安倍晋太郎

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テンプレート:政治家 安倍 晋太郎(あべ しんたろう、1924年大正13年)4月29日 - 1991年平成3年)5月15日)は、日本政治家。戦前から戦中にかけて衆議院議員をつとめた安倍寛の長男で、1957年昭和32年)から3年半内閣総理大臣を務めた岸信介の女婿にあたる。

東京大学法学部卒業後、毎日新聞記者となる。岸が石橋内閣外務大臣となったのを機に毎日を退社して岸の秘書となり、2か月後岸が総理となると内閣総理大臣秘書官となった。岸が総理在職中に亡父の旧選挙区から自由民主党公認で出馬して衆議院議員に初当選。以後1度の落選を挟んで当選11回。農林大臣官房長官通産大臣・外務大臣を歴任し、党では国対委員長政調会長総務会長幹事長を歴任。政界のプリンスと呼ばれ、ニューリーダーの一人に数えられて将来を嘱望され、派閥の領袖として次の総理総裁は確実といわれるまでに至ったが、それを目前にして病に倒れ死去。悲運のプリンスと呼ばれた。

その果たせぬ志を継いだのが、2006年(平成18年)から1年間総理を務め、2012年(平成24年)に総理に返り咲いた次男の安倍晋三である。

来歴・人物

生い立ち

政治家・安倍寛、静子夫妻の長男として東京に生まれる。生後間もなく郷里の山口に戻り幼少期を過ごす。山口県大津郡日置村(後に油谷町に分割→現長門市)の安倍家は、江戸時代、大庄屋をつとめ、醤油醸造を営み、やがて大津郡きっての名家と知られるようになった[1]

晋太郎が生まれて80日間で両親が離婚した[2]

父の寛は村長、山口県議会議員を経て、1937年第20回衆議院議員総選挙で衆議院議員に当選した。同期には三木武夫赤城宗徳がいる。反骨精神旺盛な気性から軍部に対しても一歩も引かず、太平洋戦争下でおこなわれた1942年第21回衆議院議員総選挙においても非推薦候補として選挙戦に臨んだ。

学生時代

山口中学校(現山口県立山口高等学校)に進学。母親が再婚していると聞かされる。上京し母親の居所を探すも、再会は叶わなかった。

一年間浪人した後、1943年岡山県第六高等学校に入学。翌年9月、わずか1年半で繰り上げ卒業となり東京帝国大学に推薦入学する。同時に海軍滋賀航空隊に予備学生として入隊[3]

戦後東大法学部に復学、1949年に卒業し毎日新聞社に入社。その間1946年1月29日父寛が心臓マヒで倒れ、翌年には“育ての親”ともいえる大伯母ヨシが他界した[3]

政治家として

1951年岸信介の長女・洋子と結婚し、1956年、岸が石橋湛山内閣外相として入閣したのを機に毎日新聞を退職し、外務大臣秘書官となって岸に仕えた。岸内閣が成立すると、内閣総理大臣秘書官に就任。外相秘書官になった頃から、総選挙に出馬を考えていたが、岸も岸の実弟の佐藤栄作も時期尚早と反対する中、「岸に迷惑がかかるなら、妻を離縁してでも」と決意し、1958年第28回衆議院議員総選挙に、郷里の旧山口1区から自民党公認も得て出馬、2位で初当選する(この時の総選挙では竹下登、金丸信が初当選しており、新人時代からの盟友関係が後の「安竹同盟」まで繋がった)。

1963年第30回衆議院議員総選挙では落選し、支持母体流動化など選挙区の情勢から政界への復帰が危ぶまれていたが、二回連続落選しては復活の目途が立たなくなるため、義父である岸信介元首相および叔父である佐藤栄作首相二人から異例の仲介が為され、同選挙区選出議員で地盤も重なる、吉田茂直系の大物議員周東英雄の後援会長を務めていた山口県水産業会の重鎮、藤本万次郎を後援会長に迎えることによって1967年第31回衆議院議員総選挙で衆議院議員に返り咲いた。このため、周東は政界を引退した。以降、安倍は死去するまで連続当選を続け、地盤は次男の安倍晋三へと引き継がれた。

生前の安倍は選挙区後援会の集会に於いては、「藤本万次郎さんは私にとってかけがえのない恩人であります」との一節を必ず演説に盛り込み、「郷土に恩を返す為にも、日本の舵取りを目指す所存であります」と締めるのが常であった。本籍地熊毛郡田布施町の岸と対岸の熊毛郡上関町祝島出身の藤本は、共に幼少時は「熊毛の神童」とうたわれ交流があったが、長じて二歳年上の岸に藤本が畏敬の念を持つ事となり、この交誼が期せずも岸の娘婿となった安倍の将来に関わることとなった。岸、佐藤、安倍はこの功績に報いるため、1968年の第8回参議院議員通常選挙では、藤本に山口選挙区から自由民主党公認で出馬を要請したが、藤本は辞退した。

その後の参議院山口県選挙区は、勇退予定であった二木謙吾参議院議員を引き続き務めることとなり、1974年も再出馬。1980年の第12回参議院議員通常選挙では、安倍が推し藤本万次郎が後援会長を務める江島淳に地盤を禅譲する事となったが、1987年二期目途中の江島の死去により、7月12日補選で二木の子息である二木秀夫に地盤は戻り、1998年の第18回参議院議員通常選挙では二木の地盤は後継者合志栄一へ引き継がれるも落選、無所属の松岡満寿男が当選する。2004年の第20回参議院議員通常選挙では、安倍の実子で岸家へ養子へ入った岸信夫が当選した。この議席は岸信夫の衆議院鞍替えによる[2013年の参議院山口県選挙区補欠選挙で江島淳の子息である元下関市市長の江島潔が就くこととなった。

自民党では、岸派とそれを継承した福田派に所属し、派閥領袖であった福田赳夫を支え、田中派との党内抗争「角福戦争」を争った。安倍は岸の全面的支援を背景として、福田派における世代交代の旗手と位置づけられていった。

政策面では、自民党農林・外交・国防各部会の副部会長、農林政務次官を務めるなど、農政を得意としながら外交・安全保障政策でも研鑽を積んだ。衆議院大蔵委員長を経て1974年三木武夫内閣において農林大臣として初入閣。以後、1976年自民党国会対策委員長を務め、1977年福田改造内閣内閣官房長官となる。1978年には福田の自民党総裁再選への流れを作るためには衆議院解散が有効と考えた安倍は「解散風」を煽るが、金丸信防衛庁長官が解散反対を公言する[4]などして解散は頓挫。同年暮れの総裁選で福田は大平正芳に敗れ、福田内閣は退陣する。

1979年から1981年まで大平総裁の下で政調会長を務めるが、福田派が大平と対立する中で、それぞれ籍をおく執行部と福田派の板ばさみになる。ハプニング解散の際には、政調会長と党執行部の一員でありながら内閣不信任決議採決直前に福田派議員によって議場から連れ出される一幕もあった。

政調会長退任直後に鈴木善幸内閣通商産業大臣に就任。この時期までに内閣・党の要職を次々と歴任し、総裁候補としての地歩を固めたが、当時の派閥会長であった福田が政局の節目で再登板に意欲を示したため派閥の継承は遅れる形になった。安倍は派内の若手から支持を得ていたものの、長老たちを掌握しきれていなかったのである。

1982年鈴木善幸の首相退陣表明後、田中派の支援する総裁候補中曽根康弘に対抗すべく、福田は安倍の総裁選出馬への支持を表明。総裁予備選開催に必要な4人の立候補者を出した上で河本敏夫を総理総裁とする反田中派政権を樹立する目論見[5]であったが、安倍への党員の支持が伸び悩み、泡沫候補と思われていた中川一郎にも脅かされ最下位に転落する可能性も見えた。岸は最悪の場合、安倍の将来に関わると考え、立候補取りやめを要求したが容れられなかった。予備選の結果は3位だったが、中曽根が過半数を大きく上回る得票で1位につけたため、河本以下の候補は本選挙を辞退し、ここに福田派の目論見も潰えた。

中曽根は安倍に閣僚人事の相談をするなど、安倍重視の姿勢を見せる。中曽根康弘内閣では外務大臣として入閣し、連続4期務めた。安倍は語学力や海外人脈を有する国際派というわけでもないので、入閣当初はやや門外漢とされていた。

ただし、義父・岸信介の米国人脈を生かし、韓国などアジア諸国との外交にも尽力したこともあり、マスコミなどでは「外交の安倍」という評価を受けるようになった。一方でパフォーマンスに長けた中曽根の陰に隠れ、外相としても新機軸を打ち出せずに終わったとも言われ、ポスト中曽根を目指して打ち出した政策である「グローバル・ニューディール」も、国民世論の理解を得たとは言い難かった。また、長きに渡って激務である外相を任されたことが、寿命を縮めた面も否めない。

1986年、衆参同日選挙となった第38回衆議院議員総選挙で自民党が大勝し、第3次中曽根内閣で、安倍は党総務会長に就任。同時に派閥会長の座も禅譲された。中曽根の総裁任期満了により、後継総裁候補として安倍、竹下、宮沢が出馬するが、中曽根の巧妙な戦略とニューリーダーたち自身のひ弱さにより、結局は中曽根に指名権が握られ、世論などでは雰囲気として安倍有利とされたが、結局、中曽根は竹下を後継総裁に指名した(中曽根裁定)。この際竹下が自分を総裁にするのに協力すれば次は安倍に譲ると禅譲を持ちかけたという説もあるが、当時彼の秘書であった次男の晋三ら関係者は否定している。後継総裁を逃したことで、当時安倍派の中堅議員だった小泉純一郎が激怒し、他の議員たちの前で安倍を叱咤したという。

1987年竹下内閣が成立し、安倍は自民党幹事長に就任。消費税導入などで国会対策の先頭に立ち、「ポスト竹下」の最有力候補として自他共に認める存在であった。

発病・死去

1988年、自身の秘書がリクルートコスモス(現「コスモスイニシア」)の非公開株を譲り受けていたためにリクルート事件に巻き込まれたが、その最中に膵臓癌が判明し緊急入院を余儀なくされた(当時は、リクルート事件のほとぼりを冷ますための避難入院と見る政治評論家もいた)。1989年5月、表向きには「総胆管結石治療」と称して手術を受けた。1990年1月にはソビエト連邦を訪問。総理・総裁就任に向けて、全国各地で安倍派の新人議員を擁立し、同年2月に行われた第39回衆議院議員総選挙では、自派から若手議員を大量に当選させた[6]。同年6月に訪米するが、8月に病状が悪化し入院。9月に予定されていた訪ソを断念したが、病身を押してソビエト連邦初代大統領ミハイル・ゴルバチョフの来日に尽力、ゴルバチョフとの会談を行ったが、これが最後の政治活動となった。

1990年9月に再入院。次男の晋三から「です」と告げられた時、「ああ、やっぱりそうか」と反応しただけだったという[7]

1991年5月15日、入院先の東京都文京区順天堂大学医学部附属順天堂医院で死去。テンプレート:没年齢

年譜

吉田松陰記念館の安倍晋太郎人形

地元・山口県萩市松蔭神社境内にある吉田松陰記念館には、山口県出身の歴代総理大臣の蝋人形が展示されている。1985年、将来の「安倍総理誕生」を見越して、安倍の蝋人形が作られ展示された。他の歴代総理大臣の近くに並べられた等身大の安倍の蝋人形は、ひときわ背が高く目立っていた。安倍が総理大臣になった暁には、一つ前に山口県から選出された佐藤栄作の隣に移す手筈であったが、総理にならないまま安倍は他界した。記念館では、歴代総理と安倍の蝋人形を並べて展示するわけにはいかず、脚部を改造し椅子に座る姿に変えた上で「郷土の政治家」として片隅に展示することになった。

関係する人物や団体

義父・岸信介は「国際勝共連合」・「統一教会」(世界基督教統一神霊協会)と友好的な協力関係を持っていたが、晋太郎も同じく、関連が深いとの見方がたびたび取り沙汰されていた。「自民党内部の統一教会シンパとしてさかんに議員に統一教会員を秘書として紹介し、セミナーへの勧誘をしていた[8][9]」と言われており、1999年には『週刊現代』が統一教会と国会議員の繋がりを暴いた記事で「安倍晋太郎氏がセミナー等への勧誘を行っていた」と報じた(参考:スクープ! 公安の極秘資料入手現職国会議員128人の「勝共連合・統一教会」関係度リスト(週刊現代, 99年2月27日号) 阿修羅掲示板より記事原文画像[9])。事実、統一教会は晋太郎を総理大臣にするべく応援[10]してきており、当時、竹下を後継指名した中曽根を強く非難していた。

テンプレート:要出典範囲

その他

テンプレート:単一の出典 晋三が内閣総理大臣に就任した2006年9月には、『週刊朝日』(10月6日付)テンプレート:信頼性要検証 で晋太郎の家の元家政婦が晋太郎が生前、自ら「私は朝鮮(人)だ。朝鮮」と言っており、家政婦自身も、晋太郎の入棺のときその骨格を見て朝鮮人だと思ったという記事が載った。統一教会系の韓国の『世界日報』(セゲイルボ)もこの『週刊朝日』の記事を引用した。

家族 親族

安倍家

(山口県長門市東京都
  • 祖父 彪助
  • 祖母 タメ
  • (政治家)
  • 母 静子(山口県、軍人大島義昌陸軍大将子爵の孫娘)
  • 妻 洋子(山口県、官僚、政治家岸信介首相の長女)
  • 長男 寛信(三菱商事パッケージング社長)
    同妻 幸子(ウシオ電機会長牛尾治朗の長女)
    牛尾治朗は「僕と安倍さんは二十年来の友人で、安倍さんの後援会のひとつ『総晋会』の会長を務めている。親同士が旧知の仲だというのはありがたいが、それだけに少々とまどっている。これからはいままで以上に節度を持って交際しないと寛信くんや娘にも失礼になりますなぁ」と述べている[11]
  • 二男 晋三(政治家・第90・96代内閣総理大臣) 
    同妻 昭恵森永製菓社長松崎昭雄の長女)
  • 三男 信夫(政治家、岸家へ養子)
  • 異父弟 西村正雄銀行家日本興業銀行頭取)

参考文献

演じた俳優

脚註

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関連項目

外部リンク


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テンプレート:S-off |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
櫻内義雄 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 外務大臣
第112・113代:1982年 - 1986年 |style="width:30%"|次代:
倉成正 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
田中六助 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 通商産業大臣
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山中貞則 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
園田直 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 内閣官房長官
第41代:1977年 - 1978年 |style="width:30%"|次代:
田中六助 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
倉石忠雄 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 農林大臣
第46代:1974年 - 1976年 |style="width:30%"|次代:
大石武一 テンプレート:S-par |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
鴨田宗一 |style="width:40%; text-align:center"|テンプレート:Flagicon 衆議院大蔵委員長
1973年 - 1974年 |style="width:30%"|次代:
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第29代:1979年 - 1981年 |style="width:30%"|次代:
田中六助 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
海部俊樹 |style="width:40%; text-align:center"|自由民主党国会対策委員長
第22代:1976年 - 1977年 |style="width:30%"|次代:
三原朝雄 |-style="text-align:center" |style="width:30%"|先代:
福田赳夫 |style="width:40%; text-align:center"|清和会会長
第2代:1986年 - 1991年 |style="width:30%"|次代:
三塚博

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テンプレート:清和政策研究会会長
  1. 野上忠興著 『気骨 安倍晋三のDNA』44頁
  2. 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』217頁
  3. 3.0 3.1 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』218頁
  4. 衆議院会議録情報 第084回国会 内閣委員会 第22号 1978年6月6日 衆議院内閣委員会議事録
  5. 党所属国会議員による本選挙だけでは中曽根を支持する田中派・鈴木派・中曽根派の主流三派の優位を動かせなかったが、1978年の総裁選で予備選の結果を受けて福田が本選挙辞退に追い込まれた前例があった。河本、あるいは安倍・中川を含む非主流派候補の得票が中曽根を上回れば政局で優位に立てるという思惑があった。
  6. この時当選した1年生議員に福田康夫石原伸晃河村建夫松岡利勝などがいる
  7. 『気骨 安倍晋三のDNA』 169頁
  8. テンプレート:要出典範囲
  9. 9.0 9.1 『週刊現代』(1999年2月27日号)」
  10. 「統一教会」の教祖、文鮮明は「日本の今度の選挙だけでも、私たちが推してあげたのが百八議席当選した。」、「派閥で見れば、中曽根派は六十二議席にもなって、安倍派は八十三議席。私が全部そういうふうに作ってあげた。」と述べている(韓国の『統一教会』機関紙『統一世界』1990年4月号)
  11. 神一行著『閨閥 改訂新版 特権階級の盛衰の系譜』224頁