大伴氏

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テンプレート:日本の氏族 (古代氏族) 大伴氏(おおともうじ/し、のち伴氏)は、「大伴(伴)」をとする氏族

古代日本の有力の一つ。(かばね)は、八色の姓の時宿禰の姓になる。天孫降臨の時に先導を行った天忍日命の子孫とされ、佐伯氏とは同族関係であるとされている(一般には佐伯氏を大伴氏の分家とするが、その逆とする説もある)。


概要

「大伴」は、「大きな伴造」という意味で、多くの氏族を束ねていたとされる。そのため、物部氏と共に軍事の管理を司り、両氏族には親衛隊的な大伴氏と、国軍的な物部氏という違いがあり皇宮警察近衛兵のような役割をしていた。

大和の拠点が磯城・磐余地方に集中していた。河内には大伴金村の「住吉の宅」(『日本書紀』欽明元年(540年)九月己卯条)があり、「大伴の御津の浜」(『万葉集』1-63・68)「大伴の高師の浜」(同1-66)と詠われている。住吉は倭王権の重要な港であった住吉津が所在したところであるし、「御津」は難波津、「髙師」は現高石市一帯のことであり、摂津から和泉にかけて拠点を所持していたことは、5世紀から6世紀にかけて外交・外征面において、倭王権では重要な役割を果たしていたものと考えられる。

全盛期

雄略天皇の時代の5世紀後半の大伴室屋(むろや)の時代より勢力を伸ばし、武烈天皇の代に孫の大伴金村(かなむら)が大連になった時が全盛期であった。金村は継体天皇を迎え入れた功績があり、また任那の運営を任されており、武烈、継体、安閑宣化欽明の5代にわたって大連を務めたが、欽明天皇の時代に百済へ任那4県を割譲したことの責任を問われ失脚し、摂津国住吉郡(現大阪市住吉区帝塚山)の邸宅に篭る。以後、蘇我氏物部氏の対立の時代に入る(なお、これについては黒岩重吾は実際には即位していない安閑・宣化と欽明天皇の帝位継承争いに巻き込まれて失脚したと主張していた)。

飛鳥時代から奈良時代

しかし、大伴氏の力はまだ失われておらず、飛鳥時代大化の改新の後、649年大伴長徳(ながとこ)が右大臣になっている。また、672年壬申の乱の時は長徳の弟にあたる大伴馬来田(まぐた)・吹負(ふけい)兄弟が兵を率いて功績を立てており、以後、奈良時代までの政界で大納言中納言参議等が輩出している。

また、大伴安麻呂大伴旅人大伴家持大伴坂上郎女などといった歌人を多く世に出している。遣唐使大伴古麻呂などがあり、彼は鑑真を日本に密航させた。

政争への関与と衰退

大伴氏は奈良時代の政争に関わる事が多く、長屋王の変では長屋王と親しかった旅人は事件前後に一時的に大宰府に左遷された程度で済んだが、橘奈良麻呂橘諸兄の息子)の変では古麻呂は拷問死、大伴古慈悲は流罪(称徳天皇崩御後に復帰)に処された。この事件には家持は関与していなかったが、後に藤原仲麻呂の暗殺計画に関わっていたとされ、左遷される。その後、壬申の乱で擁立した天武天皇とは別系統の桓武天皇が即位すると、今度は氷上川継の乱への関与を疑われて、再び左遷されてしまう。それでも彼は783年中納言に昇進したが、翌年長岡京への遷都を桓武天皇は実行する。大伴氏はこの政策に不満を持っており、指揮していた藤原種継を暗殺する事件を起こしたとされる。結果、古麻呂の子で首謀者とされた大伴継人は死刑、直前に死去していた家持は除名、それぞれ継人・家持の子である伴国道大伴永主流罪となる。

しかし、それでもまだ完全に衰退したわけではなく、平安時代初期の桓武朝においても、大伴弟麻呂は初代征夷大将軍となって坂上田村麻呂と共に蝦夷を討ち、後期の803年には国道が赦されて帰京し、参議に昇進している。彼の晩年の823年には淳和天皇(大伴親王)の名を避けて伴(とも)と氏を改める。

その後、清和天皇朝に国道の子、伴善男(とものよしお)が頭角を現し、864年に久々に大納言を出すが886年源信の失脚を図った応天門の変に絡んでいることが判明し(宮廷から他氏族を排除する目的で行われた藤原氏による陰謀説が有力である)、伊豆流罪になる。これは結果的に政争に幾度か関わりながらも、由緒ある貴族として命脈を保ってきた伴氏に打撃を与える事となる。

その後

939年には伴保平参議となり、久々に公卿が出たが、既に72歳の高齢で、950年に引退して以降は公卿は出なくなる。平安時代前期には、紀氏と並んで武人の故実を伝える家とされたが、武士の擡頭とともに伴氏は歴史の表舞台から姿を消していく事となり、その後は伴忠国鶴岡八幡宮初代神主となって以降、その社職を継承しながら血筋を伝えていく事となる。受領国司)から地方に土着し、武士団化した氏族も各地に残っている。源頼義義家に仕えた大伴員季伴助兼は代表的な例である。

系図

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関連項目

外部リンク