オットー・フォン・ハプスブルク

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 オットー・フォン・ハプスブルク(Otto von Habsburg, 1912年11月20日 - 2011年7月4日)は、オーストリア=ハンガリー帝国1918年に帝政廃止)の皇太子。1930年代のオーストリアにおける君主制復活運動を指導し、第二次世界大戦中にはドナウ連邦を、戦後はヨーロッパの統合を提唱した[1]欧州議会議員国際汎ヨーロッパ連合会長を務めるなど、汎ヨーロッパ的に活動した政治家でもある。


最後の皇帝カール1世と皇后ツィタの長子で、ドイツオーストリアハンガリークロアチアの市民権を持っていた。

生涯

幼少期

ファイル:Coronation Hungary 1916.jpeg
1916年に描かれた当時4歳の皇太子オットー

1912年、カール1世(当時は大公)とツィタの長子として誕生した。老齢の皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は唯一の息子ルドルフ皇太子が情死し、皇位継承者に指名した甥のフランツ・フェルディナント大公はボヘミアの伯爵家出身(皇后・大公妃としては身分不相応)のゾフィー・ホテクと結婚しており、ブルボン家の血を引くツィタとの子であるオットーの誕生をことのほか喜び、随喜の涙を流したほどであった。

フランツ・フェルディナント大公は1914年サラエヴォ事件で暗殺され、これをきっかけとして第一次世界大戦が勃発するが、これによってカール大公が新たに皇位継承者となった。大戦さなかの1916年に皇帝フランツ・ヨーゼフ1世は死去し、父カールが皇帝に即位、オットーも皇太子になった。しかし、1918年にオーストリアは敗北し、帝国は崩壊した。カール1世は皇帝の地位を失い、家族とともに国外へ逃れた。時に6歳であったオットーはこの後、主にスペイン王国で育っていった。母ツィタはオットーに多くの言語を学ばせた。それは、オットーがいつの日か非常に多くの国を統治するかも知れないと信じてのことであった。オットーはドイツ語、ハンガリー語、クロアチア語、英語、スペイン語、フランス語、ラテン語を流暢に話すようになった。やがて父が1922年に世を去ると同時に、オットーはハプスブルク君主国の皇位継承者となり、1932年には成年に達して当主となった。

1930年代前半

1932年の暮れ、オットーはベルリンで博士論文のための研究をしており、そこでドイツの政治家たちの知遇を得ていた[2]。台頭しつつあった右翼の男、アドルフ・ヒトラーの注目を惹いてもいた。オーストリアをドイツに併合する助けになりそうな傀儡君主にできるかもしれないと見ていたのであった[3]

父のカール1世がハンガリーの王位に就こうとした二回の試みから十年そこそこしか経っておらず、その息子であるオットーを期待を持って見守るハンガリー人たちもいた。ハンガリーの新聞は、王政復古の可能性について何度か記事にした[4]

イタリアファシスト党の統領であるベニート・ムッソリーニは、母のツィタとオットーに対して、ハプスブルク家の再興は自分たちの共通の目標になりうると説得を試みた。1932年にイタリアの新聞は、中欧の支配者としてはヒトラーよりもハプスブルク家の方が良いという意見を掲載し、間接的にハプスブルク家の王政復古を推し進めた[5]。ムッソリーニはツィタをローマに招き、イタリアの王位継承権のある王女がオットーと結婚するのを見たいと彼女に話した。このような縁談は1930年代初頭のヨーロッパの新聞では、仮に誤報であれ、定期的に流された[6]

アンシュルス前後

オットーは、ドイツによるオーストリア併合(アンシュルス)を阻もうとしていた。1937年の終わりから1938年の始めにかけて、オットーは自分の話に耳を傾ける者すべてに、ヒトラーをウィーンから遠ざけておくにはハプスブルク家の再興しかない、と口にしていた。[7]1937年の11月20日はオットーの25歳の誕生日であったが、この日ウィーンの街は、旧帝国を象徴する色である黒と金で飾り立てられた[8]。ヒトラーの最後通牒が来た直後、オットーは政府の首班として尽力することをオーストリアのクルト・シュシュニック首相に申し出た。シュシュニック首相はオットーの申し出を丁重に断ったが、その理由は、ハプスブルク家の復興は即座にドイツの攻撃を招くから自殺行為になるだろう、とドイツに言われたことによるものだった[9]。結局のところ、オットーが王位に就くよう頼まれたことはなかったが、それと関わりなくドイツはオーストリアの地へ侵攻してきたのであった。ヒトラーによる一連のオーストリア侵略計画は、テンプレート:仮リンクと呼ばれていた[10]

第二次世界大戦

第二次世界大戦中、オーストリアがナチス・ドイツに併合された後、ナチス体制はオットーを死刑にすることを宣告した。ルドルフ・ヘスは、オットーを捕らえた場合、すぐに処刑を実行するように命じた。1940年フランスがドイツ軍によって占領されると、オットーの家族はパリから退去してポルトガルに逃れた。そして自身の安全のために、オットーはヨーロッパ大陸からアメリカに発ち、1940年から1944年までワシントンDCに住んだ。アメリカの支援を受け、オーストリア人部隊を創設して祖国解放を計画するが、隊員の質があまりにも悪かったため、支援を打ち切られて失敗する。

大戦後の1945年、帝政廃止後の初代首相であるカール・レンナーがオーストリア政府の再建に乗り出すと、オットーは彼をソビエト連邦の手先だと糾弾してその新政権樹立の妨害を試みた。しかし、レンナーがソ連軍の妨害を阻止して自由選挙を成功させたため、かえってオットーの信用は低下した。1961年にはオーストリア共和国への敵対行為を行わないこと、帝位継承権を放棄することを誓約して、国外追放処分を解除された。ただしオットーは、オーストリア帝位継承権は放棄したものの、その他のハンガリー国王などの継承権は保持し続けた。

政治家として

ファイル:Habsburgotto.jpg
オットーの演説

1979年から1999年までの20年間にわたり、ドイツ選出の欧州議会議員キリスト教社会同盟所属)を務めた。初当選の時点でオットーは既に67歳となっていた[11]

1989年、多数の東ドイツ市民がハンガリー・オーストリア国境を越えて西ドイツに亡命する汎ヨーロッパ・ピクニックが起こると、オットーは西側からこれを支援した。また、東欧革命の後には欧州連合を東側に拡大することを唱えた[12]

ユーゴスラビアが解体された時、オットーはヨーロッパ諸国にプレッシャーをかけ、新しく独立したクロアチアを国家として承認するようにさせた。この時セルビアの民兵組織アルカン・タイガーの指導者の一人が、バルカン半島の政治に鼻を突っ込んだ際にフランツ・フェルディナントに何が起きたかに触れてオットーを脅迫した[13]。それに対してオットーは、自身サラエボに乗り込むことで応えた。この時オットーは「この悲劇の循環が閉じるのを祈って」サラエボに赴いたのだと語っている[14]

古きよき保守派」と評価されており、先祖代々伝わるヨーロッパ統一の夢は、中世的な帝国的思想であると非難されることもあるが、欧州連合による欧州統一が夢物語ではなくなるにつれ、そのコスモポリタニズムが注目されている。

晩年

1922年から84年間務めていた家長の座を、高齢のため2006年いっぱいで長男に譲り、2007年からカールがハプスブルク家当主となった。

2011年7月4日ドイツ南部ペッキングの自宅にて98歳で死去した。2009年に階段から落ちて以来、体調が万全でなかったという[15]

葬儀は7月16日、故国オーストリア・ウィーンシュテファン大聖堂において、ウィーン大司教クリストフ・シェーンボルンの司式により営まれた。葬儀には欧州議会議長イェジ・ブゼクの他、スウェーデン国王カール16世グスタフルクセンブルク大公アンリリヒテンシュタインハンス・アダム2世ブルガリア元国王かつ元首相のシメオン・サクスコブルクゴツキルーマニアの元国王ミハイ1世などの各国君主・元君主の他、イギリススペインベルギーバチカンからも国王(女王)や教皇の代理が出席した。ハプスブルク家の伝統に従い、遺体は同市のカプツィーナー納骨堂に安置され、心臓はハンガリー北西部のパンノンハルマの大修道院に翌17日に納められた。

子女

1951年ザクセン=マイニンゲン公家の当主ゲオルク公子の娘レギーナ1925年 - 2010年)と結婚した。2人の間には2男5女(モニカとミカエラは双生児の姉妹)が生まれており、ハプスブルク家の多産の伝統を守ったとも見なせる。

出典・脚注

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  1. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.400
  2. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.230
  3. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.230
  4. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.230
  5. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.230
  6. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.230
  7. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.287
  8. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.287
  9. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.287
  10. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.287
  11. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.363
  12. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.363
  13. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.357
  14. 『赤い大公―ハプスブルク家と東欧の20世紀』P.358
  15. 最後の皇帝の長男O.ハプスブルク氏死去 日刊スポーツ 2011年7月4日閲覧

関連項目

外部リンク

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