオに来寇した後で、時期としては1944年末」と見ていたことに起因する[1]海軍乙事件が発生する前の古賀峯一連合艦隊司令長官新Z号作戦を策定しており、マリアナ諸島~西カロリン~西部ニューギニアに邀撃帯を設けて、ダグラス・マッカーサー軍とチェスター・ニミッツ軍の二方面で進攻してくるアメリカ軍を迎え撃とうとしていたが、海軍乙事件の連合艦隊司令部壊滅により、二方向の予想アメリカ軍進攻ルートは合流してフィリピンに向かうものという一方的な想定と、帯よりも三角地帯で迎撃する方が艦隊決戦を行うには都合が良いという主観的判断で、作戦構想が見直されて軍令部が中心となって「あ号作戦」として決戦構想がつくられた[4]。 これら大本営の間違った情勢判断から、主力の第43師団がサイパンに到着して配置が決まったのがアメリカ軍上陸の僅か20日前であり、簡単な塹壕を築く程度の時間的余裕しかなかった。

日本の委任統治領だった関係でサイパン島には日本の民間人多数が戦前から居住しており、情勢の悪化に伴い5000人が本土へ疎開したものの、約2万人がアメリカ軍上陸時にも在島していた(詳細は#島民及び日本人入植者で後述)

アメリカ軍の事情

1943年、アメリカはアリューシャン方面の戦いソロモン諸島の戦いで日本に対して反攻を開始、8月のケベック会談において中部太平洋を西方に侵攻していく作戦案をイギリスのウィンストン・チャーチル首相に発表、11月ガルヴァニック作戦としてアメリカ海兵隊などが日本の占領するギルバート諸島へ上陸した。 それまで日本に対する反攻ルートとして、アメリカ陸軍ダグラス・マッカーサー大将率いる連合国南西太平洋軍がソロモン諸島ニューギニア島ミンダナオアメリカ海軍チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍がハワイ - トラック諸島パラオルソンと、2方面での進攻を企図していたが、ガルヴァニック作戦が実施された頃からアメリカはマリアナ進攻を検討し始める。 それは「マリアナを経由して台湾を目指し、中国大陸沿岸部に到達すれば、日本本土と南方の間のシーレーンを遮断できる。日本は中部太平洋への航空機、船舶の中継、補給拠点としてマリアナを活用しており、ここを押さえればカロリン諸島、パラオ、フィリピン、ニューギニアへの補給を絶てる。」とのアーネスト・キング海軍作戦部長の主張によるものであった。

アメリカ統合参謀本部で、陸軍、陸軍航空軍、海軍の参謀たちが会議を繰り広げた末、1944年3月にフォレイジャー作戦としてマリアナ侵攻が決定した。なおフォレイジャー作戦が練られ始めた当初は、マリアナ諸島を日本本土への爆撃拠点として活用することは主たる作戦目的ではなく、これはキングが自説を軍事作戦化させるのに陸軍航空軍を味方にするため、作戦実現のメリットに日本本土への爆撃機基地を得ることを付け加え、それが反映されて立案されたものである[1]

チェスター・ニミッツ大将の連合国太平洋軍司令部は翌4月から作戦準備に入り、航空機からの空撮、潜水艦で沖合からの海岸撮影など偵察を繰り返し、日本側の暗号電報や海軍乙事件で入手した機密書類で得た情報を総合的に分析していく。 サイパンの日本人は3万人で内戦闘員は1万前後だが、上陸実行時には守備隊は1万5千~1万8千に増強されていると推定[1](実際は陸軍が約2万8千、海軍が陸戦隊と兵站部隊で約1万5千とアメリカの推定よりもかなり多かった)、対するアメリカ軍上陸部隊は第2海兵師団第4海兵師団で約7万1千、他に陸軍テンプレート:仮リンクなど2.5個師団分を予備兵力として準備しており、また艦砲射撃、戦車、バズーカ、航空機の地上支援など火力と物量で圧倒し、日本軍兵数に関する推定と実際の誤差など問題にならないほど大兵力を集中させていた[3]

主要戦闘経過

前哨戦

ファイル:Battle of Saipan map.jpg
米軍の侵攻経路。米軍は西岸のコの字型の記号で示した6カ所から上陸した。うち主力の第2海兵師団と第4海兵師団は、アスリート飛行場に近い南西部に上陸している。

チェスター・ニミッツ大将率いる連合国太平洋軍のサイパン攻略艦隊は、マジュロ環礁に集結した。5月30日、千早猛彦海軍大尉の操縦でナウル基地を飛び立った日本海軍の偵察機彩雲が、これを確認した。6月5日、彩雲で再びマジュロ環礁を偵察し、アメリカ軍が出撃準備を急いでいることを確認した。しかし、大本営はアメリカ軍の攻略目標をマリアナとは予想しておらず、パラオ方面の防衛力を増強した。これは、直前の5月27日から始まったビアク島の戦いが続いていたため、ビアク島から遠いマリアナ諸島最北端のサイパンに上陸する可能性は小さいと思われたからである。第31軍司令官の小畑中将も、5月28日からパラオへ作戦指導のため出張している。6月9日、彩雲による3度目のマジュロ環礁の偵察をしたが、既にアメリカ軍は6日にサイパンに向け出撃しており、その姿はマジュロ環礁から消えていた。

6月11日、アメリカ軍艦載機1,100機によるサイパン島に対する奇襲的な空襲が行われ、同月13日からは戦艦8隻、巡洋艦11隻含む上陸船団を伴った艦隊がサイパン島に接近、砲弾合計18万発もの艦砲射撃が開始された。これにより水際にあった日本軍の陣地は半壊し、サイパン基地の航空機すべてが失われた。在泊中の日本艦船は脱出を図ったが、そのうち最大の第4611船団はほぼ全滅した。

このサイパン島への侵攻は、パラオ方面への侵攻を予想していた日本軍を驚かせた。小畑軍司令官は急いでサイパンの軍司令部へ帰還しようとしたが、既にサイパン島周辺はアメリカ軍の制空権下となっていたため不可能で、小畑軍司令官はグアム島から指揮を執ることになった。軍司令官不在の第31軍司令部は、井桁参謀長が責任者となって作戦指導を行ったが、少将である井桁参謀長が中将である斎藤第43師団長を指揮するという変則的な形となった。

日本海軍は、アメリカ軍がサイパン攻略目的であることをなかなか確信できなかったが、6月13日に至ってついに「あ号作戦」を発動した。日本の機動部隊である第一機動艦隊はアメリカ機動部隊を迎撃する為、想定とは違う戦場となるマリアナ諸島へ向かい、ビアク島到達前に渾作戦が中止となった戦艦部隊も途中で合流させてマリアナ沖海戦に挑んだ。 海軍はマリアナ、西カロリン、パラオ、フィリピン南部に基地航空隊の第一航空艦隊約650機を展開していたが、ビアク島にアメリカ軍が上陸するとそのほとんどを西部ニューギニア方面に進出させて、ビアク島周辺の作戦で430機まで消耗していた。またパイロットの多くもマラリアやデング熱に罹っていて、アメリカ軍のサイパン上陸に対してマリアナへ急行、迎撃できたのは100機そこそこだった[3]。軍令部の描いた「三角地帯で米軍に反撃を加える」という作戦構想は、こうして崩壊してしまった。

水際戦闘

ファイル:WorldWarII SaipanandTinian.jpg
サイパンに上陸する米軍兵士。
ファイル:Blasting caves on saipan lg.jpg
洞窟を爆破するアメリカ軍。
ファイル:Navajo Code Talkers.jpg
コードトーカーと呼ばれた暗号通信の部隊。

15日7時、アメリカ軍主力の海兵隊は上陸を開始し、9時ごろまでに300以上のLVT(Landing Vehicle Tracked、上陸用装軌車)で海兵隊8000名がサイパン島の西の海岸に上陸した。 大本営陸軍部は、サイパンにアメリカ軍上陸の報に接するや、敵の過失として守備部隊の絶対的勝利を信じ、また期待もしていた[5]東条英機参謀総長 内閣総理大臣陸軍大臣の三職兼務)も昭和天皇に対して「サイパン、テニアン、グアムは確保できる」と、絶対の自信を披瀝するほどであった[3]。 日本軍は予定通りの水際撃滅を目論見、反撃を開始した。ところがサイパン島の海岸は見晴らしが良く、空と海からの猛烈な砲爆撃に晒された守備隊は著しく消耗した。結果は米軍2000人あまりを負傷させたものの独混47旅団、戦車第9連隊第4中隊などが全滅した。日没までにはアメリカ軍は幅10km、奥行き1kmの橋頭堡を確保し19時までに海兵隊2万名以上の上陸が完了した。

上陸当日の陸軍省、参謀本部では、いたるところで「31軍は腰抜け」「井桁のぼやすけが」と敵上陸を許した井桁参謀長に対する非難と罵声があふれていたという。また井桁参謀を解任し、長勇少将と交代させるべきだとの声も起こった[6]

上陸日の夜、日本は水際作戦のため主力を海岸に結集し一斉に反撃を開始した。しかし昼間の攻勢で日本側の部隊間連絡は困難に陥り、戦力の掌握は不可能となっていた。照明弾により夜襲の利点は無力化され、米軍の優勢な火力により2個大隊横須賀第1陸戦隊はほぼ全滅し島の北部へ退却した。

翌16日、アメリカ第27歩兵師団の陸軍部隊が上陸しアスリート飛行場に向け進撃した。飛行場までの間に広がるサトウキビ畑中に日本兵が潜んでおり、そこから奇襲攻撃が加えられた。そのため上陸アメリカ軍は、火炎放射器で畑を焼き払い、日本兵が出てきた所を攻撃する作戦に出た。作戦は成功し、アメリカ第27歩兵師団は夜半までに飛行場に到達した。16日の夜から17日にかけて、日本軍は戦車第9連隊(44輌)含む約8000名が総攻撃を開始したが、1時間に野戦砲800発、機銃1万発というアメリカ軍の圧倒的火力によりほぼ全滅した。18日、斎藤中将は飛行場を完全に放棄。そのため南部に残された日本軍は完全に孤立した。

上陸3日間の攻勢の失敗に加え、水際撃滅作戦の為に日本軍の陣地は海岸付近に集中しており、敵の艦砲射撃や空襲のよい的となった。このため守備隊は早々に壊滅し、水際作戦を指示した大本営の晴気誠陸軍参謀は責任を感じ、サイパンへの派遣を志願したが却下された。彼は1945年の8月17日に自決した。この戦訓は後の硫黄島の戦い沖縄戦で生かされる事となる。

サイパン放棄決定

19日、「あ号作戦」で出撃した日本機動部隊はマリアナ沖海戦で大敗を喫した。2日間で艦載機400機を失い、日本海軍航空部隊は無力化された。これによりマリアナ諸島の日本軍は事実上、救援の望みを絶たれた。陸上でも日本軍は組織的な反撃が不可能なほど戦力が減少したため、斎藤中将は防御に適した島の中部の山岳地帯にあるタポチョ山に防御線を敷き洞窟を利用した持久戦へ移行した。

海戦での敗北後、なおも日本軍上層部はサイパン島の奪回を検討し、第五艦隊などを輸送に使い、独立混成第58旅団などを増援部隊として逆上陸させることを計画した。マリアナ沖海戦の生き残り空母や海上護衛総司令部護衛空母などに基地航空隊からかき集めた戦闘機を搭載し、グァム基地も活用して制空権を一時的に奪取することや、水上艦艇を強行突入させることも検討された。このサイパン島奪回作戦は、軍事的な意図からだけでなく、東條英機内閣の責任を追及する政治的な目的からも主張されていた。

24日、結局、大本営は奪回の見込みなしとしてサイパン島の放棄を決定した。この時点での日本側兵力は、斎藤の指揮する第43師団が4000名、他部隊は2000名程度まで減少していた。重装備は戦車が僅かに3両で、野砲は全損。食料や水、医薬品が欠乏し、負傷者は自決する他なかった。それでも日本軍は断固として抵抗を続けたため、20日以来米軍の進撃は遅々として進まず、第27歩兵師団長テンプレート:仮リンク少将が更迭された。

組織的戦闘の終結

25日、日本軍主力が防衛する島中央部において戦闘が開始された。この頃になるとアスリート飛行場が運用可能になり、偵察機や爆撃機の使用が開始された。空からの援護もありアメリカ軍は防衛線を突破、占領地は島の70%に達した。しかし、この日占領した住居地域では、倒壊した住居跡に残るトタンの下に日本軍が隠れており、掃討にかなりの時間を要した。

27日、日本軍の独立歩兵第317大隊600名は、アスリート飛行場奪回の為夜襲をかけたが、米軍に包囲され全滅した。

7月7日、日本軍は完全に追い詰められた。斎藤中将は残存部隊約3000名に総攻撃を命じ、陸海軍によるバンザイ突撃が行われた。米軍は日本兵の捕虜からこの攻撃の情報を得ており、陣地を築いて待ち構えていた。この戦闘で米軍に死傷者658名の損害を与えたが、日本軍出撃部隊はほぼ全滅した。翌日戦場は「死の谷」と呼ばれるほど、両軍の死体が累累と積み重なっていた。南雲中部太平洋方面艦隊司令長官を始め高級指揮官らは自決し、一部の日本兵は降伏、事実上サイパン島の日本軍は全滅した。7月9日にターナー中将はサイパン島の占領を宣言した。

島民及び日本人入植者

日本人居留民の本土疎開

マリアナ諸島防衛が真剣に検討されるようになると食糧事情も鑑み、昭和19年2月に兵員増強の輸送船の帰りの船を利用して、婦女子・老人の日本への帰国が計画された。一方、16歳~60歳の男性は防衛強化要員として帰国が禁止された。

上記の疎開計画に従い、日本への帰国対象者はマリアナ諸島各島からサイパンへと集結していた。しかし、3月の帰国船「亜米利加丸」がアメリカの潜水艦に撃沈され、500名の民間人ほぼ全員が死亡するなどの事件があったため疎開は進捗しなかった。そのほか、6月4日沈没の「白山丸」などで多数の民間人犠牲者が出ている。アメリカ海軍は、太平洋戦争開戦当初から民間船への無差別・無警告攻撃を行う無制限潜水艦作戦を実施していた。戦闘開始段階での在留邦人は約20,000人と推計される。

戦闘による犠牲

ファイル:Saipan Baby.jpg
死体で折り重なった洞窟から赤ん坊を救出する米軍兵士

攻略作戦が始まると、多数の民間人が砲爆撃に巻き込まれて死傷した。

また、戦闘の末期になると、多くの日本人居留民が島の北部に追い詰められ、アメリカ軍にとらえられることを避けるためバンザイクリフスーサイドクリフから海に飛び込み自決した。多いときでは1日に70人以上の民間人が自決したといわれる。民間人の最期の様子はアメリカの従軍記者によって雑誌『タイム』に掲載され、世界中に配信された。特に入水自決の一部始終を撮影したフィルムは1シーンしかなく、入水者は会津出身の室井ヨシという婦人であった。 アメリカ軍は島内の民間人を保護する旨の放送を繰り返していたが、「鬼畜米英」の印象や、国際法違反の無差別通商破壊や、ビスマルク海海戦における日本人将兵虐殺のようなアメリカ軍が常習的に行っていた日本人に対する蛮行の事実のためにほとんど効果がなかった。また退避中の民間人に米軍が無差別攻撃したため、民間人の死傷者が続出していたことも影響した[7]。サイパン島の日本軍が民間人の自決を禁止しなかったことも指摘される。この点、テニアンの戦いでは日本軍が民間人に対し自決行為を強く戒めた事が効果を出し、民間人の自決行為が少なかったのと対照的である。

なお、日本の軍人の中には、アメリカ軍による意図的な民間人虐殺を目撃したと証言する者もあるが、信憑性には多少の疑問がある(詳細は#アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言で後述)。

戦闘終了後、アメリカ軍は非戦闘員14,949人を保護収容した。内訳は、日本人10,424人・朝鮮半島出身者1,300人・チャモロ族2,350人・カナカ族875人となっている。逆算すると8,000人~10,000人の在留邦人が死亡したとみられる。

大本営は「おおむねほとんどの民間人は軍と運命をともにした」と発表し、当時の日本の新聞各紙も上記『タイム』の記事を引用して民間人の壮絶な最期を記事にした。また、藤田嗣治によるサイパンの民間人の最後を描写した絵画「サイパン島同胞臣節を全うす」が制作展覧された。

戦闘終了後にアメリカ軍が生存者に対して行ったアンケート調査では、サイパンの日本兵が民間人にガダルカナルの戦い(日本の民間人がいなかった)で民間人がアメリカ軍に虐殺され女子は暴行された話を語っていたことが、サイパンの日本人民間人がアメリカへの投降を躊躇わせた原因として挙げられている[8]

占領後の戦闘

ファイル:Isley field end of war lg.jpg
B-29が並んでいる占領後のサイパンの飛行場。本土空襲の為の航空基地となった

航空基地としての利用

ファイル:Aircraft burning Isley Field 27 Nov 44.jpg
アスリート飛行場で日本軍機の空襲により地上撃破されたB-29の残骸。

アメリカ軍は飛行場を占領すると自軍の航空基地として整備し、サイパン島は後に続くグアム島やテニアン島攻略などマリアナ諸島での作戦やフィリピン侵攻の拠点となった。また、フィリピン、琉球諸島、日本本土への爆撃を行う爆撃機B-29のための基地としても使用された。

日本軍のゲリラ的抵抗

奪回作戦を断念した日本軍は、硫黄島を中継基地として利用し、陸海軍の航空機による小規模な反撃を行った。空中での撃墜が困難なB-29の地上撃破を狙ったもので、1944年末まで、海軍第一御盾隊の零戦や陸軍重爆がそれぞれ数回の航空攻撃を行った。しかし、1945年(昭和20年)3月には硫黄島基地が陥落して中継基地までも失ったため、続行不可能となった。

サイパン島に残ったわずかな日本軍地上部隊はゲリラ化し、遊撃戦に移行して各個で戦闘を継続した。日本のポツダム宣言受諾後も、その事実を知らない陸海軍将兵は遊撃戦を継続していたが、ポツダム宣言受諾の事実を知り順次投降した。タッポーチョ山を拠点としていた歩兵第18連隊衛生隊大場栄陸軍大尉以下47名の部隊は、1945年11月27日(発令は25日)に独立混成第9連隊長の天羽馬八陸軍少将陸士第23期卒)の正式の命を受け、12月1日、軍歌(彼らの部隊の隊歌と「歩兵の本領」)を歌って戦没者の霊に弔意を示しながら山を降り投降した。彼らは、大本営のサイパン放棄を知らず、必ず友軍がサイパンを奪還に来ると信じていたという。大規模な投降としては最後のものである。なお、歩兵第18連隊主力は1944年5月にグアムに移駐したが、衛生隊ほかは移駐が間に合わず、サイパンの戦いに加わることとなっていた。

このほか、空挺部隊により飛行場を攻撃する剣号作戦と、その補助空襲である烈号作戦が計画されたが、実行前に終戦を迎えている。

終戦派殺害事件

大場栄が20代の憲兵伍長Tを民間人に装わせて投降させる形でアメリカ軍が設置した民間人収容所に送り込みテンプレート:Fact、収容所内の10代の青少年をオルグしてアメリカ軍に対する抵抗組織をつくるテンプレート:Fact。1945年8月15日の終戦後、収容所内での民間人は、終戦(日本の敗戦)はアメリカ軍の陰謀だと主張する勢力と、終戦を信じる勢力が対立するテンプレート:Fact。その後憲兵伍長は少年組織を唆して終戦派のリーダーを殺害させ、さらに山に立てこもる日本軍を説得しようとした民間人をも殺害テンプレート:Fact。主犯の憲兵と実行犯の少年は収容所を脱出し大場のもとに帰るテンプレート:Fact。大場らが投降した後、少年は逮捕されるが憲兵伍長に単独犯と自白するよう言い含められ、死刑判決(後無期懲役に減刑)を受けアメリカ本土で服役、出所以後牧師となる[9]

信頼性等に議論のある主張

サイパンの戦いに関しては、以下のような事実や仮説を主張している少数者もある。

アメリカ軍の虐殺行為に関する田中徳祐の証言

独立混成第47旅団に所属してサイパンの戦いに従軍した田中徳祐(豊橋陸軍予備士官学校卒業)は、以下のような米軍による残虐行為を目撃したと主張している[10][11][12]

  1. マッピ岬のパナデル飛行場に追い詰められた民間人のうち、婦女子を選び出して裸にし、数台のトラックに積み込まんでいった。女たちはトラックの上で泣き叫んでいた。
  2. 残りの老人と子供の周りにガソリンがまかれ、火がつけられた。忽ち阿鼻叫喚の巷と化した滑走路。火から逃れようとする老人や子供を、米兵はゲラゲラ笑いながら火の中へ蹴り飛ばしたり、銃で突き飛ばして火の中へ投げ入れた。二人の米兵は、草むらで泣いていた赤ん坊を見つけると、両足を持ってまっ二つに引き裂いて火中に投げ込んだ。
  3. こんなに優勢な戦闘にも拘らず、米軍は毒ガス弾(赤筒弾)攻撃まで仕掛けてきた。
  4. マッピ岬では、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串さしにされた婦人を見た。 更に自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た。
  5. 米軍の残忍非道から名誉と身を守るために「天皇陛下万歳」を奉唱してマッピ岬から太平洋に身を躍らせた老人、婦女子や、左腕に注射針を刺し、君が代と従軍歌「砲筒の響遠ざかる…」を斉唱しつつ自らの命を断った十余名の従軍看護婦達の最期を田中は見た。

田中徳祐の証言は自身の階級を大尉としているものがある一方、『別冊 太平洋戦争証言シリーズ(6)玉砕の島々 中部太平洋戦記』では自身の階級を中尉としており、証言に変遷が見られる[12]。また、大場栄大尉に取材して創作を加えた小説『タッポーチョ』では階級は少尉となっている。なお、『タッポーチョ』でも、田中を指揮官とした隊は、投降直前まで大場隊とは別行動を取っていたとしている[13]

田中の証言にはこのほか、最後の地獄谷の突撃を含むサイパン戦での主要な戦闘のほとんど全てに参加し多くのアメリカ兵を殺害したこと、斎藤中将ら日本軍最高幹部の自決シーンを目撃したこと、歩兵火器でアメリカ軍機を撃墜しそのアメリカ人パイロットが女であったことなど、ホラを吹いているとしか思えない内容も多々含まれているため、どこまで信用できるか疑問である。また、日本軍と行動を共にしていた日本人民間人婦女子がアメリカ軍に内通して日本軍部隊の位置をアメリカ側に知らせていたことなどが述べられている。

海軍を恨むという決別電

新聞記者の中所豊の『日本軍閥秘史―裁かれる日まで』によると、斎藤中将は玉砕にあたり最後の通信で「我々陸軍将兵一同は敵アメリカ軍を恨まずして日本海軍を永遠に恨みつつ玉砕する」と打電。この電文は陸軍の暗号で暗号化され、海軍の無線を通じて陸軍側に取り次がれたという[14]。ただし、斎藤中将の最後の状況については、捕虜となって生還した平櫛孝参謀によると、海軍の南雲中将と同時に自決している。この点、南雲中将は自決せずに最後の突撃に参加したとする説もある。中所の著作は戦後の暴露ブームの中で発表されたもので、版元は中華国際新聞社である。

地下陣地化によって戦争全体を膠着化できたとする仮説

小室直樹は、サイパンの戦いで日本軍が徹底した地下陣地化と大量の陸上戦力の配備をしていれば、戦争全体を膠着状態にできたと主張している。サイパンの戦いやテニアンの戦いなどでは、東条英機参謀総長によって未だ水際作戦がとられていたために、日本軍は早々と玉砕することとなってしまった。小室はこの点に着目し、ペリリューの戦い硫黄島の戦いのように地下壕陣地をつくり、地下飛行場を築き中国戦線から20個師団を転用し抗戦をしていれば、サイパンの土壌は強固な珊瑚などで構成されていることから艦砲射撃に堪えられ、硫黄島同様に熾烈な戦いとなり、戦争全体の展開も膠着した可能性があると説く[15]

しかし、この見解に対しては、当時の日本の国力でサイパンを要塞化することは困難であったとの批判がある。大兵力を輸送するような輸送船団もなく(20個師団の兵力を輸送するための輸送船団がどれほど大規模になるのか、又サイパンの港湾の能力を考えれば、これがどれほど困難な作業であることは単純に想像・計算出来るものである)、補給の能力も著しく欠いていたとする。

日本の20個師団が必要とする食料だけでも、1日600t(これに砲弾、燃料は含まれない)。一月分の食料だけで2万トン、長期間、これだけの兵力を維持するならば、この10倍以上の膨大な備蓄食料を輸送しなくてはならない。食料だけを考えても、当時の日本の商船隊の数割を投入しても、半年も持久し得ない。当然、武器、弾薬、燃料、施設資材は更に膨大で、米軍の一方的攻撃からこれらを安全に貯蔵する施設も極めて大規模なものとなり、設計から数ヶ月で完成させる事は夢物語でしか無い。これらの輸送、工事は、たとえ米軍がこの大きな動きを完全に放置したとしても困難である。これらの工事を半ば程度達成できたとしても、戦闘が始まれば連合艦隊に制海権を奪い返す戦力はなく、補給は期待できない。米軍は艦砲射撃と航空攻撃で施設を破壊しながら、労せずして陸軍の大兵力を兵糧攻めにできる事になる。

また、過去にラバウル他各地が放置されたと同様に飛び石作戦でフィリピンへ迂回侵攻されれば、サイパンが無力化されるだけであり、戦争が膠着する可能性は連合軍が無意味にこの拠点に固執しない限りありえないとも批判される。

このほか、アメリカ軍を上陸させた上でフィリピンの第14方面軍のように持久戦を行うことで、一定のアメリカ軍を現地に拘束して進行計画を遅らせる程度の事は可能であったとの見解もある。この点、フィリピンの方については、米軍5個師団をひきつけ続けることで九州上陸作戦の予定を昭和20年6月から同年11月に遅らせ、結果として九州への米軍上陸を防いだとの分析がある[16]

サイパンの戦いを描いた作品

脚注

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参考文献

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外部リンク

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  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 歴史群像 2002年4月号(学研パブリッシング)サイパン防衛戦
  2. 2.0 2.1 歴史群像シリーズ 決定版太平洋戦争⑥「絶対国防圏」の攻防(学研パブリッシング、2010年)110~118頁 マリアナ諸島攻防戦
  3. 3.0 3.1 3.2 3.3 戦略・戦術でわかる太平洋戦争(日本文芸社、2002年)226-235頁
  4. 別冊歴史読本50 日本の戦争(新人物往来社、2006年)156頁
  5. 戦史叢書・中部太平洋陸軍作戦(1)マリアナ玉砕まで
  6. 堀江芳孝『闘魂 硫黄島 小笠原兵団参謀の回想』 光人社NF文庫
  7. 宮城信昇『サイパンの戦いと少年』31-38頁(新報出版 2002) 宮城は機関銃射撃で母と右手を失った。
  8. 林博史サイパンで米軍に保護された日本民間人の意識分析関東学院大学経済学部教養学会。
  9. 毛利恒之「地獄の虹―新垣三郎 死刑囚から牧師に」毎日新聞社、1998年
  10. 田中(1956年)
  11. 田中(1983年)
  12. 12.0 12.1 田中(1987年)
  13. ドン・ジョーンズ(著)、中村定(訳) 『タッポーチョ―「敵ながら天晴」大場隊の勇戦512日』 祥伝社、1982年、219頁。大場が同書末に寄せた文によると、同書の主な事実経過は史実に沿っているものの、ところどころフィクションが加えられている。
  14. 中所豊『日本軍閥秘史―裁かれる日まで』1948年(中華民国三十七年三月初版) 中華国際新聞社
  15. 小室(1995年)
  16. 堀栄三『大本営参謀の情報戦記』文藝春秋〈文春文庫〉、1996年、263ページ。