滝乃川学園

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テンプレート:Infobox 社会福祉法人 滝乃川学園(しゃかいふくしほうじん たきのがわがくえん、Social Welfare Foundation TAKINOGAWA GAKUEN)は、東京都国立市谷保に本部を置く社会福祉法人で、知的障害児施設「滝乃川学園児童部」、知的障害者施設「滝乃川学園成人部」等を設置・運営している。

概説

滝乃川学園は、日本最初の知的障害児者のための福祉施設で、創立以来120年の歴史を有する。創立者石井亮一立教女学校教頭)が、立教大学出身で同大学の創立者チャニング・ウィリアムズ聖公会主教の教え子であった関係で、発足以来、日本聖公会プロテスタント系)との関係が深く、現在でも学校法人立教学院および学校法人立教女学院財団法人聖路加国際病院等とは姉妹関係にある。ただし、法人経営は宗教色はほとんどなく、役職員および利用者は日本聖公会の信徒でない者が大多数である。

創立者石井亮一・筆子夫妻の事績の他、渋沢栄一が第3代理事長、沢田廉三(日本国初代国連大使)が第4代理事長、細菌学者の高木逸磨医師が第5代学園長をつとめたことでも知られ、また、貞明皇后以来、美智子皇后に至るまで、伝統的に皇室皇族との関係も深い。

現在、職員数は約270名。施設利用者も200名を超える。近年は、知的障害者の社会的自立を支援するグループホーム事業を拡大している他、認知症高齢者向けグループホームの運営や、行政の福祉事業の受託等、時宜に即した利用者本意の福祉事業の展開に注力している。さらに、日本最初の知的障害児者のための教育・福祉施設として福祉文化の普及にも注力し、社会的に注目を集めている。

現在は、福祉施設の運営が主たる事業となっているが、当法人の起源は、その名が示すとおり、日本で最初の知的障害児のための特別支援教育機関(学校、いわゆるミッションスクール)であり、かつては、研究所、保母養成所などの施設等を包含する知的障害者に特化した一大総合福祉施設として、印刷所や農場など事業部門も存在した。

事業所

  • 法人本部(東京都国立市)
  • 滝乃川学園児童部
  • 滝乃川学園成人部
  • 地域支援部:アシスタントサービス色えんぴつ、れすぱいとセンター紙ひこうき、相談支援センターみなも
  • 障害者グループホーム・ケアホーム:直営1事業所、委託10事業所
  • 認知症対応型共同生活介護:やがわ荘

付属施設

アクセス

文化財

※見学は可能であるが、法人本部への事前連絡が必要。

略史

1891年、立教女学校(現・立教女学院)教頭の石井亮一により創立された「聖三一孤女学院」を起源とする。創立当初は、東京市下谷区西黒門町(現 東京都台東区上野一丁目)の荻野吟子(近代日本最初の国家公認女医)宅に開設した、少女の孤児を対象とした女子教育施設であった。濃尾大地震の際、多数の孤児が発生し、その中の年端のいかぬ少女たちが売春目的に取引されている実状を耳にした石井が、この問題を憂慮し、現地に駆けつけ、16名の少女孤児を引き取り保護したことにその起源がある。

ファイル:Empress Sadako.jpg
学園の存続に尽力した貞明皇后

16名の少女孤児(これをこのとき、「孤女」と呼んだ)のうち、2名に知能の発達に遅れがあることを見つけた石井は深い関心を示し、知的障害について学ぶために、二回にわたって渡米し、知的障害研究の始祖であるエドゥワール・セガンの未亡人に師事し、セガンが提唱した生理学的教育法を習得したほか、米国各地の大学、知的障害児施設を訪問。さらに、ヘレン・ケラーとも面会を果たす。帰国後、聖三一孤女学院を滝乃川学園と改称し、知的障害者に特化してその保護・教育・自立を目指す教育・養護・研究・職員養成施設として総合的な福祉施設を目指した。

ファイル:Eiichi Shibusawa.jpg
第3代理事長をつとめた渋沢栄一

その後、滝野川(現・東京都北区)から、巣鴨(現・豊島区)に移転。しかし1920年3月に園児の火遊びがもとで火災を起こし、園児6名が焼死する惨事に見舞われた。また、この頃、石井が後継者として期待を寄せていた甥石井雄一(医師)が死去する等、石井は学園の閉鎖を一旦は決意する。しかし、貞明皇后からの激励や、支援者たちの尽力により、財団法人としての認可を受け、初代理事長に中尾太一郎海軍軍医総監が就任する。後には、第3代理事長として、渋沢栄一が就任し、再建を果たした

1928年、成人した学園生のために働ける農場を提供するため、現在地の北多摩郡谷保村(現・東京都国立市)の大隈重信が別荘予定地としていた8,000坪あまりの土地を取得し、再移転した。1934年には学園本館において日本精神薄弱児愛護協会(現・日本知的障害者福祉協会)が創立される。1937年には秩父宮雍仁親王勢津子妃が学園を視察した。

しかし、1929年頃から始まった昭和恐慌により、学園は多額の負債を抱え、そして、秩父宮夫妻来園の年、創立者で初代学園長石井亮一が死去。学園の存続が危ぶまれた。しかし、亮一の死から4ヵ月後の10月16日、夫人の石井筆子が夫の遺志を継いで、第二代学園長に就任、存続を決定。戦時中の苦難を乗り切り、戦後、社会福祉法人に改組し、現在に至っている。

戦後も、貞明皇后をはじめ、高松宮夫妻、常陸宮夫妻、そして今上天皇皇后美智子が学園を訪問し、殊に皇后においては、学園に対して並々ならぬ関心を寄せられている。

なお、滝乃川学園には、1928年移転当時の本館(現・石井亮一・筆子記念館)が現存し、国の登録文化財になっているほか、聖三一礼拝堂と第二代学園長石井筆子愛用のアップライトピアノ(日本最古の輸入ピアノで「天使のピアノ」と呼称される)も国立市の文化財に指定されており、知的障害者福祉の貴重な歴史的遺産として注目されている。また、本学園石井記念文庫には、創立者石井亮一が収集した知的障害児者教育に関する貴重な文献が多数蔵書されている。

ちなみに、第3代理事長の渋沢栄一をはじめ、皇室皇族勝海舟島崎藤村津田梅子穂積歌子(初代理事長の渋沢栄一の長女、穂積陳重の妻)、近衛篤麿ら当時を代表する著名な人物が支援したことでも知られる。

年表

学園関係者

歴代理事長

氏名 在任期間 出身校 備考
中尾太一郎 1920年 9月 9日 - 1920年11月11日 海軍軍医生徒 海軍軍医少将
2 小林彦五郎 1921年 7月13日 - 1921年 7月19日 立教大学 立教女学院校長
3 渋沢栄一 1921年 7月19日 - 1931年11月11日   子爵 
(門馬常次) 代表理事(理事長制の一時廃止) 
4 沢田廉三 1942年 5月25日 - 1946年10月15日 東京帝国大学 外務事務次官、初代国連大使
5 渡辺八郎 1946年10月15日 - 1947年 6月30日 宮内省御用掛、学習院教授
6 関重広 1948年 1月10日 - 1962年 3月25日 東京帝国大学 東芝小田原女子短期大学
7 宮崎申郎 1962年 3月25日 - 1983年 7月 8日 東京帝国大学 イラク公使、立教大学教授
8 辻荘一 1983年 7月27日 - 1986年 6月18日 東京帝国大学 立教大学教授
9 小川清 1986年 6月18日 - 1987年 3月31日  
10 村田一也 1987年 4月 1日 - 1998年 6月21日  
11 吉村庄司 1998年 6月22日 - 2006年 6月20日 同志社大学 日本聖公会東京教区司祭
12 横倉正義 2006年 6月21日 - 2011年 3月31日  
13 山田晃二 2011年 4月 1日 - 三菱マテリアル

歴代学園長

氏名 在任期間 備考
石井亮一   立教大学卒、立教女学院教頭
2 石井筆子   東京女学校卒、静修女学校(現・津田塾大学)長
3 渡辺汀 海軍兵学校卒、男爵海軍大佐 
4 渡辺八郎  
5 高木逸磨 東京帝国大学卒、横浜医科大学(現・横浜市立大学医学部)長
(関重広)   ※事務取扱
6 高木逸磨  
7 渡辺八郎  
8 宮崎申郎    

その他学園関係者

映画テレビの舞台に登場

  • 2006年に公開されたドラマ映画『筆子・その愛 -天使のピアノ-』(現代ぷろだくしょん山田火砂子監督)は、創立者石井亮一の妻で、本学園二代園長の石井筆子を主人公にした作品で、常盤貴子が主演したこともあり、話題を呼んだ。
  • 2006年に公開されたドキュメント映画『無名の人-石井筆子の生涯』(ピースクリエイト、宮崎信恵監督)が2006年あいち国際女性映画祭で観客賞を受賞した。
  • 2006年12月20日にNHK番組「その時歴史が動いた」でも「母の灯火(ともしび)小さき者を照らして-石井筆子・知的障害児教育の道-」と題して石井筆子の生涯が放映された。
  • 2010年1月6日にTBS系列で放映された「新春皇室スペシャル2010」において、皇后美智子が滝乃川学園を私的訪問された様子が放映された。皇后は第2代学園長石井筆子が所有していた日本最古の輸入ピアノといわれる「天使のピアノ」を演奏。施設利用者や学園関係者と親しく交わる様子が放映された。

関連事項

外部リンク