中川一郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索

テンプレート:政治家

中川 一郎(なかがわ いちろう、大正14年(1925年3月9日 - 昭和58年(1983年1月9日)は日本政治家。元衆議院議員自由民主党の派閥・中川派の領袖。正三位勲一等農林大臣(第49代)、農林水産大臣(初代)、国務大臣科学技術庁長官(第35代)。

北海のヒグマ」と呼ばれ、タカ派議員として知られていた。元衆議院議員中川昭一は長男。中川義雄参議院議員は実弟。

来歴・人物

生い立ち

北海道広尾郡広尾町農業中川文蔵、セイの長男として生まれた。祖父・五八郎の時代に富山県福光町から北海道広尾郡広尾村にある山奥の開拓地に移住した農民の出である[1]

出身地の広尾について、政治評論家の今井久夫によれば、「なにしろ広尾というところは北海道の中央を北から南に貫く日高山脈太平洋に没するその海岸線の北に位置する小さな部落である[2]が生きながらクマに喰われるところであった[2]。人々はその馬の泣き声を何度も聞いた[2]。」という。

文蔵は14歳の時北海道に渡り道東の僻地を選んで開拓に従事した[2]。母セイは山形県出身[2]。一郎には北国の血が流れている[2]

一郎は10人の兄弟姉妹の長男とされているが、実際には長男の竜太郎が生まれて間もなく、いろりの火にころがり落ちて焼死[1]長女のミヨも夭折[1]。姉の節子、敏子のあとに生まれた男児のため、一郎と名付けられ、“長男扱い”された[1]

子だくさんの文蔵とセイは一生懸命働いた[3]

学生時代

小学校2年生の時、父文蔵開拓地を離れて町なかに住み、雑貨商兼家畜商に転じた[1]。学校での得意な科目は一貫して算数・数学であった[1]

豊似小学校時代の一郎は、小柄でおとなしかった[4]。学校では勉強に精を出し、家に帰っては両親を助けて野良(のら)仕事にはげんだ[4]

一郎の筋骨たくましい身体は小さい時からの労働の名残である[3]

北海道庁立十勝農業学校宇都宮高等農林学校(現在の宇都宮大学農学部)を経て昭和22年(1947年)9月九州帝国大学農学部農業土木科[5]卒業。中川個人の希望としては農林省の役人になりたかったが、東京にいたのではメシが食えないと懸念し、志願して北海道庁に入った[6]

当初は家業を継ぐ予定だったが、広尾町議に出世した父の文蔵北海道庁に陳情に出かけた際、ろくに相手にもされなかった口惜しさから、「お前は役人になれ」と命令され、両親思いの一郎は、父の命ずるまま役人になった[7]

北海道開発庁時代

中川が北海道に戻った時、北海道は社会党の天下であり革新系の田中敏文社会党に担がれて北海道知事に当選した。田中は九大の先輩にあたる。中川を可愛がっていた教授がわざわざ紹介状を書いてくれた。中川はその紹介状を持参して、田中を訪れたが、来客が多くなかなか面会しようとしない田中にしびれを切らし、紹介状を焼いてしまった[8]

昭和26年(1951年)、北海道開発庁が設置され、開発担当官となる。昭和28年(1953年大野伴睦北海道開発庁長官の秘書官を務め、大野に見出されることとなる。

大野伴睦長官は、わずか七ヶ月の在職で、自民党総務会長に転じた。後任の長官は、緒方竹虎。副総理との兼務であった。中川はそのまま、緒方長官のもとでも秘書官を務め、第5次吉田内閣総辞職のあと、開発庁の開発専門官に異動させられた[9]

政治家秘書として

大野は昭和34年(1959年)、中川に「役人を辞めて俺の秘書になれ」と要請。父文蔵は大反対した。しかし大野に惚れ込んだ中川は、12年間の役人生活に別れを告げ、身分の不安定な政治家秘書になる決意をしたが、父の文蔵は「こんな馬鹿な息子とは思わなかった。まあ交通事故で死んだと思って諦めるから、おまえの好き勝手にしろ」と突き放した[10]

政治家として

昭和38年(1963年)、大野の勧めで旧北海道5区から第30回衆議院議員総選挙に出馬し、初当選(当選同期に小渕恵三橋本龍太郎田中六助伊東正義藤尾正行鯨岡兵輔西岡武夫奥野誠亮三原朝雄など)。初代の後援会会長は幕別町の吉田菊太郎である。

佐藤栄作田中角栄両首相から大蔵政務次官に任命され、昭和52年(1977年)に福田内閣を自民党国民運動本部長として支え保守派の活動通じて親交有った作曲家黛敏郎に新たに立ち上げる党友組織自由国民会議初代代表就任要請し受諾賜り、同年の福田内閣改造内閣農林大臣省庁改称のため、1978年7月5日より農林水産大臣)、鈴木善幸内閣では科学技術庁長官に就任した。

昭和48年(1973年)には渡辺美智雄石原慎太郎らと「青嵐会」を結成、若手タカ派として名を売った。福田赳夫に私淑し、後年は、福田と政治行動を共にする。

昭和53年(1978年)自民党総裁選挙で、福田が敗れ、12月6日に内閣総辞職をしたが、「予備選はインチキだ」として、農水相辞任に際し、福田内閣の最後の閣議で、内閣総辞職の署名を断固として拒否しぬいた[11][12]。単なるポーズや嫌がらせでなく、大平政権誕生阻止のため、喧嘩師・中川一郎が最後の大博打に打って出たと思われた[13]

昭和54年(1979年)には石原、長谷川四郎松沢雄蔵長谷川峻らを結集して、自由革新同友会(事実上の中川派)を結成。

昭和57年(1982年)10月自民党総裁選挙・予備選に中曽根康弘、中川、河本敏夫安倍晋太郎らが立候補した。当時は立候補に国会議員50名の推薦が必要であったため、福田派から安倍に投票する予定の議員の名前を借りての出馬だった。結果は、中曽根一人で全党員の六割近い支持票を集め、中川は最下位だった。

晩年

昭和58年(1983年)、札幌パークホテルのバスルームにて自殺。その死にはいくつかの疑問点があるとして、今もって議論されることがある。

総裁予備選挙が終わってから中川は「夜、眠れない」と強く訴えるようになり、睡眠薬を服用していたという[14]

衆議院での追悼演説は安井吉典[15]

エピソード

思想

中川は自他ともに認める熱烈な国粋主義者で、反共主義者だった[16]

愛称

愛称は、“北海のひぐま”、“十勝のじゃがいも”など。

今井久夫の著書『反骨の宰相候補 中川一郎』109-110頁によると、「中川が福田の蔵相の下で、はじめて大蔵政務次官になった時、中川を“北海道のひぐま”と呼んだのは福田である。それまで中川は、北海道の地元では“十勝のじゃがいも”といわれていた。中川を見ているとやっぱり“じゃがいも”より“ひぐま”の方がぴったりする。以後、地元でも中川を“ひぐま”あるいは略して“くま”と呼ぶようになった。このように福田はアダ名をつける名人である」という。

憲法9条改正論者

農林水産大臣であった昭和53年(1978年)10月6日、週刊誌などでの発言で解任された栗栖弘臣統合幕僚会議議長の「超法規発言」について、衆議院予算委員会で民社党大内啓伍から見解を求められ、「憲法についても改正すべきだという議論があるということも十分耳を傾けなければならぬ」と述べた[17]

ペルソナ・ノン・グラータ

CIAの諜報(ちょうほう)活動により、上記のように表向きは反共を唱えながらも裏では親ソ政権の樹立を画策していたと見なされ、1983年1月首相の名代としてのアメリカ合衆国訪問に際しペルソナ・ノン・グラータを受ける[18]。こうしたことが彼の死にまつわる疑惑を形成することにもなった。

中川と酒

選挙にも、酒にも、けんかにも強い中川だったが、ある時期から、強いはずの酒が中川の人生を狂わせ始めた。酒飲み仲間の玉置和郎がその変わりようを証言する。「中川一郎の酒の飲みっぷりは本来、朗らかそのものだった。酔っぱらうとね、もっている財布芸者たちにバーンと投げ出す。好きなだけもっていけというわけだ。だから芸者にもてた。元来が、お金というものにあまり執着しなかった。それが同友会をつくった頃からかなあ、酔っぱらうと前後不覚になり、崩れるようになった。同時に愚痴っぽい酒飲みとなった。いつだったかも、腰が抜けるほどに酔っぱらってね、小便しに行くのに、どこが便所だかわからなくなり、ドアのところで放尿しようとするんだ。あわてて便所まで連れて行き、無事にすんだけど、ああいうこと、昔はなかったな。」[19]

国会議事堂の敷地内で立ち小便しているところを写真週刊誌に撮影されたことがある。今井久夫の著書『反骨の宰相候補 中川一郎』226頁によると、「を飲んだあとの生理現象として、前をまくって放水する。これはだれでもやることであって、とがめるわけにはいかない。ところが中川はトイレにいかないのである。時には二階の窓から下の道路目がけて雨を降らせ、また時には部屋の隅のタンにそそぎこむ。そして呵々大笑してどてんと横になると、たちまちいびきをかいて寝てしまう。まことに天衣無縫、豪快きわまる酔いつぶれ方である」という。

自殺説と他殺説

1983年1月9日、札幌パークホテル10階1022号室バスルーム[20]にて死んでいるのを貞子夫人が発見。死因は第1報が「急性心筋梗塞」、2日後に「自殺」に訂正された。突然の訃報を聞いて駆けつけた堂垣内尚弘北海道知事をはじめ、直後から不審に感じた関係者は多数おり、関連する証言も多い。遺書も無く、また急ぐように2日後には火葬したことや、死因の変更等でにわかに「他殺説」が浮上した。直前、中川は当時第一秘書だった鈴木宗男と口論した噂はあるが、根拠はない。中川の秘書から北海道選挙区選出参院議員となった高木正明が本人の名誉を考え早急の火葬を行う指示を行ったとされる。他殺説は事実無根として、鈴木をはじめ関係者一同が抗議している。

『悶死 中川一郎怪死事件』251頁によると、「中川一郎突然死のあと、巷に流れ出た“噂話”には、さまざまなものがあった。ソ連の対日工作員レフチェンコから中川一郎が巨額な政治献金を受け取っていたのを、中曽根・後藤田ラインに知られ、暴露するぞと脅され、悩んでいたとの話に始まり、総裁選で膨大な金を使いすぎ借金返済に困窮していた、ソ連のKGBに謀殺された、ニュージーランド沖のイカ漁や韓国の水産関係者との利権を“角筋”によって絶たれた、さらには、総裁選挙後に“肝臓ガン”を告げられ悩んでいた等々などが主なものである。いずれも根拠のない、無責任な“噂話”ばかりである」という。

なお2010年10月に鈴木議員は、中川が1975年7月に世界銀行の招待で南アメリカ諸国を歴訪する出発前日に全日本空輸の藤原経営管理室長と料亭で会食した際に、「餞別」として100万円を受け取ったこと。さらに後の特捜部による「ロッキード事件」の「全日空ルート」の捜査の過程でこのことが明らかになり、1976年8月に特捜部からの事情聴取を受けていたことを月刊誌「新潮45」の記事内で証言している。なお鈴木議員は、この事を後の1982年福田赳夫に追及されたことが自殺の原因となったとも記しているが、これに対しては貞子夫人が否定している[21]

妻貞子との関係

中川一郎と貞子が結婚したのは、昭和26年(1951年7月9日)。札幌市中央区南14条西4丁目にある弥彦神社で、神前結婚式が行われた。二人の結婚に当初から反対していた一郎の父・文蔵は姿を見せなかった[22]

中川の夫婦仲の悪さは、政界でかなりな程度知られていた。中川にとっては兄貴分的存在で、政治の指南役でもあった金丸信は「一度忠告してやったことがあるんだ。女房が怖いとか、俺の言うことに従わないって、あまりにもこぼすので、『そんな女房は思いきり殴りつけてやれ。そしたら亭主の言うことに従うようになる。心配するな』と教えたんだ。私の忠告どおり女房を殴りつけていればこんなこと[23]にはならなかったかもしれないな」、「総裁選後の中川君と、それ以前の中川君とは、もう全然違う人間のように変わった。以前の彼と違って、以後の彼は、もうクヨクヨ、クヨクヨして話にならんのだ。目やになんか出しちゃったりしてね。顔じゅうに吹き出物がブツブツと出ているし。それで“キミ、なんか疲れているのと違うんか。目やにや吹き出物がどうしてでるんだ”って健康に注意したことがある。あとで考えてみれば、もうその頃から睡眠薬なんてものを奥さんが惜しげもなく大量に飲ましていたらしい。ウイスキーとの併用の弊害を無知で飲ましたとすれば許せるけれど、無知でなくて、承知で飲ましていたとすれば、これはもう許せないことだ」と述べている[24]

妻貞子と中川一族

貞子夫人は中川一族の血を憎むだけでなく、中川一郎の生活スタイルからスマートさのかけらもない“百姓あがり”のずんぐり、むっくりした武骨な体軀そのものまでを嫌った[25]

一方皮肉なことに、中川一郎は、開拓農家出身であることを誇りにし、政治家になってからはその土着性、庶民性にあふれたムードを売りものにさえした」[25]。中川夫妻は、この一点だけでも“似合いの夫婦”の正反対、趣味から好き嫌い、人間の付き合いかた、生きざまとすべてが相反する、世にも稀なカップルであった」[25]

長男の昭一には兎唇障害があったため、幼児期と東大を卒業してからと二度にわたり、兎唇であることがわからぬよう手術を受けた[26]。したがってその後はほとんど目立たなかったが、問題は一回目の手術の際、貞子のとった態度である[25]。手術代を払えぬほど貧乏していたわけではないのに、「これはあなたがた中川兄弟のに問題があるのですから、あなたがたでお支払いください」と冷たく言い放って、手術代を本家の中川正男に支払わせた[25]。“マドンナ賢妻”に頭のあがらない一郎は妻の冷酷な仕打ちに人知れず泣き、兄弟姉妹には「申し訳ない。我慢してくれ」と頭を下げ詫びて回った[25]

その他

北海道に生まれ育った中川だがスキーができなかった。貧しさのためというより、病弱の母を助けて家事やの世話に追われ、学校から帰っても遊んでいる暇がなかったからという[27]

昭和63年(1988年)故郷広尾町に中川一郎記念館が完成した。食肉卸業大手ハンナンの元オーナー浅田満は記念館の建設費として3億円支払っている[28]。大学時代の愛読書だった河上肇の「貧乏物語」(岩波文庫)、初代大臣として自らが揮毫した農林水産省の看板のレプリカなどが展示されている。また敷地内には、片手を上げ軽く頭を下げて「ヨッ!」とあいさつしながら歩く、という生前お得意だったポーズの銅像が立ち、台座の揮毫は盟友であった安倍晋太郎の手になる。なお敷地の芝生は後にパークゴルフ場に改修された。

家族 親族

中川家

富山県西礪波郡福光町(現南砺市)、北海道広尾郡広尾町東京都
実家
富山県西砺波郡福光町(現南砺市)出身。昭和53年(1978年)没[29]。あだ名は“拙者(せっしゃ)文蔵”。“拙者文蔵”というのは文蔵が改まった時に使う一人称である。つまり文蔵は「拙者(せっしゃ)文蔵…」と切り出すような明治の古いタイプの人間であった[3]
  • 母・セイ山形県出身)
  • 兄・竜太郎
生まれて間もなく、いろりの火にころがり落ちて焼死した[30]
  • 姉、妹(一郎の姉妹は計5人いる)
正男雑貨商、政治家・元広尾町議)
健三倉庫業)
義雄北海道庁職員、政治家)
自家
昭和28年(1953年)7月生 - 平成21年(2009年)10月没
  • 次男
他家

論文

参考文献

  • 今井久夫 『反骨の宰相候補 中川一郎』1979年
  • 内藤國夫 『悶死 中川一郎怪死事件』 1985年
  • 『昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち』 宝島社 2005年 35頁

演じた俳優

関連人物

関連項目

脚注

テンプレート:脚注ヘルプ テンプレート:Reflist

外部リンク

テンプレート:農林水産大臣 テンプレート:文部科学大臣 テンプレート:総理府原子力委員会委員長

テンプレート:衆議院運輸委員長
  1. 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 『悶死 中川一郎怪死事件』 73頁
  2. 2.0 2.1 2.2 2.3 2.4 2.5 『反骨の宰相候補 中川一郎』239頁
  3. 3.0 3.1 3.2 『反骨の宰相候補 中川一郎』240頁
  4. 4.0 4.1 『反骨の宰相候補 中川一郎』241頁
  5. 昭和22年(1947年)10月1日 九州帝国大学は九州大学と改称( 九州大学農学部-沿革-テンプレート:リンク切れ
  6. 『悶死 中川一郎怪死事件』74頁
  7. 『悶死 中川一郎怪死事件』74頁
  8. 『反骨の宰相候補 中川一郎』246-247頁
  9. 『悶死 中川一郎怪死事件』76頁
  10. 『悶死 中川一郎怪死事件』76頁
  11. テンプレート:Cite web
  12. 『悶死 中川一郎怪死事件』103頁
  13. 『悶死 中川一郎怪死事件』104頁
  14. 『悶死 中川一郎怪死事件』132頁
  15. 衆議院会議録情報 第098回国会 本会議 第11号 (1983年3月11日)
  16. 『悶死 中川一郎怪死事件』102頁
  17. 第85回国会 衆議院予算委員会 第5号 (53.10. 6) 議事録
  18. 加藤昭『鈴木宗男研究』ISBN 978-4104536016(PP24-26)
  19. 『悶死 中川一郎怪死事件』86頁
  20. 「カメラがなくても写真は撮れる!! ― 北の写真記者奮闘記」(著:河野誠廣済堂出版、ISBN-10:4331508021)
  21. 『鈴木宗男氏が故中川一郎氏の自殺語る』十勝毎日新聞 2010年10月22日
  22. 『悶死 中川一郎怪死事件』139頁
  23. 中川が自殺したこと
  24. 『悶死 中川一郎怪死事件』41-42、131頁
  25. 25.0 25.1 25.2 25.3 25.4 25.5 『悶死 中川一郎怪死事件』 141頁
  26. 『悶死 中川一郎怪死事件』 140-141頁
  27. 『悶死 中川一郎怪死事件』73頁
  28. 『昭和・平成 日本 黒幕列伝 時代を動かした闇の怪物たち』 35頁
  29. 『悶死 中川一郎怪死事件』150頁
  30. 『悶死 中川一郎怪死事件』73頁
  31. 『悶死 中川一郎怪死事件』194頁