マーティン・ルーサー・キング・ジュニア

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ノーベル賞受賞者 ノーベル賞
受賞年:1964年
受賞部門:ノーベル平和賞
受賞理由:アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動

テンプレート:社会的キリスト教 マーティン・ルーサー・キング・ジュニアMartin Luther King, Jr., 1929年1月15日 - 1968年4月4日)は、アメリカ合衆国プロテスタントバプテスト派牧師である。キング牧師の名で知られ、アフリカ系アメリカ人公民権運動の指導者として活動した。

I Have a Dream」(私には夢がある)で知られる有名なスピーチを行った人物。1964年ノーベル平和賞受賞者。2004年議会名誉黄金勲章受章者。アメリカの人種差別(特にアフリカ系アメリカ人に対する差別)の歴史を語る上で重要な人物の一人である。

生い立ち

初めての差別

1929年ジョージア州アトランタバプテスト派牧師マイケル・ルーサー・キングの息子として生まれる。ミドルネームも含めて父と同じ名前を付けられたが、父マイケルは1935年マーティンと改名し、息子も同様に改名したため「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア」となった。宗教改革をはじめたマルティン・ルターから父親が命名した。父親は区別のため「マーティン・ルーサー・キング、シニア」と呼ばれる。

幼少の頃隣に白人の家族が住んでおりその家庭の同年男子2人と遊んでいたが、キングが6歳のある日、彼らの母親が「(黒人とは)二度と遊ばせません!」と宣言した。これが人生で初めての差別体験であった。高校時代には討論大会で優勝したが帰り道にバスの中で白人から席を譲れと強制され、激しく怒った。これが後のバス・ボイコットにつながっていく。

牧師として

モアハウス大学卒業後、ペンシルベニア州のクローザー神学校を経て父親と同じくバプテスト派の牧師となる。その後1955年ボストン大学神学部で博士号を取得した。

ボストン大学に在学中、コレッタ・スコット・キング(Coretta Scott King)と知り合って結婚した。コレッタは4人の子供を育て、夫が亡くなった後もその意思を継ぎ「非暴力社会変革センター」を設立。映画やTV、ビデオ・ゲームなどの暴力シーンを無くす運動を精力的に行ったり非暴力運動、人種差別撤廃、貧困層救済の運動を指導して世界を行脚した。彼女は2005年8月16日に脳卒中で倒れて半身不随となり、2006年1月31日に78歳で死去した。

なおキングがボストン大学在学中に飲食店に入った際、キングが黒人である事を理由に白人の店員が注文を取りに来なかったが、同店の所在地がこの様な行為を州法で禁じているボストン北部であったため、店員は人種差別として即逮捕となった。南部出身で人種差別を受けることが多かったキングは、むしろこの出来事に驚いたという。

法的差別

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男性有色人種専用の水飲み場で水を飲む黒人男性(1950年代

1862年9月にエイブラハム・リンカーン大統領によって行われた奴隷解放宣言によりアメリカ合衆国での奴隷制は廃止され、主としてアフリカ系アメリカ人は奴隷のくびきからは脱していた。しかし奴隷制度からの解放は直ちに人種差別の撤廃を意味するものではなく、その後も人種によって取り扱いを異なるものとすること、特に学校トイレプールなどの公共施設やバスなどの公共交通等において白人非白人等の区別に基づき異なる施設を用いることは容認されたままであった。

この様な状況は、アメリカが「自由で平等な」、「民主主義橋頭堡」であると自称として参戦した[1]第二次世界大戦後も続いており、むしろ多くの州では法令上もかかる取り扱いを義務付けていたことすらあった。

1954年以来、アラバマ州モンゴメリーのバプテスト派教会の牧師をしていたが、1955年12月にモンゴメリーで発生したローザ・パークス逮捕事件に抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動を指導する。11ヶ月後に裁判所から呼び出しがあり運動中止命令かと思っていたが、連邦最高裁判所からバス車内人種分離法違憲判決(法律上における人種差別容認に対する違憲判決)を勝ち取る。これ以降、アトランタでバプテスト派教会の牧師をしながら全米各地で公民権運動を指導した。

「非暴力主義」

キングの提唱した運動の特徴は徹底した「非暴力主義」である。インド独立の父、マハトマ・ガンディーに啓蒙され、自身の牧師としての素養も手伝って一切抵抗しない非暴力を貫いた。一見非暴力主義は無抵抗で弱腰の姿勢と勘違いされがちだが、キングのそれは「非暴力抵抗を大衆市民不服従に発展させる。そして支配者達が「黒人は現状に満足している」と言いふらしてきた事が嘘であることを全世界中にハッキリと見せる」という決して単なる弱腰姿勢ではなかった。

事実、1963年5月にアラバマ州バーミングハムでのバーミングハム運動の中で、丸腰の黒人青年に対し、警察犬をけしかけ襲わせたり、警棒で滅多打ちしたり、高圧ホースで水をかけたりするなどの警官による事件映像が映し出され、世論は次第にそれらの暴力に拒絶反応を示していった。

公民権運動にあたっては、主として南部諸州における人種差別的取扱いがその対象となった。通常、差別的取り扱いには州法上の法的根拠が存在し、運用を実際に行う政府当局ないしは警察なども公民権運動には反対の姿勢をとることが多かったことから、公民権運動は必然的に州政府などの地域の権力との闘争という側面を有していた。合衆国においては州と連邦との二重の統治体制が設けられている中で、連邦政府ないしは北部各州は南部各州の州政府に比べれば人種差別の撤廃に肯定的であり、州政府ないしは州兵に対し連邦政府が連邦軍兵士を派遣して事態の収拾を図るケースも見られた。

キングも1963年4月12日にバーミングハムで行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警に逮捕され、4月19日まで拘置所の独居房に投獄されたこともある。

「I Have a Dream」

1963年8月28日に行われたワシントン大行進においてリンカーン記念堂の前で有名な“I Have a Dream”(私には夢がある)を含む演説を行い、人種差別の撤廃と各人種の協和という高邁な理想を簡潔な文体で訴え広く共感を呼んだ。[2]

当該箇所の演説は即興にて行われたものといわれるがその内容は高く評価され、1961年1月20日に就任したジョン・F・ケネディの大統領就任演説と並び20世紀のアメリカを代表する名演説として有名である。

勝利

ファイル:Lyndon Johnson signing Civil Rights Act, July 2, 1964.jpg
ホワイトハウスで公民権法施行の文書に署名するジョンソン大統領(後列中央がキング)

キングを先頭に行われたこれらの地道かつ積極的な運動の結果、アメリカ国内の世論も盛り上がりを見せ、ついにリンドン・B・ジョンソン政権下の1964年7月2日公民権法(Civil Rights Act)が制定された。これにより、建国以来200年近くの間アメリカで施行されてきた法の上における人種差別が終わりを告げることになった。

ジョンソンは人種差別を嫌う自らの信条のもと、自らの政権下においてキングと共にこれを強く推進した。なお公民権法案を議会に提出したのはジョンソンが副大統領であったケネディ政権時代のことであるが、議会内において強い政治的影響力を持たなかったケネディを後押しし続けたジョンソンが、キングの協力を受けて自らの政治的影響力をフルに使い、制定へ向けた議会工作を活発化させ公民権法の早期制定に持ち込むことに成功した。

公民権運動に対する多大な貢献が評価され、「アメリカ合衆国における人種偏見を終わらせるための非暴力抵抗運動」を理由にマーティンに対し1964年度のノーベル平和賞が授与されることに決まった(受賞発表は10月14日で、授賞式は12月10日だった)。これはノーベル平和賞を受けるアメリカ人としては12人目だったが、史上最年少の受賞であり、黒人としては3人目の受賞である。「受賞金は全てのアフリカ系アメリカ人のものだ」とコメントした。ただし当時の全てのアフリカ系アメリカ人がキングに同意していたわけではなく、一部の過激派はマルコムXを支持しキングの非暴力的で融和的な方針に反発した。

マルコムXとの関係

ファイル:MartinLutherKingMalcolmX.jpg
マルコムX(右)とキング

暴力的手法を含む強行的な手段による人種差別の解決を訴え、同時期に一気に支持を得て台頭し始めていたマルコムXが1965年2月に暗殺されると、マルコムXとはその手段において相当の隔絶があったにも関わらず「マルコムXの暗殺は悲劇だ。世界にはまだ、暴力で物事を解決しようとしている人々がいる」と語った。しかしその数年後、キング自身も暗殺される。

一時期は公然とキングの姿勢を批判し演説の中で非暴力抵抗を笑いものにしていた事さえあったマルコムXだったが、暗殺の前年には自らの過激な思想の中核をなしていたブラック・モスリムのネーション・オブ・イスラム教団と手を切っていた。新たな思想運動のステップを登るべく「なんとかキング牧師と会って話がしたい」と黒人社会学者ケニス・クラークの仲介で会談を持とうと模索している矢先のできごとであった。キングは、そのためにマルコムXの暗殺を特に嘆いていた。

その後の黒人解放運動

ワシントンDCへの20万人デモで最高の盛り上がりを見せ公民権法を勝ち取った黒人解放運動はその後、生前のマルコムXやその支持者を代表とする過激派や極端派などへ内部分裂を起こし、キングの非暴力抵抗は次第に時代遅れなものになっていった。

黒人運動は暴力的なものになり「ブラック・パワー」を提唱するストークリー・カーマイケルに代表されるような強硬的な指導者が現れたり(「ブラック・パワー運動」といわれる事もある)、ブラックパンサー党が結成されたり1967年ニュージャージー州で大規模な黒人暴動が起きたりするに至って、世論を含め白人社会との新たな対立の時代に入っていく。呼応するように白人からの黒人に対する暴力事件も各地で増えていった。

キング牧師はその要因を自身の演説の中で以下のように分析し、「すべての罪が黒人に帰せられるべきではない」と結論付けた。

  1. 公民権法成立は黒人から見ると解放運動の最初のステップでしかなかったが、白人社会は「これで問題は片付いた」とゴールだと位置づけた。
  2. 深く根付いた差別意識は依然として教育や雇用の場に蔓延しており、黒人は階段の入り口には立てても頂点には上っていけない。
  3. 差別意識により雇用の機会を奪われた黒人の失業問題は、白人に比べ深刻である。
  4. ベトナム戦争により黒人は多数徴兵され、その多くは最前線で戦わせられている。彼らは母国で民主主義の恩恵を受けていないのに、民主主義を守るために戦争に狩り出されている。
  5. 大都市ではスラム街に黒人が押し込められ、戦争のためにそのインフラ整備等の環境問題はないがしろにされている。

そして「ベトナム戦争反対」の意思を明確に打ち出しながら、「ブラック・パワー」に対し「グリーン・パワー」(緑はアメリカで紙幣に使われる色、つまり「金の力」)などでさらなる黒人の待遇改善を訴えていった。一方で自身でも時代遅れになりつつあることを自覚していながらも非暴力抵抗の可能性を信じ、それを黒人社会に訴えていった。

暗殺

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キング牧師の棺

その後、キングは激化の一途をたどるベトナム戦争へのアメリカの関与に反対する、いわゆる「ベトナム反戦運動」への積極的な関与を始めるようになったが、その主張は一向になくならない人種差別に業を煮やし、暴力をも辞さない過激思想への理解すら示しつつあった「黒人社会」の主流のみならず、ベトナム戦争への関与をめぐり2つに割れつつあった「白人社会」の主流からさえ離れて行き、さらにキングを邪魔だと考える「敵」も増えていった。爆弾テロや刺殺未遂(犯人は精神障害のある黒人女性)もあったが、奇しくも命をとりとめるなど、その様な状況下でも精力的に活動を続けていた。

1968年4月4日に遊説活動中のテネシー州メンフィスにあるメイソン・テンプルで “en:I've Been to the Mountaintop”(私は山頂に達した)と遊説。その後メンフィス市内のロレイン・モーテルのバルコニーでその夜の集会での演奏音楽の曲目を打ち合わせ中に、白人男性で累犯のならず者、ジェームズ・アール・レイに撃たれる。弾丸は喉から脊髄に達し病院に搬送されたが、間もなく死亡した。墓標には「ついに自由を得た」と穿たれている。レイは国外に逃亡し、数ヵ月後、ロンドンヒースロー空港で逮捕され、懲役99年の判決を受ける。その後、彼は服役中の1998年4月23日C型肝炎による腎不全で死去した[3]

暗殺の前日にキング牧師がおこなった最後の演説の最後の部分は以下のようなものであり、『申命記』32章のモーセを思わせる、自らの死を予見したかのようなその内容は“en:I Have a Dream”と共に有名なものとなった。

…前途に困難な日々が待っています。
でも、もうどうでもよいのです。
私は山の頂上に登ってきたのだから。
皆さんと同じように、私も長生きがしたい。
長生きをするのも悪くないが、今の私にはどうでもいいのです。
神の意志を実現したいだけです。
神は私が山に登るのを許され、
私は頂上から約束の地を見たのです。
私は皆さんと一緒に行けないかもしれないが、
ひとつの民として私たちはきっと約束の地に到達するでしょう。
今夜、私は幸せです。心配も恐れも何もない。
神の再臨の栄光をこの目でみたのですから。

キングの死後

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ウェストミンスター寺院に飾られている「20世紀の10人の殉教者」のレリーフの一部。左からロシア大公妃エリザヴェータ、キング牧師、ロメロ大司教ボンヘッファー牧師。

キングの暗殺を受けて、アメリカ国内の多くの都市で怒りに包まれたアフリカ系アメリカ人による暴動が巻き起こったが、葬儀が行われるとその怒りは悲しみに変わり、アフリカ系アメリカ人のみならず、多くのアメリカ人が葬儀に参列しその死を悼んだ。なお暗殺現場となったモーテルは現在、黒人解放運動の博物館となっている。

アメリカではキングの栄誉を称え、ロナルド・レーガン政権下の1986年よりキングの誕生日(1月15日)に近い毎年1月第3月曜日を「マーティン・ルーサー・キング、ジュニア・デー」(Martin Luther King, Jr. Day)として祝日としている。アメリカにおいて生前の業績から祝日が制定された故人は、他にクリストファー・コロンブスジョージ・ワシントンエイブラハム・リンカーン(誕生日2月12日は1892年に連邦の休日と宣言されたが、後にジョージ・ワシントンの誕生日と併せて大統領の日とされ毎年2月第3月曜日に制定されている)の3人しかいない。

アメリカ国内において、アングロサクソン系を中心とした白人による、アフリカ系アメリカ人やインディアンヒスパニックアジア系アメリカ人中東系アメリカ人(特にイスラム教徒へのもの)をはじめとする少数民族に対する人種差別は未だ根絶されていないが、キングの運動の結果、公民権法が施行されたことによる法的側面からの人種差別撤廃の動きを、平和的な手段によって大きく前進させた意味は大きいといえる。

公民権運動に携わった時期及び凶弾に倒れた際の話は、遠く離れた日本中学校3年英語教科書の教材として使用されている。ストーリーの最後に登場する、「人は兄弟姉妹として共に生きていく術を学ばなければならない。さもなくば、私たちは愚か者として滅びるだろう」は、キングがメンフィスで語った言葉である。

そしてキングの死から40年後にアメリカ人とケニア人の混血であるバラク・オバマが大統領に就任した。ミシェル・オバマ夫人は黒人奴隷の子孫であるため、アフリカ系アメリカ人初の大統領とファーストレディが同時に誕生した。バラク・オバマ大統領就任式はアフリカ系初であるために記録的な観客に満ち、キングの子孫のマーティン・ルーサー・キング3世(祖父・父と同名)も参加し、第44回就任式のテーマは、エイブラハム・リンカーン生誕200年を記念して、「自由の新しい誕生(A New Birth of Freedom)」とされた。

ベトナム、ホーチミン市7区にはベトナム史の偉人の名にまじり、「マーチン・ルーサー・キング通り」が存在する。

楽曲

逸話

上述の通り、キングは平和的手段によって人種差別問題の解決に貢献したとして高く評価されているが、その死後にFBIの調査による女性関係の醜聞が明らかにされている。ニューヨークタイムズ2011年9月12日、1964年に行われた歴史学者のアーサー・シュレジンジャーによるジャクリーン・ケネディへのインタビューの内容を公開した。それによると、彼女はFBIによって盗聴・録音されたキングの妻以外との女性関係を示す内容のテープを聴き、彼を偽善者と罵っている。また、「ディープ・スロート 大統領を葬った男」(ボブ・ウッドワード)でも、キングがホテルで不特定多数の女性と性交渉を行っている様子を盗聴していた事実を記載している。"Enemies: A History of the FBI"(ティム・ウェイナー)においても、説教の草稿作成や調査用の名目で借りていたアパートにおいて、女性と密会していた事がFBIの盗聴によって露呈していた事が記録されている。

参考文献

  • 『マーティン・ルーサー・キング自伝』 日本基督教団出版局 ISBN 4818404306
  • 私には夢がある――M・L・キング説教・講演集』 新教出版社 ISBN 4400421228
  • 『汝の敵を愛せよ』 新教出版社 ISBN 4400520099
  • 『自由への大いなる歩み――非暴力で闘った黒人たち』 岩波書店[[[岩波新書]]] ISBN 4004150035
  • 『良心のトランペット』 みすず書房 ISBN 4622049406
  • 『黒人はなぜ待てないか』 みすず書房 ISBN 4622049392
  • 『キング牧師とマルコムX』 講談社[[[講談社現代新書]]]ISBN 4061492314

脚注

  1. フランクリン・ルーズベルト大統領はミシガン州デトロイト市の大工業地帯を「民主主義の工廠」と呼んだ。
  2. テンプレート:YouTube
  3. en:James Earl Ray」の項の記述を参照。

関連項目

外部リンク

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