天満
天満(てんま)は、大阪府大阪市北区の地域名または町名。旧淀川(大川)が曲流する北西側の地域を指す。
地名は当地に鎮座する大阪天満宮の転化による。日本三大祭のひとつに数えられる天神祭、南端の大川に架かる浪華三大橋(天満橋・天神橋・難波橋)で知られる。
歴史
大川を挟んで上町台地の北に位置する天満は、天満砂堆と呼ばれる微高地の南端にあたり、淀川が氾濫しても水没を免れる平地として古い歴史をもっている。現在は大阪天満宮の摂社となっている大将軍社は、652年(白雉3年)に遷都された難波長柄豊碕宮の鎮護社として創建された神社である。901年(延喜元年)に菅原道真が大将軍社を参拝し、のちに天満宮となった。
石山合戦の後、貝塚本願寺へ逃れていた顕如を豊臣秀吉が天満川崎へ呼び戻し、1586年(天正14年)に天満本願寺を建立した。このように天満はもとは寺内町ということになるが、同時進行にあった秀吉による大坂城下の整備と密接な関係にあった。秀吉は天満を船運の拠点にしようと考えており、1598年(慶長3年)には天満堀川が開削されている。また、のちに雑喉場・靱といった下船場へ移った魚商人らも、もとは天満に居住していた。
大坂の陣の後、松平忠明による復興の際には、北の防御線として天満北縁の西成郡川崎村および北野村に天満寺町が形成された。天満堀川を境に天満東寺町・天満西寺町とも呼ばれる。1619年(元和5年)頃まで天満は大坂とは別の町とみなされており、大坂編入後も町人地はしばらく北組・南組の二分だった。やがて船場に匹敵する商業と人口の集積が見られるようになったことから天満組が成立し、以後大坂の町人地は大坂三郷と呼ばれるようになった。天満組の成立年代は不詳であるが、1629年(寛永6年)には惣会所が設置されている。また、大川西岸付近の東部には川崎東照宮や諸藩の蔵屋敷が立地し、天満東寺町付近には大坂町奉行の与力・同心屋敷も置かれた。
1653年(承応2年)、京橋片原町から天満の淀川沿岸に青物市場が移転し「天満青物市場」が誕生した。この市場は難波など近郊農村が開設しようとした市場や新興の堀江にできた市場などから挑戦を受けるものの、長年大坂の青果取引を独占する官許市場として繁栄し、周囲には野菜などに関わる商家が多く集まった。天満堀川沿いは造り酒屋や乾物問屋などが軒を連ねた。また西隣の堂島周辺の河川再開発を機に堂島新地・曾根崎新地などの歓楽街が誕生した。
江戸時代の周辺地域は、北東は西成郡川崎村、北西は北野村、南西は曾根崎村に接した。江戸時代後期には商家に対する打ちこわしが頻発し、さらに大塩平八郎の乱が勃発すると天満は全焼する被害を受ける。
明治に入り、天満組は1878年(明治11年)の郡区町村編制法によって大阪を四分割した内の一つ、大阪府北区の一部となり、1889年(明治22年)の市制施行によって大阪市北区の一部となった。また造幣局の本局所在地となり、関連して中小の金属工場やガラス工場、紡績工場などが誕生するなどの波及効果をもたらした。特にガラスに関しては、東京と並ぶガラス産業発祥の地となった。(現在は衰退するものの、天満切子という名づけを行って活動する工房がある。) また大阪天満宮周辺は劇場や寄席が並ぶ繁華街となり、商人や職人でにぎわった。
以後1909年(明治42年)のキタの大火、1945年(昭和20年)の大阪大空襲で天満のほとんどが炎上する被害を出すが、そのつど復興されている。
ただし、天満青物市場が大阪中央卸売市場に集約されたこと、大空襲で町の大半が燃えたこと、戦後の経済情勢の変化やオフィス化、地上げが起こったことなどにより、劇場街も消え、焼け残った町家も取り壊され、商家が立ち並んだ時代の空気は薄れてきた。現在では、埋め立てにより道路および阪神高速12号守口線となった天満堀川を境に、旧町名は集約されてしまい東天満と西天満に分かれる。
現況
2000年代現在では、小規模なオフィスや工場が多数あるほか、大阪地方裁判所・大阪高等裁判所があることから弁護士事務所など法曹関係者の集積も見られる。日本一長い商店街と称される天神橋筋商店街も有名である。
大規模なオフィスが梅田周辺に集中する中、天満はオフィス開発が進まない代わりに都心回帰に伴う超高層マンションが立ち並ぶようになり人口が回復してきた。平成不況や新住民の移入やなどを機に、天満の歴史を見直す動きも広まっている。残っている町家の価値が見直され、いくつかはカフェやレストランとなっている。また天満宮周辺に上方落語の寄席を再建する動きが出て、2006年には戦後初の上方落語の定席「天満天神繁昌亭」が開設された。