フランツ・フェルディナント・フォン・エスターライヒ=エステ

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テンプレート:基礎情報 皇族・貴族 フランツ・フェルディナント・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンテンプレート:Lang-de, 1863年12月18日 - 1914年6月28日)は、オーストリア=ハンガリー帝国皇位継承者エスターライヒ=エステ大公Erzherzog von Österreich-Este)。サラエヴォでセルビア人民族主義者によって暗殺された(サラエボ事件)。

生涯

皇位継承者指名と結婚

1863年、オーストリア皇帝フェルディナント1世の甥であったカール・ルートヴィヒ大公両シチリアフェルディナンド2世の長女マリア・アンヌンツィアータの長男としてグラーツで生まれた。

フランツ・フェルディナントはオーストリア皇族であったが、従兄のルードルフ皇太子がいたため、皇位継承の圏外にあった。しかし1889年1月にルードルフ皇太子が情死したため、にわかに皇位継承候補者となった。継承権を放棄したフランツ・カール大公が自身の長男の継承を支持したことにより、フランツ・フェルディナントが伯父フランツ・ヨーゼフ1世の皇位継承者として認定されるようになった。

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新橋駅に到着したフランツ・フェルディナント大公を描いた日本の錦絵楳堂小国政画)
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フランツ・フェルディナント夫妻の墓(アルトシュテッテン)

皇室ではさっそくフランツ・フェルディナント大公の結婚話を進めるが、大公にはボヘミアの伯爵家出身でテシェン公フリードリヒの妃イザベラの女官であったゾフィー・ホテクという恋人がいた。当初これは秘密の恋であったが、ある日フランツ・フェルディナントが蓋付き腕時計をテシェン公家に忘れた。当時腕時計の蓋の裏に意中の女性の肖像画を描くのが流行しており、忘れ物を預かったイザベラは、彼が足繁く通うのは長女マリア・クリスティーナに気があるからだと信じて時計の蓋を盗み見たため、ゾフィーとの恋が露呈した。

しかし彼は数少ない皇位継承者であり(ハプスブルク=ロートリンゲン家傍系の大公はテシェン公を含めて数多くいたが、血筋の近いオーストリア皇帝フランツ1世の男系子孫の男子は限られていた)、皇室は次期皇位継承者がチェコ人の女官のような身分の低い女性と貴賤結婚するのに大反対したが、2人はあくまで意思を曲げなかった。このためゾフィーが皇族としての特権をすべて放棄し、将来生まれる子供には皇位を継がせないことを条件に結婚を承認された。ただし、フランツ・フェルディナントが将来皇帝に即位した後もこの誓約を守り続ける意志があったかは定かではない。2人の結婚式は1900年7月1日に挙行された。しかしその後もゾフィーは冷遇され続け、公式行事においては幼児を含む全ての皇族の末席に座ることを余儀なくされていた。またそれ以外の公の場(劇場など)でも大公との同席は許されなかった。このような複雑な経緯もあって、フランツ・フェルディナントは「皇太子」(Kronprinz)とはあまり呼ばれず、「皇位継承者」(Thronfolger)と遠回しな呼ばれ方をされるようになった。

1892年、約1年の歳月をかけて世界一周の見聞旅行に出かけ、その途上で日本を訪れている。この時、フランツ・フェルディナント大公は日本の風物や伝統文化などを詳細に手記に記しており、これは後にまとめられて出版されている。

暗殺

チェコ人と結婚しただけあって、フランツ・フェルディナント大公は親スラブ的な傾向があり、その反面で大のハンガリー嫌いだった。政治的思想も親スラヴ的で、皇帝のボヘミア王戴冠による三重君主国の大連邦国家制を望んでいた時期もあった[1]1914年6月テンプレート:仮リンクCarska pokrajina u Bosni i Herzegovini)の首府サラエヴォの軍事演習視察に出かけたのもそんな感情からだった。しかし1878年ベルリン会議以来オーストリア=ハンガリーが占領し、1908年には正式に二重君主国に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナにはセルビア人も住んでおり、大セルビア主義者にとってはオーストリア=ハンガリーに侵略された土地だった。ロシアを後ろ盾とする汎スラヴ主義に沸くバルカン半島では、オーストリア大公の来訪は絶好の餌食であった。

大公夫妻はサラエヴォの町を流れるミリャツカ川にかかるラテン橋で、民族主義を奉じる「テンプレート:仮リンク (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」のメンバーで秘密組織黒手組テンプレート:仮リンクのメンバーだったガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された。時に大公51歳、ゾフィー46歳であった。このサラエボ事件によりオーストリア=ハンガリーがセルビア宣戦布告、これが第一次世界大戦を引き起こすことになる。なお最期の言葉は「ゾフィー、死んではいけない。子ども達のために生きなくては」であった。

大公夫妻の葬儀は2人合同で行われた。貴賤結婚のために、ハプスブルク=ロートリンゲン家の人々が埋葬されるカプツィーナー納骨堂に入れないことを生前から悟っていた夫妻は、居城であったテンプレート:仮リンク内の納骨堂に埋葬された。

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フランツ・フェルディナント大公と妃ゾフィー、子供達

子女

著書

  • 『オーストリア皇太子の日本日記―明治二十六年夏の記録』(講談社学術文庫2005年9月、ISBN 4061597256)

注釈

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関連項目

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先代:
フランツ・フェルディナント・ゲミニアン
エスターライヒ=エステ大公
1875年 - 1914年
次代:
カール
  1. 死の直前にはハンガリー人の力を削いで、二重君主国をより中央集権的な国家に作りかえ、その中で南スラヴ系住民の地位を引き上げることによってセルビアなどの南スラヴ統一運動を分断させる構想を持っていた。